七ノ二十一 「足りない何か」
自由曲で演奏する、『歌劇「トゥーランドット」より』。その、オーボエソロ。この曲の聴かせ所であり、ひまりが最も力を注いで向き合っている箇所だ。
原曲ではテノールの男性歌手が歌うところを、この編曲では繊細な音が特徴のオーボエが担当している。つまり、力強さだけではないオーボエならではの表現が求められている。
約三十秒程度のソロ。それで、聴衆の気持ちをわしづかみにする必要がある。もう何百回何千回と繰り返してきたけれど、何度吹いても、その度にもっとこうしたいという欲求が生まれる。
丘から特別何かを言われたことはなかった。全てひまりに任せているのか、ソロの伴奏者へ指摘はしても、ひまりには注文をつけてこない。
そのほうが、自分の音楽を存分に奏でられるからありがたい。
「精が出ますね、ひまり先輩」
英語室で一人で吹いていた。扉の前に、コウキが立っている。オーボエの先端に付けてあるリードを口から離して、コウキの方を見た。
「お疲れ様、コウキ君」
「お疲れ様です。どうですか、調子は」
コウキが中へ入ってくる。
「まあまあ、かな。まだソロが物足りないけど」
「さすがですね。俺には、文句の付け所がないように思えるけど」
「そうかな。でも、実際物足りなくない? なんか、心を惹きつける魅力が」
顎をさすりながら、コウキが唸った。
「そう言われてみると、まあ確かに……綺麗にまとまってはいるけど、熱さが無いっていうか……あっ、すみません、偉そうに」
「ううん、私もそう思う。そうなんだよね。コウキ君の言う通り、文句は何も言われないと思う。でも、それだけじゃ駄目なんだよ。綺麗なだけじゃ」
「ひまり先輩って、プロのレッスンも受けてますよね。先生はなんて言ってるんですか?」
木管セクションで受けているクラリネットの蜂谷のレッスンには、ひまりは参加していない。中学の時からずっと、個人的にオーボエのプロ奏者の指導を受けていた。
「自分の中の欲求を、もっと出せ、って言われた」
「自分の中の欲求?」
「そう。表現したい気持ち。表したい想い。そういうのを、もっと音に乗せろって。技術ではない心の問題だって言われた」
コウキは、ひまりにもよく話しかけてくる子だった。他の一年生の男の子とは挨拶程度で、ほとんど話していない。何となくコウキは話しやすくて、ひまりも気を許していた。
「ひまり先輩は、このソロにどういう想いを表現してるんですか?」
「私は……」
人には言えないようなものだ、とひまりは思った。もともとは、父親から逃げたい想いで音楽を始めた。オーボエを吹いていると、その間だけ嫌なことを忘れられたからだ。
父親がいなくなった後は、母親がおかしくなった。家族の温かさを、ひまりは知らない。あるのは、地獄のような家庭だけだった。そこから離れたくて、オーボエにのめりこんだ。オーボエを上手く吹いていると、母親は文句を言わない。好きなことを、好きなだけしていられる。
黒い感情が根底にあり、それがひまりの技術を上げてきた。実のところ、気持ちや想いを音に乗せろと言われても、ひまりには分からない。
技術的にはこう吹くのが良いのだろう、と思うように吹いているだけだ。
「わかんないや」
曖昧に濁すと、コウキは怪訝そうな顔をしながら、首を傾げた。
「……ひまり先輩、何か悩んでます? 前からちょこちょこ気になってたけど、時々、壁を感じますよ。俺だけじゃなく、他の人に対しても」
痛い所をつかれて、心臓がわずかに跳ねた。咄嗟に、作り笑いを顔に張り付かせる。
「そんなこと、ないけど?」
「本当に?」
「……うん」
「まあ……先輩がそう言うなら、今は良いです。でも、俺はひまり先輩は絶対何かに悩んでると思う。だから、先輩がどうしようもなく駄目だと思ったら、頼ってください。力になりますから」
言って、コウキは立ち上がった。
「部員は、家族より長く時間を一緒に過ごす。だから信頼と協力が不可欠だし、それが最高の音楽を生みだすと思ってます。ひまり先輩にも、俺達のことをもっと信頼してほしいです」
頭を下げて、コウキは英語室を出ていった。
くすぐったくなるようなことを、平然と言う子だ。
家庭のことに関しては、誰にも言うことは出来ない。ひまりにとってそれは、一番隠したいことなのだ。
手元のオーボエに目線を落としながら、ひまりは小さくため息を吐いた。
代表選考会まで、あと四日。部室のカレンダーに、大きく印がつけられている。それをぼんやり見上げながら、奏馬はリーダー会議の話に耳を傾けていた。
練習が終わって、晴子がいつもより早く招集をかけた。珍しいことだった。特別な時しか呼ばないパートリーダーも集まっている。
「演奏を仕上げる以外に、今の私達に出来ることって、何だろう」
晴子が言った。
「何か、代表選考会までに、もっと出来ることがないかな」
「例えば?」
「それが、分かんないんだけど……」
「練習をとにかく頑張るしか、無くない? だってそれしか私達の仕事ってないじゃん」
「そうだけどさ、演奏以外の部分で演奏に影響することも、いっぱいあると思う。そういうところで、何か改善できたりしないかなって」
「そうは言ってもねー。下手に動いておかしくするのも嫌だしなあ」
活発な議論を聞きながら、奏馬は黙っていた。
晴子の言いたいことは分かる。演奏に関しては、出来る限りのギリギリのところを常に攻めている。全員これ以上ないというくらいの集中力で、丘の指導に食らいついている。そこに、改善の余地はない。このまま出来ることをし続けるだけだ。
ただ、それだけで本当に他校の演奏に勝る結果を出せるのか。晴子が危惧しているのは、そこだろう。奏馬も同じことを思っていた。
花田高は五月頭までボロボロの状態だった。部員も、粒ぞろいというわけではない。出場する大編成の定員である五十五人を満たしていないし、初心者も七人いる。演奏にはどうしてもムラが出てしまうし、完成度も高いとは言えない。
それに対して、強豪校は何年も継続して優秀な部員を集め、安定した練習で盤石な演奏を作り上げてくる。
「でも、このままで私達、勝てるのかな」
晴子の呟きに、議論が止まった。
技術ではない別の何かが、演奏に変化をもたらすことはある。そうしたものの力で、自分達の実力以上の演奏が出せることは、あり得ないことではない。
それを、晴子は求めているのだろう。
「私達、もしかしたら東海大会に行けるかも、って思うようになった。それくらい、私達は頑張ってきた。だけど、県大会の点数、決して高いほうじゃなかったよね。私達より上がまだまだいる。そう思うと、本当にこのままで良いのかなって思えてきて」
晴子の言う通り、部員の多くが、今年は上に行けるかもしれないと思ってきただろう。
去年は、東海大会で銅賞だった。その上を目指せるかもしれない。そう思うようになった。だが、結果は正直だ。県大会の評価は、今の花田高の実力を、的確に表している。
「一回くらい、ミーティングしてみるとか」
奏馬が言った。全員の視線が集まってくる。
「練習時間を削って?」
未来が、不服そうな顔をしている。頷いて、奏馬は言葉を続けた。
「俺も晴子と同じだ。このままで本当に代表選考会を抜けられるのか、不安のほうが今は大きい。県大会の演奏は、俺達に出来る最高の演奏だったと思う。それでも一番になれてない。あと四日で、その演奏をさらに格段に仕上げるっていうのは、現実的じゃない。それ以外の何か……演奏に作用する何かが無いと、俺達がもっと良くなるのは難しいんじゃないか」
「だからミーティングするの?」
「ミーティングは、まあたとえだけどさ。ごめん、俺も上手い案は浮かばない」
部室内にいる全員が、沈黙した。
「何となく、言ってることはわかるけど……」
未来がぼそっと呟いた。
今の自分たちに足りない、何か。それが何か、この場の誰にも分からない。
その時、重たい沈黙を破るように、部室の扉が開けられた。目を向けると、トランペットのマウスピースを握りしめたコウキが立っていた。
「あ、まだ会議中でしたか、すみません」
「いいよ、洗う?」
「あ、じゃあ、失礼します」
遠慮がちに中に入ってきたコウキに、地面に座り込んでいたリーダー達がどいて道をつくった。奥の洗面台に向かって、コウキがマウスピースを洗いはじめる。水が流れ落ちる音が、部室に響いた。
「そうだ、コウキ君」
「はい?」
奏馬が声をかけると、コウキは水を止めて振り向いた。ハンカチを取り出して、マウスピースを丁寧に拭っている。
「今さ、代表選考会までに、演奏を仕上げる以外に出来ることはないかって話してたんだけど、何か良いアイデア無い?」
「演奏を仕上げる以外、というと?」
自然と、リーダー全員の視線がコウキに向いていた。上級生から一斉に目を向けられても、コウキは緊張した様子もなく、平然としている。
「あと四日で俺達が演奏を格段に良くするっていうのは、実際問題、現実的じゃないと思うんだ。良くはなると思うけど、県大会の結果を覆せるほどの大きな変化が、たった四日で起きるのかって言う疑問があって」
「うーん、それはそうですね」
「だから、演奏面以外で俺達の音を変える何かがないと、代表選考会を突破するのは難しいんじゃないか、って今話してたんだ」
「なるほど……」
いつのまにか、奏馬とコウキだけが話していた。他のリーダーは、そのやり取りを黙って聞いている。
コウキは、ここぞという時に、これはと思う発言をする。それが、不思議と良い提案だと思える。そして実際に取り入れると、本当に成果が出たりする。今や部の要となっているペア練習も、元はコウキの案だった。
行き詰っている今も、コウキなら何かひらめきが無いか、と奏馬は思ったのだ。
「んー……演奏以外で演奏に良い影響をもたらすっていうと……」
「コウキ君、ここ座って良いよ」
晴子が、一歩ずれて場所を空けた。そこに、コウキが腰を下ろす。
「演奏には、奏者の精神状態が強く影響すると思います。それが良い方向に働いた時、普段の実力以上の演奏が奏でられたりする。目指すは、それってことですよね。皆の精神状態を良い方向へ働かせる。そのためには、もっと部員同士の心の壁みたいなものが無くなることが、大事じゃないかなと思います」
「というと?」
「例えば、皆さん一人くらいは部員の中で、この人のこういうところが苦手だな、って思う人とかいませんか。俺達はプロじゃないから、そういうのが原因で生まれる部員同士の心の距離って、絶対演奏にも出ると思ってます。だから、部員同士の壁を、取り払うのはどうかなって」
「……コウキ君なら、どうやって取りはらう?」
「そうですね……」
少し沈黙した後、コウキが胸ポケットからボールペンを取り出した。
「じゃあ、一つ簡単なワークを。奏馬先輩、このペンを見てください」
ボールペンが、奏馬の目の前に置かれる。何の変哲もない安っぽいボールペンだ。
また、コウキは何か面白いことをしようとしているらしい。それに、乗ってみよう、と奏馬は思った。
奏馬にとっては、コウキはもう単なる後輩の一人ではない。技術力、人の前に立つ資質、判断力、音楽に対する知識と熱意。様々な面で、コウキは他の子よりも優れている。密かに、一年生の中で学生指導者を任せるならコウキしかいない、と思うようになっていた。
だから、練習メニューを組む時や丘の元に行く時には、時折コウキも同行させている。コウキの意見が、部にとって有益だったからだ。奏馬は勿論、他の部員にも無い卓抜な発想を持っている。
そのコウキが、なにかをやろうとしている。意味のないことだとは、奏馬には思えなかった。




