番外四 「元子の不思議な休日」
中国の後漢末期の乱世を描いた三国志が、元子は好きだった。男たちの生き様に時に喝采し、時に涙し、夢中になった。小学四年生の時に漫画で知ったのが始まりだ。元子が生まれる前の作品なのに、全く古臭く感じない、躍動感に溢れた作品だった。
学校の図書館に置いてあり、のめりこんだ。それから小説にも手を出すようになった。何人もの作家が描いていて、中には小難しい文体のものもあったりして苦労したが、そのほとんどを読み漁った。
今もまた、過去に読んだ作品ではあるけれど、読み返している。この作者の三国志は、もう十度は読んだかもしれない。何度読んでも、読み飽きないのだ。
冷房の効いた部屋で、ソファに沈み込んで三国志の世界に浸る。最高の時間だ。夏休み中の、たった三日間という貴重な休み。この三日間は、ひたすら堕落して過ごす予定でいた。
その準備も完璧で、宿題はすでに全て終わらせているし、お腹が減った時のためにクッキーやマフィンを手作りしてビン詰めにして、飲み物も用意しておいた。部屋から出る必要がない。誰にも邪魔されず、本の世界に浸るのだ。
ちょうど五冊目を読み終えて、六冊目を棚から出そうと立ち上がった所で、部屋の扉がこんこんと音を立てた。今日から三日はそっとしておいてくれと言っておいたはずなのに。
嫌な予感に、眉をひそめる。
「何?」
遠慮がちに扉が開けられ、隙間から父親が顔を覗き込ませた。
「元子、暇か?」
「忙しい」
「暇だな」
「忙しいってば。本読むの」
「それをな、世間では暇というのだ」
ずけずけと、乙女の部屋に入り込んでくる父親。その態度に顔をしかめて、元子はソファに座り込んだ。ぼふ、と音を立てて、身体が沈み込む。
「何の用? そっとしておいてって言ったじゃない」
「ちょっとな、仕事をまた手伝ってくれるか」
「店番でしょ? 嫌です」
「ま、そう言わずに。それに、店番ではなく今来ている客の相手をしてほしい。ミケがまだ扉の前におるのだよ。この後も、客が来る」
「あー」
家で飼っている猫のミケは、店に客が来る事を事前に察知する不思議な力がある。店の扉は様々な場所と繋がっていて、どの場所からその客が来るのかも分かるらしく、そういう時は必ず自分で扉をその場所と繋げて出ていき、扉の外に置いてある椅子の上に乗って待ち構えている。
元子が生まれた時にはすでに飼われていたのに、未だに年を取っている様子がない、不思議な猫だ。父親の相棒らしい。
「……何、仕事って」
わざわざ頼みに来るという事は、緊急なのだろう。父親が外に出られないのなら、元子がやるしかない。
「今来ている客は、影なんだ。はぐれた主を探してほしいそうだ」
「影?」
「ああ。猫が主らしい。あちこち移動するようで、見失ったらしい」
「面倒だね。見つかるの、そんなの」
影は、この世の全てのものについている。光が存在する限り、影はなくならない。普通の人からすれば影は単なる影でしかないけれど、影の中には自分の意思を持つモノがいる。そうした影は、時折主とはぐれてしまう時があり、そうなると、主を探してくれと父親に依頼に来るのだ。
長く主と離れすぎた影は、その存在を保てなくなり、消えてしまう。
「ミケを連れて行って良いぞ。ミケが他の猫と通訳してくれるだろう」
「ミケはお客を待つんじゃないの? それに私、ミケと話せないんだけど」
「いや、緊急の要件だからな、ミケも了承してくれている。ミケはお前の言葉がわかるから大丈夫だ。案内してくれる」
「それ、ミケに任せておけば良いじゃない。私は要らない気がするんだけど」
「そうもいかん。ま、頼む」
「……はいはい」
手伝い自体は嫌いではない。面白いものにも出会えるし、退屈しないからだ。今回のような人探し的な簡単な仕事の場合、元子が任される時もある。将来的には父親の仕事を継ぐ予定だから、その練習をさせられているのだろう。
ただ、貴重な休みが潰れるのは間違いない。
元子は、ため息をついた。さっきまで脳内を満たしていた三国志の世界が、霞のように消えていく。今日は、三国志を満喫する日だったのに。
「どこを探せば?」
「影は浜松から来た。主も浜松だ。頼んだぞ」
「ん」
父親に、手を差し出す。
「なんだ?」
「浜松なら、仕事終わりについでに楽器屋に行ってCD買ってくるから、お金ちょうだいよ」
「何、全く……抜け目のない娘だ」
「あら、正当な報酬だよ。仕事の成果をCD一枚で良いって言ってるんだから、良心的でしょう?」
「分かった分かった。さあ、行きなさい。影は消えるまであと半日程度だろう。急いでやってくれ」
「はーい」
父親が出ていったあと、動きやすい恰好に着替えて冷房を切った。こうなったら仕事をするしかない。影といえども、生きている存在なのだ。それが消えかけているのなら、真剣に主を探してあげたい。
部屋の扉を開けて、廊下に出た。ミケは、店の扉の前にいるだろう。
浜松駅の西に広がる飲食街。何軒も店や民家が立ち並ぶエリアで、裏通りは日中なのに少し薄暗い。まだ店の営業時間前だからか人通りは少なく、影の主を探すのには都合が良い。ちょうど、集まった猫達から、ミケが話を聞いていた。
ミケがニャーと言うと、野良猫がナーと答える。何を話しているのかはさっぱり分からないが、不思議と会話を成り立たせているような鳴き方が聴いていて面白い。
しばらく会話が続けられた後、猫たちは去っていった。ミケが振り返って、呼びかけてくる。
「分かったの?」
小さく鳴いて、ミケが進みはじめる。後をついてこいということだろう。
「ついてきて」
今は路地の陰に入っているため、いるのかいないのか分からないが、そばには、はぐれた影がいるはずだ。その影に声をかけて、元子はミケの後に続いた。
迷う素振りを見せず、ミケは先に進んでいく。少し進んだところで、民家の塀の上に軽々と飛び乗った。振り返って、一瞬だけ元子を見てくる。
「こんなとこ行くの……」
ミケはすでににどんどん先へ進んでいる。仕方なく、周囲に人がいないことを確認して塀の上に登った。
「ほんとに見つかるのかな」
塀はコンクリブロックで出来ているため、足場としては心もとなく、慎重に進まざるを得ない。おまけに、じめじめとしていて、あまり気持ちの良い場所ではない。
文句が口から漏れて出てくるが、これでも真剣に探している。はぐれた影が消滅してしまうまで、あと数時間しかないのだ。
ミケが時折振り返り、元子がついて来ているのを確認する仕草を見せる。
「待ってミケ」
今民家の窓を開けられたら、不審者として捕まりそうだ。声を抑えて、ミケに呼びかける。
ようやく追いつくと、ミケは民家の敷地内に下りた。
「完全に不法侵入じゃない……」
だが、入るしかない。ため息をついて、塀からそっと下りた。ちょっとした庭になっていて、わずかに日が差し込んでいる。日向に出ると、後をついてきていた影の姿が地面に表れた。はぐれたときの猫の姿なのだろう。影絵のように形が変わらないまま、すーっと地面を滑るようについてくる。
ミケが待っているところまで行くと、そこには一匹の猫がいた。小太りの、目つきの鋭い猫だ。日向ぼっこをしていたのだろうか。こちらをじっと見つめてくる猫に、ミケが何かを話しかけている。
良く見ると、その猫の足元には、影が無かった。
「あっ、主だ。見つかったよ」
告げると、影は音もなく地面を動き、猫の足元に入った。次の瞬間にはぐにゃぐにゃと形が歪み、そこにいる猫の形に合わせた影へと変化していた。
ミケが元子を仰ぎ見て、鳴き声を上げる。
「終わったね。猫さん影さん、もう、はぐれないようにね」
主の猫が、小さく鳴いて、塀の向こうへと姿を消した。どうなることかと思ったけれど、案外早く見つかって良かった、と元子は思った。
ミケがついてきてくれたおかげだろう。というより、ほぼミケの手柄だ。ミケがこの辺り一帯の猫に聞き込みをしてくれたから、早く終わったのだ。
やはり、元子は要らなかったのではないのかという考えが、ちらりとよぎる。
「戻ろっか、ミケ」
ミケに声をかけ、元子は人に見られないよう路地へと戻った。
「はーあ。疲れた。っていっても、ほとんどミケのおかげだね」
しゃがみこんで、ミケを優しく撫でる。気持ちよさそうな表情をして、ミケが鳴いた。
「じゃあ、ミケ、私はちょっとお昼ご飯食べた後、楽器屋に寄ってから帰るから、先に戻ってて良いよ」
ミケはもう一度鳴くと、一瞬だけ元子の足に身体をこすりつけ、それから小走りで路地の向こうへと去っていった。
それを見送って、立ち上がる。
こうして父親から頼まれて仕事をしたのは、もう何回目だろう。中学に上がった頃から頼まれるようになった。最初は店番程度だったが、今では今回のような外に出る仕事も頼まれるようになってきている。
父親が特別な仕事をしている事は、小学生の頃から聞かされていた。同時に、この世界の真実も聞かされ、実際に見せられてきた。今でこそすんなりと受け入れているが、最初は戸惑いの連続だった。
ただ、自分は他の子が知れない世界に触れる事が出来るのだと思うと、それが嬉しくて、楽しくて、夢中になった。父親についてまわるようになり、様々なものを見てきた。この仕事は、危ない事も無くは無いけれど、元子にとっては父親の仕事を継ぐことが、将来の目標になっている。
吹奏楽も好きで真剣に取り組んでいる。ただ、やはりこの世界の裏側に触れている時が最も興奮する。ギャップを引き寄せる体質であるコウキの観察という役目を引き受けたのは、どうせ高校には通わなくてはならないのだし、コウキの近くにいたほうが、吹奏楽をやりながら、面白い事に出会える可能性も高いかもしれないと思ったからだ。
コウキは面白い。第二の人生を、悪用しようとしていない。むしろ、自分だけではなく周りの人のためにもその人生を使おうとしている節がある。どういう生き方をしてきたら、そういう聖人のような人格になるのだろうか。今では、コウキという人物そのものの観察が楽しくなっている。
花田高に行けた事は、幸運だ。吹奏楽部も東海大会まで進めたし、コウキの観察という仕事もある。毎日が飽きない。
「さてと、お腹減ったし、せっかく浜松に来たなら餃子でも食べようか」
腹の虫が鳴った事で、思考を中断した。
父親から昼食代ももらってきた。それで、近くにある美味しい餃子屋に行こう、と元子は思った。浜松に来た時は、よく利用している店で、今なら開店前に並んですぐに食べられるはずだ。
あの店の味を思い出して、元子は足取りが軽くなっていた。
店に戻ると、父親がカウンターの向こうに座っていた。
「おかえり、ミケから聞いたぞ」
「ん。ちゃんと主と会えたよ」
「助かった。ありがとな」
「あと、楽器屋で引き寄せる体質の彼に会った。三木コウキ君」
「なに? 偶然か?」
「うん。後輩の子とデートしに来てたみたい」
「元気そうだったか」
「うん。いつもと変わらず」
カウンターに置かれているカップに、なみなみとコーヒーが注がれている。そこから立ち上る白い湯気が、ゆらゆらと揺らめきながら空中へと霧散していく。
「ギャップを引き寄せる体質と言っても、そんなにしょっちゅうはないんだね。色々見てみたいのに」
「それほど強くはないんだろう。そのほうが彼にとっても周りにとっても良いさ。彼は普通の人生を望んでいるのだから。それより、好奇心が旺盛なのは結構だが、それで過ちをおかさないよう、気をつけるんだぞ」
「分かってます。昔から言われ続けてるんだから」
「なら、良いが」
元子も椅子に座って、持っていっていた鞄をカウンターの上に置いた。ぐっ、と背伸びをする。
「あ、ミケ」
家の方に続く扉から、ミケが出てきて元子の膝の上に飛び乗った。そのまま丸まったので、背中をそっと撫でる。
ミケと呼んでいるが、別に体毛は三色ではなく、灰色という珍しい色をしている。
「そういえば、ミケが褒めていたぞ」
「ほんと? なんて?」
「ま、それは言うなと言われているから秘密だ」
「えー……」
ミケが元子を褒めたというのは、初めて聞いた。嬉しさに顔がにやける。
「ていうか、お父さんは何でミケの言葉がわかるの? 私はどうやったら分かる?」
「私は心を読める体質だからだ。ミケに限らず、生物の言葉ならな。だから、影も私の元に来る。元子には無理だろう。そういう道具でも手に入れば別だがな」
「ちぇっ……じゃあ、お父さんとミケって、いつから一緒なの」
「ん? そうだなあ。私がこの店を継いだ時に先代からミケを引き取ったからな。二十年くらいか」
「猫の寿命超えてるじゃん。ミケって、ほんとに猫?」
「猫さ。ちょっと特別な、ズレたものであるということは除いて」
「ねえ、その言い方ダサいよ。ギャップで良いじゃん」
「元子は好きに呼びなさい。私は意味があってこういう言い方をしているのだ」
「何、意味って」
「知らなくても良い。元子には元子なりの意味があってギャップと呼んでいるのだろう? 名前は重要ではない」
「はぐらかして」
「はぐらかしてないさ」
父親が、コーヒーを一口すすった。これ以上聞いても無駄だろう。
「部屋に戻る。夜ご飯は、パスタで良い?」
「ああ、頼むよ」
ミケを抱いたまま、父親に背を向けた。
影の主を探すために動き回ったから疲れてしまった。まだ夕飯までには時間がある。少し眠って、それから夕飯を作ろう、と元子は思った。




