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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校一年生・夏編
109/444

七ノ十九 「幸せ」

「トランペット、そこのアクセントをもっとはっきりと。一つ一つの音を出だしからしっかり飛ばしてください」

「はい!」

 

 図書室での練習が始まって、一週間近くが経っていた。

 県大会に向けて、細かな改善が続けられている。部員は気づかないような些細な粗でも、丘は見逃さない。丘の高次元の要求に、部員は応えるのに必死だった。


「ホルン、息のスピードが弱い。腰の入っていない音になっています。そこの対旋律はもっと聞かせて欲しいところです。探り探りで吹かず、丁寧に一つ一つの音を当ててください」

「はい」

「金管群は、フォルティッシモでも鳴らし過ぎないように。あくまで主旋律は木管群です」


 地区大会での演奏の録音は、何度も全員で聴き返した。薄氷の上を歩くような危うい演奏だった。もっと精度を高めなくては、県大会では通用しない。


「ラストの六連符が、まだ吹けていない人がいますね。ここは確実に決めるべきポイントです。終わりがダメなら全て駄目になり、トゥーランドットにまでひきずってしまう。この後のパート練習でも確実に練習してください。テンポを落とすわけにはいきません。あなた方が吹けるようになること。それしか解決策はありませんよ」


 今最も苦戦しているのが、課題曲のラストの六連符だった。特に初心者やあまりタンギングの得意でない部員が、全体の勢いを削いでしまっている。


「では、合奏はここまでにします。パート練習は私もまわりますので、パートリーダーは音楽室の黒板に使用する教室名を書いておいてください」

「はい!」

「では解散」


 図書室は移動が大変な打楽器パートが使用する。その他の楽器は皆それぞれの場所に散っていった。

 トランペットパートは渡り廊下を通って、生徒棟の二階にある視聴覚室へと移動した。


「この部屋いっつも暑いなあ」

 

 思わず本音が口をついて出てしまう。急いで窓を全開にして、空気を入れ替える。生ぬるい外の風でも、室内の熱気に比べると随分ましだ。


「全教室にクーラーとまではいわないけど、扇風機くらいつけてほしいよ。暑すぎて倒れそう」

「ほんとですよ。ケチですよねー学校も」


 制服の裾をパタパタと仰ぎながら、まこと逸乃が愚痴る。ちらりと腹部が見えたことに気づいて、コウキは慌てて目を逸らした。無防備すぎる。目のやり場に困り、仕方なく窓の外に向けた。青空に、今日も雲がたくさん浮かんでいる。夏の雲は、何故あんなに大きく高くなるのだったか。昔本で読んだ気がするのに、思い出せない。


「コウキ君」


 隣に、万里がやってくる。


「ん?」

「タンギングって、どうやって早く吹けば良いのかな?」

「タンギングか。んー……とにかくゆっくりなスピードから慣れていくことかな。あとは発音を自分が一番早く動かしやすいものにするとか。トゥの人もいればテの人とかトとかチとか。色々だから」

「あれ、万里ちゃんは早い所はダブルタンギングでやってるよね」


 修が会話に加わってくる。


「あ、はい」

「俺もなんだよね」


 管楽器を演奏する上で、タンギングという舌で発音する奏法は必須の技術となる。テンポの早い曲では、当然タンギングの速度も上がるため難易度が高くなり、それが出来ない人はダブルタンギングといって、二種類の発音を用いたタンギングで吹く。二種類の発音を交互に使うため、一つの発音を使うシングルタンギングよりも早いリズムを吹きやすい。ただ、若干音色が変わるため、難しい面もある。


「シングルは難しいからね。慣れないうちはダブルで良いけど、それに慣れ切っちゃうとタンギングの技術がいつまでも伸びないから、個人練の時はタンギングのメニューも取り入れると良いよ。あとで一緒に教本見よっか」

「ありがと、コウキ君」

「ん」


 笑いかけると、万里もはにかむように微笑んだ。

 ペア練習を解消してしまって万里には申し訳ないと思っていたが、案外普通にしている。智美からも特に問題は無いと聞いていた。

 前のように活動時間前後に練習を見て欲しいと言われることは無くなったが、こうしてパート練習の時には積極的に話しかけてくれていた。


「最近、お気に入りの曲増えた?」

「あ、うん。『七月四日に生まれて』、って知ってる?」

「おお、知ってる知ってる。映画だよね。ジョン・ウィリアムズさんの作った曲が使われてる」

「そう。図書館で借りたの。それが、凄く気に入った」

「あれも原曲はティム・モリソンさんが演奏してるんだよね。カッコイイよなあ」

「うん、早くああいう音が出せるようになりたい」

「分かる」


 万里も、すっかりティム・モリソンを好きになってくれたようだ。以前は、あまり周りに彼のことを知っている人はいなかった。こうして、身近な人と語り合えるのが、素直に嬉しいとコウキは感じた。


「誰、ティム・モリソンって?」

「修先輩、知らないですか? アメリカの超有名なトランペット奏者です。ハリウッド映画でトランペットソロがあったら、結構な確率で彼ですよ。って、それはちょっと言い過ぎかもだけど」

「マジ? 聞いたことあるかなあ」

「プライベート・ライアンとかは知ってます?」

「ああ、知ってる」

「あれのソロとか」

「うっそ、マジか! うーわ、今度観返してみる」

「うちにDVDあるんで、良かったら貸しますよ」

「ほんと? ラッキー、助かる」


 三人で盛り上がっていると、逸乃とまこも近づいてきた。逸乃が、飛び乗るようにして近くの机の上に腰を下ろす。その拍子にスカートが若干ずり上がり、白く細い太腿が露わになった。だが、逸乃は気にしている風もない。ある意味、コウキと修を何とも思っていないという証拠のようなものだから、それはそれで良いが、やはり少し無防備すぎる。

 

「ティム・モリソンなら知ってるよ。私も結構好き。でも私はモーリス・アンドレかなぁ~」

「あー、逸乃先輩っぽいですね。彼の音が理想ですか?」

「だけってわけじゃないけど、影響は大きいかな」

「モーリス……ってどんな人ですか?」

「超上手い人。私はトランペットの神様だと思ってるよ。CD貸したげようか、万里ちゃん」

「あ、はい。聴きたいです」

「皆好きなトランペッターとかいるの? 私、全然そういうの知らないんだけど……」


 気まずそうな顔をして、まこが言った。


「まこ先輩は、理想の音とかイメージしてる人はいないんですか?」

「……いるけど……言うの恥ずかしいなあ」

「なんだそれ、まこらしくないな。言えよ」

「うっさい」


 ぷい、と顔を逸らして、耳をわずかに赤くしている。

 まこの様子で、何となくコウキは察しがついた。むくむくと、まこをからかいたい気持ちが沸き上がってくる。


「あー、俺まこ先輩の理想の音、分かった。逸乃先輩でしょ」

「なっ」

「まこ先輩の音、逸乃先輩に近いもん。それに言うのが恥ずかしいっていうのは、そういうことでしょ」


 みるみるうちに、まこの顔が赤く染まっていく。耳までゆでだこのようにして、頬を膨らませた。


「分かってるならいちいち言わなくても良いでしょ!」

「まこ先輩っ……!」


 逸乃が感極まった様子でまこを見つめながら、喉を詰まらせている。それに気づいて、まこが恥ずかしそうに顔を背けた。


「い、逸乃ちゃんには前言ったじゃん」

「それでも、改めて聞くと嬉しいです!」

「もう、やめてよ。恥ずかしい」

「まこ先輩、意外とすぐ赤くなりますね」


鋭い視線が突き刺さってくる。


「コウキ君は黙って」

「年下に良いようにもてあそばれて、チョロいな、まこは」

「修もうるさい!」


 明るい笑い声が視聴覚室に響き渡った。和やかな空気が、不快な夏の暑さを和らげていく。

 しばらく談笑していると、廊下からぺたぺたというスリッパの立てる特徴的な音が聞こえてきた。段々視聴覚室に近づいてきている。開けっ放しの扉の方を見ると、にこやかな笑顔を浮かべた丘が現れた。

 瞬間的に、全員で直立した。


「楽しそうにしていますね。まずはトランペットから見ようと思いましたが、やめますかね」

「い、いえ! お願いします、休憩は終わりました、今からやります!」

「そうですか。では、見ましょう」


 すぐに椅子を弧を描くように置き、五人で座る。

 全員の視線の先に、丘が椅子を置いて腰かけ、持ってきていたフルスコアを開いた。フルスコアは指揮者用の楽譜で、全ての楽器の動きが表記されている楽譜だ。部員にもコピーを配布されており、当然コウキも課題曲と自由曲の二冊分を持っている。

 フルスコアを見ながら、丘が言った。


「架空のIからを聴かせてください」

「はい!」


 和やかな雰囲気は一瞬にして消え、ぴりっとした空気が視聴覚室に満ちる。気持ちの切り替えも、今ではすんなりと部員全員が出来るようになっている。


 指揮棒は用いず、丘が片手を挙げた。

 丘を前にすると、部員の誰もが気を引き締める。適当な演奏をすれば、絶対に指摘されてしまうからだ。集中しなければ、丘の高い要求に応えることは出来ない。


 静かに丘の手が上下して、一斉に五本のトランペットから音が紡ぎ出された。

 

 


















 


 蒸し暑く暗い夜道を、自転車で走っている。学校から帰っている最中だった。

 家が近づくほどに、またあの家に帰らねばならないのか、帰るしかないのか、という思いが心を濁らせていく。

 

 帰りたくない。


 ひまりは、ため息をついて自転車のライトが照らす先を眺めた。通い慣れた道。行きは心穏やかに進めるのに、帰りは胸が苦しくなる。ペダルを漕ぐ足が、酷く重たい。


 路地に入り緩やかな坂を上っていくと、似たような形のアパートがずらりと並んでいる団地が見えてきた。ひまりの家は、この団地の中の一室だ。古びた団地で、アパートの階段を照らす薄暗い蛍光灯が不気味なところが、大嫌いだった。


 階段を上がっているところで、住民の一人とすれ違った。目を合わさずに会釈だけして、通り道を譲る。


「ごめんなさいね」


 お決まりのフレーズを言いながら、住民は足早に階段を下りて行った。それを見送って三階まで上がり、自宅の扉の前で立ち止まる。鍵穴に鍵を差し込んで回すと、開錠された音が廊下に響いた。


 重たい扉を開けて中に入ると、室内は真っ暗だった。母親はまだ帰って来ていないらしい。スイッチを押して、廊下の明かりを点ける。雑然とした室内の姿が露わになり、ひまりはいつもの癖で顔をしかめてしまった。

 母親は、家事をほとんどしない。ひまりも料理と洗濯以外はたまにする程度なせいで、部屋の中はいつも散らかったままだ。


 靴を脱いで、真っすぐに自室へ入った。制服のリボンを解き、鞄をベッドに投げ飛ばす。電気を点け、勉強机の椅子を引っ張り出して勢いよく座り込むと、荷重がかかったことで椅子が軋む音を立てた。


「はあ……」


 特大のため息を吐き出して、スカートに寄った皴を意味もなく見つめる。

 母親は、もう少し経ったら帰ってくるだろう。いつも、ひまりのほうが先に帰宅するのだ。そのため、夕飯を作っていないと、ここぞとばかりに罵詈雑言を投げかけてくる。

 けれど、今日は練習で疲れて、動く気になれなかった。冷蔵庫の中に冷凍の炒飯の素が入っているはずだ。それと冷ご飯で作れば、母親が帰ってきてからでも手早く作れるだろう。


 不意に、この生活を、いつまで続ければ良いのだろうか、とひまりは思った。

 父親がいなくなって、もう数年が経つ。それ以来、ずっと二人で暮らしてきた。母親は段々おかしくなり、かつての父親同様にひまりに暴力を振るうようになった。額につけられた傷は、まだうっすらと残っている。


 本当は、こんな家にいたくない。今すぐ家出してしまいたいくらいだ。けれど、そんなことは出来ない。ひまりには、生活する力も金も無い。母親に縋りつくしか、ひまりは生きていけない。

 それに、母親が金を出してくれるからオーボエも吹いていられる。母親の承認欲求のために吹かされているとしても、ひまりにとってはオーボエと部活は人生の救いだった。 

 今それを捨てることは、ひまりには出来ない。


 あと一年半で、高校を卒業できる。そうしたら、ひまりは家を出るつもりでいた。社内吹奏楽団のある会社に就職して、一人暮らしをしながらオーボエを続ける。それが目標だ。

 オーボエを自分で購入しなくてはならないから、卒業後しばらくは吹けないだろう。けれど、社内楽団のある会社に就職出来れば、楽器さえ手に入れれば自由に吹く環境を得る事が出来る。


 進路相談でも、担任にはそれを伝えてあった。学校に来る求人に一つ、そういう会社がある。だから、ひまりはそこを受ける。寮もあるから、家探しも必要ない。


 あと一年半。それだけ我慢して、家のことを周りにも隠し通せば、ひまりは完全な自由を手に入れられる。

 だから、あと少しの辛抱だ。


 その会社の楽団は、決して優れた楽団ではないから、今のようにコンクールで上を目指すことは難しいだろう。それでもいい。あの母親とこの家から離れられて、自由にオーボエが吹けるなら。ひまりにとって、家族とは、もう大切なものでも何でも無かった。

 今はただ、耐えるしかない。耐えてオーボエと向き合っていれば、終わる。それで、自由になる。


 とはいえ、どうせ吹くなら良い結果は勿論欲しい。真剣に練習しているのだから、結果が付いてこなければ、報われない。結果を追い求められるのは、今だけなのだから。


 三日後に、県大会がある。二日かけて行われる県大会の、一日目。出演順は、十番。そこで代表に選ばれれば、代表選考会へ進める。

 こうして上を目指せるのは、今年と来年の二回だけだろう。その残された機会を、無駄にしたくない。


 丘から直接言われたことは無いけれど、今年はひまりがいるから自由曲でトゥーランドットを選んだはずだ。ひまりの音が求められている。それに、応えたい。

 去年は、東海大会で銅賞だった。今年は、それを超えたい。花田高で、全国大会へ行きたい。報われたい。


 恵まれない人間にも、少しくらいは幸せを与えられて良いはずだ。


 扉の開く音がして、はっとした。母親が帰ってきたのだ。

 まだ制服から着替えていない。慌てて立ち上がり、ひまりはスカートに手をかけた。急いで着替えて料理をしなくては、また母親に文句を言われる。

 はらりとスカートが地面に落ちると同時に、母親が呼ぶ声がひまりの耳に届いた。

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