七ノ十七 「楽器を吹く時に、一番初めにすること」
図書室での練習は、部員の集中力を合宿の時と同じように高めた。
夏場はどうしても気温の影響を受けて、音程が上がり気味になるけれど、クーラーが効いているおかげでその心配がないし、何より汗をかいたり、暑さで気力を削がれたりしないのが大きい。
昼休憩を挟んで、四時間近くに及んだ丘の合奏指導の後、ペア練習の時間が取られた。
「ペアで指摘された部分を改善してください。合奏ですることは互いの音を合わせることであって、出来ないことを出来るようにする場ではありません。それは個人練習やペア練習、パート練習でやるように」
「はい!」
「四時から通しと録音を行いますので、それまでに図書室へ集合してください」
丘の指示を受けて、ペア練習のためにそれぞれが散っていく。
「咲さん、視聴覚室行こうか」
「はい」
コウキがそばに来て言った。
視聴覚室は、渡り廊下を抜けた生徒棟の二階の西端にあり、あまり部員でも使う人がいない。
二人でそこに行き、扉を開けると、途端にむわっとした蒸し暑い空気が吐き出されてきた。閉めきってあったせいで、空気が熱せられている。
中に入ると、すぐに汗が出てくる。大急ぎで全ての窓を開け放つと、生ぬるい風と一緒に、騒々しい蝉の鳴き声が飛び込んできた。
「よし、じゃあ座ろう」
向かい合わせになって椅子に座る。
「まず、今回咲さんとペア練習を組みたいと思った意図について話そうと思う」
「うん、気になってた」
「咲さんは今、自分の演奏で何か問題を感じていることはある?」
「問題……うーん、早いリズムが遅れがちになったり早くなったりすることかな」
「なるほど、その原因は何だと思ってる?」
「正確なポジションに、スライドを素早く丁寧に動かせてないのかなって」
トロンボーンは他の金管楽器と違って、U字型のスライドを動かして、管の長さを変えることで音程に変化をつける。正しいポジションにスライドを動かさないと音が変になってしまうため、正確な動きを身に着けることはトロンボーン奏者にとって必須となる。
「じゃあそこも一緒に、どういう原因で素早く動かせてないのか、見ていこう」
「分かった。でも、じゃあコウキ君が考えている問題点って、そこじゃないの?」
「うん。咲さんが、合奏とかパート練習で一番指摘されることって、何? スライディングのこと?」
「え、えっと……音が小さい、とかもっと鳴らせ、とかかな」
「それ。俺も、気になってたんだ」
思わず、顔をしかめてしまった。自分の手に持っているトロンボーンに目をやる。それは、トロンボーンを始めてから、ずっと言われ続けてきたことだ。
自分では音量を出しているつもりなのに、鳴っていない、響いていない、もっと出せと言われ続けてきた。
「でも、私、ちゃんと音出してるつもりなんだよ。なんでいつも言われるのか分からないくらい……」
「現象には絶対に起きた原因がある。咲さん自身は小さく吹いているつもりがないのに、周りには小さく聞こえてしまう原因が。何がそうさせているのか、一緒に見つけよう。俺が咲さんとペア練習を組みたいと思ったのは、音量の問題が気になって、しかもそれは解決できる問題だと思ったからだ」
「……そう、なんだ」
「うん。じゃあ、まず軽くロングトーンを吹いてみようか。音量は意識せず、普通の状態で」
コウキが、持ってきたメトロノームの振り子を動かした。合図で、基礎練習用の教本に載っているロングトーンを吹く。コウキの真っすぐな音に寄り添わせるように意識して、咲は音を出した。音程を揃え、発音を意識し、処理を合わせる。音の変わり目には雑音が入らないよう、スライドを素早く動かすことを意識する。
マウスピースを口から離すと、コウキが尋ねてきた。
「今のロングトーン、自分で音量はどう感じた?」
「どうだろ……普通だったと思うけど」
「俺は、ちょっと小さいなって思った。でも、咲さんは小さく吹こうとかって考えてはないんだよね?」
「うん、普通に吹いたよ」
「じゃあ、どういうことを考えながら吹いてた?」
「え? んと……コウキ君の音に合わせようとか、スライドを正確にとか、右腕を早く動かして、とか……」
「なるほど、いっぱい考えてるね」
「そうしないと、上手く吹けないじゃん」
「確かに、咲さんって音を人に寄り添わせるのは上手だよね。ぴったり合わせる技術があるっていうのは、耳が良い証拠だ」
褒められて、気恥ずかしさを感じた。普段は美喜に怒られてばかりだし、丘にも理絵にも褒められたことはない。
「ところで、楽器を吹く時に、一番初めにする行動って何だと思う?」
「え、難しい事聞くね」
「はは、いや間違っても良いんだ。思ったことを言ってみて」
コウキが、トランペットの中に溜まった水を足元の雑巾に捨てた。金管楽器は、吹いているうちに水分が管内に溜まるため、定期的に出す必要がある。
「……呼吸、かな?」
「うん、確かに呼吸はその通りだ。息を吸わないと絶対吹けないしね。でも俺は、思考が一番初めだと思ってる」
「思考?」
「そう。たとえば、今みたいにロングトーンを吹くってなったら、まずどう吹くか、って考えない? それから、楽器をこう構えよう。息を吸おう。息を吐こう、って全部行動の前には頭で考えてない?」
「言われてみれば、確かにそうかも。あんまり意識したことないけど」
「人間は、行動の前に必ず何か考えているはずなんだ。特に楽器演奏はね。単に呼吸一つとっても、お腹に息を入れようって考えて吸う人もいれば、沢山吸えるだけ吸おうって考える人、横隔膜を意識しようとする人、色々だと思う。人によって、どういう思考で行動方法を決定づけているかは違う。そこに、技術の上手い下手の差があると俺は思う」
今まで、自分が何を考えて吹いているかなどと、咲は考えたことがなかった。
「だから、自分の身体が一番良い動き方を出来るような思考をすることが、良い演奏にとって大事だと俺は思うんだよ」
「んー……なるほど」
「じゃあ、咲さんの場合で考えよう。咲さんは、まず俺に音を合わせようと考えたよね」
「うん」
「それは、どうしてそう思った?」
「中学の時から言われてるから。隣の人の音を聴け、周りの音を聴けって。だから、まずはそれを大切にしなきゃなって思って」
「その時、自分の音についてはどう考えてる?」
「自分の音? えっと……どうだろう」
相手の音を聞いて、それに合わせることばかり意識していて、自分の音はあまり気にしていなかったかもしれない。
「よし、もう一回吹いてみよう。今度は咲さんが俺に合わせようとするんじゃなくて、自分に合わせてもらうと思って吹いてみて。そうだな……俺が咲さんに合わせやすいように、張りのある音を出そう、って意識してみて」
「分かった」
メトロノームが再び動かされた。規則正しい振り子の動きが、正確にテンポを告げる。
コウキの合図で、先ほどと同じロングトーンをもう一度吹いた。今度は、コウキが咲に合わせやすいよう、リードする意識を持って。
吹きながら、自分でも感じた。芯のある音が出ている。決して大きい音ではないが、耳にしっかりと届いてくる。向かいのコウキが、満足そうな顔をして、左手の親指をぐっと立てた。
吹き終えて、楽器を下ろした。
「どうだった?」
「さっきと、全然違った」
「それは、良かった? 悪かった?」
「良かった。吹いてる感じは全然変わらないのに、出てる音はいつもより大きかった、と思う」
いつもは人に指摘されてから音量を上げるために思い切り吹くと、苦しくなっていた。それに、音を大きくすることに集中してしまって人の音が聴けなくなり、音がズレるのも気持ち悪く感じていた。
今のロングトーンは、コウキが合わせてくれたのもあるだろうけれど、気持ち良い音で、かつ自分の音がコウキと対等に響いていた。
「俺も思った。良い音だったと思う」
「なんで? なんでこんだけ違ったんだろう」
「咲さんは普段、あまり自分の音を意識していないんじゃないかな。自分の音は周りに合わせるためのものだと思いすぎてて、無意識に音が弱くなっちゃってるのかも」
「だから自分では吹いてるつもりなのに、小さくなってるってこと?」
「そう。咲さんは、聴く力、合わせる力が人より優れてる。今までは合わせる事に意識が向きすぎてて、自分の音を主張することがおろそかになっていたのかなって」
言われて、咲は過去を思い返した。
これまで、ほとんどセカンドかサードを担当してきた。下のパートはファーストに合わせたり他の楽器と混ざり合うことが大切だったから、周りの人の音を聴いてそれに寄り添わせることを常に意識してきた。
そのおかげか、音程やハーモニーのことで指摘を受けたことはほとんどない。自分でも、人に音を合わせることは得意だと思っていた。
ただ、コウキの言うように自分の音を主張するという意識は、あまり持ったことが無いように思う。
「そう、かも」
「前にさ、部訓の調和の意味について俺なりの考えを話したことがあるじゃん」
「うん、覚えてる」
「調和って、相手に合わせる事は確かに必要だけど、自分らしさを失くしてまで合わせるのは、ちょっと違うと思うんだよね。それぞれの個性や音がぶつかりあって、溶け合って、一つになって、そのメンバーでしか生みだせない音になる。それが調和だと思うんだ。今の咲さんは周りに音を合わせすぎて、自分の音が目立たないようになっちゃってる。もっと、自分を主張して良いと思うよ。そのうえで、合わせる」
「でも……自分の音に集中すると、すぐに他の人の音が聴けなくなっちゃうんだけど」
それでいつも、音量を大きくしてもしっくりこなくて、嫌だった。
「でも、さっきの二回目のロングトーン、凄く良くなかった?」
「良かったけど」
「音量を大きくしなきゃって考え方じゃなくて、自分の音を相手に伝えつつ合わせようと考えてみて。音を合わせるのは、咲さんだけがやれば良い訳じゃないじゃん。相手も咲さんに合わせようとするから感動するハーモニーが生まれるわけで。だから咲さんの音も相手に伝えようとしてみて。いきなり出来なくても当たり前。そのための練習でしょ」
コウキが笑いかけてくる。
コウキの言う通り、音が響いている状態で他人に合わせられたら、音量のことで怒られることはなくなるかもしれないし、さっきみたいに気持ちが良いだろう。
けれど、県大会まで時間がない。短い間に、その感覚がつかめるだろうか。
「間に合うかな」
「大丈夫。咲さんは音量と、自分で気になるって言ってたスライディング以外は、大きな問題はないはず。曲だって、全く出来てないなんてところはないでしょ?」
「多分」
「なら、まずはその二つを変えていこう。それが結果的に咲さんとバンドのレベルアップにつながるから」
「……分かった」
「よし」
コウキが止めていたメトロノームを再び鳴らした。
「最初は咲さんに俺が合わせて吹くから、俺が合わせやすくなるような張りのある音を意識してみて。次に、その意識のまま咲さんも俺に合わせようとしてみて。そんな感じで、合わせてもらう感覚と合わせる感覚を同時に持てるようにしてみよう」
「はい」
今まで音量のことは、とにかく出せ、鳴らせとしか言われてこなかった。そう意識すればするほど音は乱れた。
コウキの指示は、そうではない。コウキの言うような感じで吹くと、慣れない感覚に落ち着かないけれど、音自体は良くなる。
コウキの指導の的確さに、咲は内心で舌を巻いた。万里や桃子といった初心者の子たちが、コウキの教えは分かりやすいといつも言っていた。実際に受けてみて、その通りだ、と咲は思った。




