七ノ十八 「咲と万里」
自転車を駐輪場に止めて、鍵をかける。かごから学校指定の鞄を取って駐輪場の屋根の下から出ると、すぐに日差しが身体を焼きにかかってきた。
「あっつぅ……」
手で庇を作って、空を見上げる。眩しい太陽と、大きく真っ白な雲の群れ。雀が何羽か、駐輪場の上を飛び去って行った。
グラウンドから、すでに部活を始めている野球部の掛け声とバットが球を打つ音が聞こえてくる。
駐輪場を出たところで、前方を元子が歩いていることに気が付いた。
「元子ちゃん」
駆け寄って、肩に軽く触れる。振り返った元子の眼鏡が、一瞬光った。
「咲ちゃん。おはよ」
「おはよう。あっついねー」
「今日は今年一番の暑さになるらしいよ」
「嫌だなぁ。ベタベタするし」
「……ところで、咲ちゃんって、駅からバス通学じゃなかった?」
「あ、うん。そうだったんだけどねー。お金かかるからバスは雨の日だけで、晴れは自転車にしなさいってお母さんに言われちゃって」
「あらま、大変だね」
「そうなんだよー。文句は言えないけど」
並んで生徒玄関に入り、ローファーからスリッパに履き替える。元子とは同じクラスだから、それなりに話すほうだった。
「咲ちゃん、コウキ君とペア練習になったんだってね。噂になってたよ。どうだった?」
「うーん……コウキ君の教え方、凄く分かりやすくて良かったよ。今まで音が小さいってずっと言われてたのが、どうにかなりそうな気がする」
「へえ、それは良かったね。さすがコウキ君だ」
「ほんと。同じ高一とは思えないよ」
「ふふ、ほんとにね」
何がおかしいのか、元子がくすくすと笑っている。普段あまり笑うところを見ないから、意外だった。
「でも、万里ちゃんが、悲しんでるかもね。ペア練習でコウキ君と離れちゃって」
「あーっ……うん。昨日、がっくりしてた」
万里はコウキの事を好きだから、二人でいられるペア練習の時間をいつも楽しみにしていた。それなのにペアが外れてしまったせいで、落ち込んでいる。原因は咲にあるようなものだから、申し訳ない気持ちで心苦しかった。
「責められてない?」
「えっ、うん。万里ちゃんはそんな事言う子じゃないよ。ちゃんと分かってくれてる」
「ふーん、そっか。良い友達だね。大事にしなよ」
「う、うん」
会話が途切れ、黙ったまま渡り廊下を抜けた。四階まで続く階段を一段ずつ上がっていく。踊り場の天井付近にある窓から光が差し込んでいるおかげで、階段は明るい。
咲は、隣の元子をちらりと盗み見た。黒縁の丸眼鏡は、正直似合っていない。長い髪は一つ結びのおさげにして、身体の前に流している。前から思っていたが、丸眼鏡とおさげのせいで、ひと昔前の女学生みたいな真面目な印象だ。
「ねえ、元子ちゃん」
「うん?」
「その眼鏡、お気に入りなの?」
「あー、これ? 全然。ホントはかけてたくないよ、こんなダサいの」
「えっ、じゃあなんでかけてるの?」
「私は優しいからね」
「え……?」
「ま、お気にせず」
はぐらかされてしまったが、そこで四階に着いたので総合学習室で分かれた。咲は部屋の南窓際の一番後ろの席。元子は中央付近の席がいつもの鞄の置き場所だ。
部室からケースを持ってきて、中からトロンボーンを取り出した。スライドにクリームを塗って準備を整えてから、マウスピースで軽く音を出す。
昨日、コウキに言われた。
「マウスピースで音を出してみて、そこに楽器をそっと付けてみて。音は出したまま」
コウキの言う通りにマウスピースで音を出した状態で楽器を付けたら、しっかりと張りのある音が出た。
「咲さんは、本当はちゃんと音を鳴らせられるんだよ。ただ、いっぱい考えてるうちに自分の音に向ける意識が減って、気づかないうちに弱くなっちゃってる。しかも、それが癖になってて普通に吹いてるつもりが常に弱くなってるんだろうな。だから、きちんと自分の音も意識していれば、咲さんの音は小さくなったりしないと思うし、無理やり鳴らさなくて良くなると思う」
マウスピースに、そっと楽器を付ける。まっすぐで伸びやかな音が放たれた。
「あら。咲ちゃん、音出るじゃん」
席に座ってサックスを組み立てていた元子が、驚いた表情でこちらを見た。
「え、へへ。コウキ君のアドバイスのおかげかな」
「良い音だね。おめでとう」
「あ、ありがと」
それから少し音出しと基礎練習をこなした。コウキに指摘された通り、自分の音を意識するようにしながら。三十分ほどは練習しただろうか。
「咲さん、おはよ」
いつの間にかコウキがそばにいた。
「おはよ」
「今からペア練ちょっとやらない?」
「良いの?」
「勿論。英語室に行こう」
部活開始まではまだ三十分ほどあった。二人で英語室に移動する。中に入ると、一番後ろの窓際で、頬杖をつきながら二年生の佐方ひまりが景色を眺めていた。
「ひまり先輩、おはようございます」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。ここ使う?」
「はい、あ、先輩居て良いですよ」
「いや、邪魔になるから出てくよ。頑張って」
さっと手を一振りして、ひまりは英語室を出て行った。
「……ま、いいか。じゃあやろう」
昨日と同じように、向かい合わせになって座る。
「さて、まずはさっき咲さんが吹いてる姿を見て一つ気になった」
「何?」
「楽器の向きを下げ過ぎてる。そのせいで、頭も若干前に突き出るような形になっちゃってる。頭って、首だけで支えてるから、その姿勢は疲れやすいと思うんだけど」
「そう、なのかな」
「真っすぐ背筋を伸ばすとか楽器を上に向けてとかは考える必要無いけど、不自然な力の加わった状態での演奏は、あまり良いとは思えない。どうしても楽器を持つのが疲れて下を向いちゃうときとかってあると思うけど、頭や首が固くなると音も悪くなるから、頭と首は常に自由に動かせるように意識してみて」
「分かった」
「それじゃ、昨日と同じように思考について気をつけながら吹いてみよう」
譜面台に教本を載せ、メトロノームを動かす。
「一、二、三」
コウキが、拍を刻む。四拍目で呼吸を吸い、音を出した。
自分の音をコウキに聴かせる意識を持ちながら、コウキの音を聴いて、吹く。コウキも同じことをしているから、すぐに二人の音は混ざりあった。対等な音の調和によって、豊かな響きが生まれる。
「良い感じ。ちょっと軽く曲吹いてみようか。アルセナールのメロディとかどう?」
「吹けるよ」
「じゃあ、それで。少しゆっくり目に吹いてみよう。行くよ。一、二、三」
アルセナールの華やかなメロディ。トランペットとトロンボーンの二つの音域の音が混ざり、気持ちの良い響きが広がった。
コウキとの練習はあっという間に終わって、部活開始の時間となった。全体挨拶があって、今日の予定が告げられる。午前中は基礎合奏のあと、課題曲の合奏、午後は自由曲の合奏と通し録音演奏となる。
指揮台に奏馬が立ち、全体を見回した。
「基礎合奏始めます」
「はい!」
「咲ちゃん」
小声で、隣の理絵が声をかけてきた。
「調子どう?」
「良い感じだと思います。まだ慣れないけど、少しは音が出るようになったかな、って……」
にっ、と歯を見せて、理絵が親指を立てた。
「やったね」
照れて、うつむいてしまう。
「おい、トロンボーン、集中して。やるよ」
「あっはい!」
奏馬に指摘されて、理絵が背筋を伸ばした。咲も慌てて楽器を構える。
「じゃあ、ロングトーンから」
ハーモニーディレクターから規則正しいリズム音が響く。
クーラーの効いた図書室に、今日も音が満ちはじめた。
もそもそとしたサンドイッチをつまみながら、ぼんやりと空間に目をやる。どこを見るでもなく、サンドイッチを味わうでもなく、ただ、行為だけを消化する。食べなくてはならないから、食べる。目を開けていなければいけないから、開けている。
味のしないサンドイッチが、一口、また一口とその姿を小さくしていく。
「どしたん、万里。暗くね?」
斜め右の席に座っていた美喜が、顔を覗き込んできた。
「んー」
「おーい、聞いてるの?」
「んー」
「駄目だこりゃ」
美喜の言葉が、耳を抜けていく。
サンドイッチの端からはみ出たレタスが、机に敷いていたハンカチの上にこぼれ落ちた。それを拾い上げて、口に入れる。
「どしたの、これ」
「多分、コウキ君とペア練外れたからじゃない?」
桃子が言った。最近は、桃子も美喜と打ち解けたらしく、時折一緒に弁当を食べる。
「あー、なるほどそういうこと。ったく、情けないなあ」
「しょうがないよ。好きな人とペア外れたら、悲しいじゃん」
「別に。練習とそれは別でしょ」
「皆が皆美喜みたいな考えじゃないってこと」
やいやいと、目の前で会話が繰り広げられていても、万里の耳には全く入ってこない。
気が付くと手に持っていたサンドイッチは全て食べ尽くしていた。手を合わせて、ごちそうさまと小さく呟く。それからサンドイッチを入れていた空の弁当箱を仕舞い、立ち上がった。
「トイレ行ってくる」
「はいよ」
総合学習室を出て、廊下を歩く。英語室を通り過ぎてその隣の美術室前を通ると、中で咲とコウキが食事をしながら会話している姿が目に入った。途端に、ずきんと胸の奥に痛みが走る。
楽しそうに笑っている咲とコウキ。その姿を見ていたくなくて、万里は二人に見つからないように、小走りで通り抜けた。
トイレを出た後、また美術室前を通る気が起きず、何となく反対方向に歩いてそこにあった扉を開けた。金属の軋む鈍い音を立てながら扉が開き、眩しい光が目に飛び込んでくる。
東端の、非常階段。来たのは初めてだった。
「ふう」
胸くらいの高さの、コンクリート製の非常階段の壁の上に両肘を置いて、景色に目をやった。職員棟の東には体育館がある。開けられた窓から、ボールが何度も地面を打つ音と靴が擦れてキュッという音を立てているのが聞こえる。バスケ部だろう。
生を謳歌する蝉の合唱と運動部の練習音に、繰り返される掛け声。空には、大きな綿菓子のような雲と太陽。
万里は、夏の蒸し暑さだけは好きになれないが、開放的で自由を感じるこの雰囲気は、四季の中で一番好きだ。
「はあ」
二度目のため息が出る。意識していないのに、息が口から漏れて出てしまう。
昨日、突然コウキにペア解消を告げられた。咲と組むためだという。代わりに、二年のトロンボーンの理絵と組むことになった。
今まで、コウキとのペア練習の時間が至福の時だった。それが、突然無くなってしまった。
コウキが、万里に特別な感情を抱いてないだろうことは自分でも分かっている。それでも、二人きりで過ごせるあの時間が万里にとっては、かけがえのない大切な時間だった。
もう、コウキとのペアは組めないのだろうか。暗い気持ちになって、三度目のため息が口から飛び出した。
別に、自分から練習を見てもらいたいと言えば、コウキはきっと見てくれるだろう。けれど、理由があってコウキは咲とペアを組んだ。なら、コウキはきっと咲につきっきりになるはずだ。その邪魔は出来ない。
ペア練習があったから、コウキとは沢山話せた。けれど、それが無くなってしまったら、何と理由をつけてコウキに話しかければ良いのか。
もやもやとした思考に満たされた頭を意味もなく揉んでいると、後ろで金属が軋む鈍い音が上がった。振り返ると、職員棟の中へ続く扉から智美が出てきていた。
「中村さん」
「万里ちゃんがここにいるの、珍しいね」
扉が音を立てて閉まり、智美が隣にやってくる。横から顔を覗き込まれて、万里はちょっとした緊張を覚えた。智美の端正な顔が近くでこちらを見ていると思うと、女子同士なのにドキドキとしてくる。
「なんか、後ろ姿が元気ないように見えたけど、悩み事?」
「う、ううん。ちょっと、気分転換に」
智美が、小さく声を上げて笑った。
「嘘つくの、下手だね万里ちゃん。てか、智美で良いよ。苗字呼びって、距離感じるし」
「えっ」
「ほら」
じっと見つめられて、さらにどぎまぎとしてしまう。
「……と、智美、ちゃん」
「ん」
満足そうに笑うと、智美はくるりと後ろを向いて、壁にもたれた。
体育館で、歓声が上がった。甲高いホイッスルの音が鳴り響く。
「で、どうしたの?」
「え、と……」
言って良いものか悩んで、万里は喉を詰まらせた。部員一丸となってコンクールに向かっている時期に、恋愛のことで悩んでいるなどと言ったら怒られないか。
「よし。じゃあ私が当ててみる。当たったら、話してくれる?」
「分かるの?」
「コウキの事でしょ」
心臓が、大きく跳ねた。
「ペア練習外れちゃって、悩んでる。どう、当たり?」
「……うん。鋭いね」
「まーコウキに頼まれてたから。万里ちゃんの事も気になってて、何となく、そうかなって思った」
「頼まれてたって?」
「コウキが咲とのペア練に集中したいから、その間他の子の様子を見といてって言われたんだ。特に万里ちゃんのことは気にして欲しいって」
「そう、だったんだ」
コウキは、気にしてくれていたのか。
「じゃ、当たったから話してくれる?」
壁から身体を離し、階段の一段目に智美が腰を下ろした。隣を、ぽんぽんと手で叩いている。
万里はどこまで近くに座って良いのか分からず、遠慮気味に一段目の端の方に腰を下ろした。智美が、問答無用で距離をつめてくる。
智美には自分から話しかけたことが無かった。それなのに、智美はいつもぐいぐいと来る。不快感は無いけれど、その距離感の近さに、まだ慣れない。
「どうぞ」
「あ、うん。えっと……」
一度、心臓を落ち着けようと深呼吸する。
こうなったら、智美に相談してみよう、と万里は思った。コウキの事をこの部で一番良く知っているのは、多分智美だ。智美に相談すれば、何か見えるものもあるかもしれない。
「今まではペア練のおかげでいっぱい話せてたけど、ペアじゃなくなっちゃって、これからどうやってコウキ君と話せば良いのかなって……悩んじゃってたんだ」
「普通に話しかければ良いんじゃないの?」
「その、普通、が分かんなくて」
コウキを前にすると、嫌でも意識してしまう。
「緊張しちゃうんだ。コウキ君と話すと」
二人の間を涼風が吹き抜け、暑さがその瞬間だけ和らいだ。
「そっかぁ。まー、そうだよね。好きな人を前にして緊張しないなんて、難しいもん」
「智美ちゃんも、緊張するの?」
「ん、あー、私は別に好きな人とかいないから分かんないけど、他の子も皆そうみたいでさ。あ、てかさ、いっそ緊張しちゃうなら、それを言葉にしたらいいんじゃないかな」
「え?」
「コウキと話すと緊張しちゃうとか、一緒に居ると楽しいとか、何話したらいいか分かんない、とか。思ったことを全部言うの。そうすれば、コウキなら言葉を返してくれるよ」
「は、恥ずかしいよそんなの!」
「でも、思ったことを言わないと、万里ちゃんの気持ちはいつまでも伝わらないし、会話できないよ?」
「そ、そうだけど……」
そんなことが出来るだろうか。気持ちが伝わって、嫌われたらどうすればいいのか。そう思うと、余計に口は動かなくなる。
簡単そうに智美は言うけれど、万里にとっては至難の業だ。
「コウキは、素直に言葉にしてくれる女の子のことは、絶対に邪険に扱ったりしないよ。むしろ、自分の言葉を話してくれない子や、嘘で繕う子を、コウキはすぐに見抜いて嫌うから。万里ちゃんにとっても、絶対そっちの方が良いと思う。小さなことから言葉にしていきなよ」
「……出来るか分かんないけど……」
「うん。まー、私も恋愛経験なんて無いからあんまり参考にならないかもだけど、またいつでも頼って」
言って、智美が歯を見せて笑った。
「ありがと、智美ちゃん」
「ん。じゃ、戻る?」
「うん」
二人で立ち上がり、スカートについた塵を払った。
体育館からは、まだバスケ部の音が聞こえてくる。もうすぐ吹奏楽部の昼休みは終わろうとしているのに、バスケ部はずっと活動している。随分熱心だ。練習試合でもしているのだろうか。
また歓声が上がって、ホイッスルが鳴り響いた。うちの部が得点したのか、それとも、他校か。
智美が開けてくれた扉をくぐりながら、万里はぼんやりとそんなことを思った。




