十 「抱える想い」
美奈が、私立へ進学すると聞いた。
前から半分決まっていたようなものだったらしい。
言うに言えなくて、今まで、誰にも話していなかったそうだ。
打ち明けられても、智美には、そうか、と肯定する事しかできなかった。
自分に、どうにか出来る問題ではないだろう。
小学生になってから、美奈と知り合った。同じクラスになったのは、四年生の時か。
内気な女の子で、本ばかり読んでいる、という印象だった。
ちょっと話しかけてみたら、難しい事でも授業の事でも、何でも知っているのが、凄いと思った。それで少しずつ話すようになった。
家が意外と近かった事もあり、すぐに仲良くなった。
智美は運動が好きで、美奈は本が好き。互いに、共通点はあまりなかった。
それでも、気が合った。
美奈と離れ離れには、なりたくない。けれど、それを止める方法は、無い。
美奈の家は、片親だ。母親の望みを、かなえてあげたいのだという。
智美も、親は大切だと思っている。美奈のその気持ちは、よく分かる。
美奈がそうしたいのなら、そうするべきなんだろう。
もう、卒業まで幾日も無い。美奈と会えるのは、あとわずかだ。
卒業したら、遊べないのか、と聞いた。
私立は厳しくて、塾にも通う事になって、遊ぶ時間はほとんどなくなるかもしれないらしい。
家が近いのに、遊べないなんて、おかしい。
だけど、それが私立に通うという事なのだろう。智美には、分からない。
校庭の小さな小石を、スニーカーのつま先で蹴飛ばした。あらぬ方向に転がっていったそれは、数回跳ねて、動きを止めた。近づいて、また蹴る。
つまらなくなって、すぐにやめた。
校庭の真ん中で、コウキが遊んでいるのが見えた。拓也や、低学年の女の子達もいる。
美奈は、コウキの事が好きだったはずだ。見ていれば、分かった。
コウキには、伝えたのだろうか。
コウキは、どう思ったのだろうか。美奈の事も、どう思っているのだろうか。
好き同士なのだとしたら、離れ離れになるのは、辛いのではないか。
それで、美奈は良かったのだろうか。
コウキはどう思っているのだ、と聞きたい。
だけど、話しかける事は出来なかった。
里保の事があって、嫌ってしまった。それを引きずっている。
もう、里保とコウキは仲直りしているのだから、智美も元通りになれば良いはずだ。
素直になれずにいた。
美奈にも、コウキと仲たがいしている事は、伝えていない。美奈は、いじめとか、そういうのとは無縁に近い子だった。何となく、そういうものに近づけたくない。
美奈は、本当に、私立で良かったのか。考えが、また同じところへ戻って来た。
何を考えても、もう遅い。美奈は、私立へ行くのだ。
不意に、涙が出そうになって、袖で拭った。
小石を拾って、校庭の端に投げ捨てた。
卒業が近い。
友達が離れる。
その事を考えると、気が滅入る。
思わず、走り出していた。校内を、駆けまわる。
走るのは、昔から好きだった。クラブ活動ももう引退してしまったけれど、陸上クラブだった。
空と一緒だ。
なぜ、こんなに惹きつけられるのか、分からない。
綺麗な言葉に出来る程の才能を、智美は持ち合わせていない。
ただ、好きだった。
走ると、風を身体に受ける。それが、気持ち良い。
走ると疲れるのに、息が上がるのが、楽しい。
人を、追い抜くのが、楽しい。
それ以上、言葉が思い浮かばない。
ただ、心の中のもやもやとした思いが、智美を走らせた。
気がつくと、三十分以上も走っていた。
いつの間にか、校庭からコウキ達の姿は消えていた。
「何してるんだろう」
呟いて、急に、馬鹿らしくなった。
隅に置いていたランドセルを背負い、帰宅する。
家には、先に帰って来ていた妹がいた。
「おかえり、お姉ちゃん」
「ただいま」
「おやつあったよ」
「要らない。食べて良いよ」
「ほんと!? やったあ!」
はしゃぐ妹の声をうるさく感じて、智美は部屋に向かった。扉を閉めて、床に倒れこむ。
もやもやは、続いている。
もうすぐ、中学生になるのだ。
自分の気持ち一つ言葉に出来ないで、やっていけるのだろうか。
小学校のように、のんびりとしたものではないだろう。公立だって、少しは勉強が大変なはずだ。今まではそんなに勉強をしなくても、それなりの成績が取れた。中学では、そううまくはいかないだろう。
部活動だってある。陸上部に入るつもりだ。
毎日の生活が、もっと大変になるに違いない。
こんな風に、もやもやしている暇なんて無いかもしれない。
本当に、自分は中学生に相応しいのだろうか。
中学に上がっても、里保は居る。けれど、美奈は居ない。
別に、友達は二人だけではない。沢山いる。けれど、その二人が一番の友達だった。美奈がいなくなってしまったら、里保だけになってしまう。
里保と違うクラスになったらどうするのか。
中学校は、五つの小学校から集まってくる。一学年が、三百人以上いるのだという。知り合いは、うんと少なくなる。
別に人見知りするほうでは無いけれど、上手くやれるか、不安は当然ある。
「あぁ、もう!」
考えが、どんどん好き勝手な方向に行き散らかる。
まとまらなくなって、全身をばたつかせた。
考えるのは、嫌いだ。
考えなくてはいけないのは、分かる。
けれど、考えると、爆発しそうになる。今すぐ、走り出したくなる。
身体の中の抱え込んだ気持ちが、溢れ出す。それが身体を突き動かそうとする。
暴れるせいで床が音を立て、母親の叱る声が聞こえてきた。
直前になるまで、考えてもいなかった。コウキと拓也が卒業したら、洋子は一人になるなどと。
二人のおかげで、学校生活が楽しくなったのだ。毎放課、絵本室に行かなくても平気になったのは、間違いなく二人のおかげだった。
初めは、コウキだった。
いじめから助けてくれて、洋子を守り続けてくれた。いつも、笑いかけてくれていた。頭を撫でてくれた。本物の兄ではないのに、優しい兄とはこんな存在なのだろう、と思った。コウキになら、安心して接する事が出来るようになった。
そのうちに、拓也を紹介された。
最初は、拓也も怖かった。話していくうちに、のんびりとした落ち着いた人なのだと分かった。
二人は、洋子を傷つけない。見守ってくれる。
大きな優しさに包まれている気がして、安心していられた。
怪獣の石像の謎を解いた時、石像が動くという信じられないような事が起きた。
夢のようだったけれど、三人とも、確かにはっきりと覚えていた。
あれから、三人でいる事が、もっと好きになった。
二人と一緒に、石像を移動させる署名活動をしたのがきっかけで、友達も増えた。
クラスでも、石像を動かした英雄、などともてはやされるようになり、男子から馬鹿にされる事も無くなった。
それも、二人のおかげだった。
二人がいたから、洋子は救われたのだ。
なのに、二人は卒業してしまう。卒業してしまったら、この学校で、洋子は一人になるのだ。
いきなり、学校が不安定で恐ろしい場所に思えてきた。
また、絵本室が逃げ場所になった。
友達は、変わらず洋子に構ってくれる。
きっと、いじめられる事も、遠巻きにされる事も、もうないだろう。洋子も、前よりも言葉を出せるようになった。
それでも、不安が大きい。
いざと言う時、守ってくれる人は、いなくなるのだ。
それが、あと二年も続く。絶望を感じた。
コウキに出会う前は、一人だった。自分の内側に閉じこもって、絵本の世界だけを見て耐えていた。
それでどうにか出来ていたのは、今思うと、不思議で仕方がない。
暗く、寂しい気持ちが常に心の中にあった。
また、ああなりたくはない。
もう、あんな思いはしたくない。
一人で、いたくない。
気がつくと、泣いていた。
周りには誰もいなくて、涙は、空しく流れた。
涙と一緒に、こんな気持ちも出て行ってしまえば良いのに。そう思っても、心の中は変わらない。
顔を膝に埋めて、涙はズボンで拭った。鼻水が垂れそうになって、慌ててすする。
きっと、コウキも拓也も、こんな洋子を見たら、安心して卒業出来ないだろう。だから、二人に見せる事は出来ない。家族にも、心配はかけたくない。
なら、どうすれば良いのだろう。
こうやって、耐えるしかないのか。
これが、一人か。
前まで、何故耐えていられたのだろう。
身体を抱えるようにして、泣き続けた。
二人と、離れたくない。




