七ノ十六 「次の一手」
閉会式の後、興奮冷めやらぬといった様子でバスに乗り込んだ部員は、晴子の掲げる賞状に歓喜した。
地区大会なら突破できるはずだという、漠然とした自信はほとんどの部員が感じていたのだろうが、実際にその事実を確認するまでは、不安も大きかったはずだ。
ほっとして、はしゃぐのも無理はなかった。
バスがしばらく走って、花田高までの道のりはあと半分くらいという時に、副部長の都がマイクを使って、審査員の講評用紙を読み上げはじめた。
「まとまりのある素晴らしい演奏でした。特に自由曲の心を揺さぶる演奏には拍手を送りたい。反面、課題曲はまだまだ改善点が多いと感じる出来でした。最後の六連符がもつれてしまうのはもったいない。テンポは今以上に落とすと曲の良さが崩壊します。タンギングの練習が必須でしょう」
紙をめくって、次の審査員の講評を読んだ。
「圧巻のオーボエソロとトランペットソロでした。ブラボー。ただ、それを支えるハーモニーはもっと丁寧に。ソロに頼りすぎているように感じました。フレーズ感をもっと意識したほうが良いでしょう」
どの審査員も、演奏を褒めつつも手厳しく改善点を書いてくれている。だが、どれも丘に指摘され続けてきたところばかりだった。
「やっぱり、まだまだなんだな」
隣に座っていた修が、ぽつりと言った。
「でも、改善点があるってことは、そこを直せばさらに良くなるってことですよ。改善点が見つからないほうが厄介だ。どこを直せば良いのか、分かんないんですから」
「まあ……コウキ君の言う通りかもな。直すしかないんだよな」
「そうです。他の学校も、絶対さらに仕上がりを良くしてくる。俺達も、もっと良くしましょう」
「トランペットは、俺が足を引っ張ってるからな……」
「え、そんなことないですよ。橋本さんを引っ張ってくれてるじゃないですか」
コンクールの二曲は、ファーストを逸乃、セカンドをコウキとまこ、サードを修と万里が担当している。どの楽譜も大抵トランペットパートは3つに分かれていて、それぞれ役割が違う。
ファーストがパートのメインとして旋律などを担当し、セカンドがその補佐とハーモニーを担当する。サードはハーモニーに厚みを持たせたり、他パートとの橋渡しの役を担ったりする。
ファーストが思い通りに吹くためには、セカンドとサードが臨機応変に合わせて、吹きやすい環境を整える必要がある。曲中の音の高さだけでいうなら、サードはファーストのような高音はないため簡単そうに思えるが、実際は心地良いハーモニーを作り出すための、耳の良さや対応力が求められる。
結局、どのパートも異なる技術が必要なのだ。
修は、決して上手い方ではないが、サードの役割としては、非常に良い仕事をしている。
「自信持ってください。サードの要は修先輩です」
「……ああ、頑張るよ」
眉を八の字にしながら、修が笑って言った。
バスが学校に着いた後は先に着いていたトラックから楽器を下ろし、音楽室でミーティングが開かれた。
「皆さん、今日はお疲れさまでした」
晴子が前に立って言うと、部員がお疲れさまでした、と返した。
「無事に県大会に進出できて、ほっとしています。けど、まだ私達は上位校の足元にも及んでいません。あと二週間で、すべての学校を抜いて代表権を得られるように、明日からは更に頑張りましょう」
「はい!」
愛知県の県大会には、地区大会を抜けた実力校が四十近く集まる。二日間に分けて審査が行われ、その中から十四校に絞られる。そして、選ばれた十四校で、東海大会への代表を決める代表選考会が行われる。
つまり、通常なら地区大会、県大会、支部大会、全国大会という流れのところ、愛知県では地区大会、県大会、県代表選考会、東海大会、全国大会という順番に進む必要があるのだ。
本番が多いということは、それだけ練習時間が減り、かつ組み合わせや出演順次第では、不利になる可能性もある。
条件はどこの学校も同じだが、まだ他校に比べて一歩後ろを歩く花田高にとっては、厳しい戦いになるだろう。
「奏馬は?」
「俺は、特に言うことは無いよ」
「じゃあ、丘先生、お願いします」
指揮台の上の椅子に座っていた丘が頷いて、部員を見回した。
「皆さん、本当にお疲れさまでした。どうでしたか、楽しく吹けましたか?」
部員が、思い思いの表情を浮かべながら顔を見合わせている。
「今回の皆さんの演奏の出来は、良く言えばいつも通りの演奏。裏を返せばまだまだ粗のある演奏という感じでしたね。ですが、フレッシュコンクールを思い出してみなさい。あの時から、ここまで変われると、誰が思ったでしょう」
ミニコンサートの練習もあったから、実際にコンクールの練習にあてられたのは二ヶ月程度だった。その短期間で、良くここまで来たものだ。
「県大会は、確かに厳しい状況です。しかし、私は必ず皆さんとなら代表選考会に進めると信じています。明日からは学校側の計らいで、クーラーのある図書室を使わせてもらえます。良い環境で、さらに集中して曲に向かいましょう」
「はい!」
「他校より劣っていると卑下しすぎず、自分達なら余裕だと慢心もせず。出来ることを、確実にやっていきましょう」
それから、明日以降の予定が話し合われ、副顧問の佐原や付き添いをしてくれた卒部生からの言葉を貰ったり、パート毎に振り返りを行ったりしているうちに、すっかり時間が遅くなり、結局家に帰り着いたのは十時を過ぎてからだった。夕飯を食べる気力もなく、自室に入ると、制服姿のまま眠ってしまった。
翌朝、目覚まし時計の甲高い音で目を覚ました。針は五時を指している。眠る前になんとか目覚ましだけはセットしていたらしい。
アラームを止め、シャワーを軽く浴びて予備の制服に着替える。そのまま、まだ眠っている両親の分も朝食を作り、自分だけで食べた。
家で一番早く起きるのはコウキだから、家族三人分の朝食を作るのは日課になっていた。毎日簡単な料理を作っておいて、余りを弁当にしたりする。初めの頃は智美の分も一緒に作っていたが、早起きに慣れてからは、智美も自分で弁当を用意するようになっている。
「よし」
持ち物を全て、学校指定の鞄に詰めたのを確認して、家を出た。
今日も朝から練習だ。八時から十七時までが活動時間だが、六時ごろから丘か佐原が学校を開けてくれる。だから、早めに行って自主練習をするつもりだった。貴重な夏休み期間を、有効に使わない手はない。
いつもの待ち合わせ場所に到着すると、少し遅れて智美もやってきた。
「おはよー、お待たせ」
「寝れたか?」
「ぐっすりね。ご飯も食べなかったよ」
「はは、同じだ」
自転車を走らせる。
まだ早朝だからそれほど暑くは無いが、それでも日差しは肌にじりじりと熱を加えてくる。
「県大会ってさあ、花田高が抜けるのは、やっぱり難しいの?」
後ろを走っている智美が言った。
「んー……まあ、難関のは間違いない。四十校近くいて、そのほとんどが地区大会ではうちより成績が良かったはずだ。それを超えて、少ない代表に選ばれなきゃいけないんだからな」
「王子先生の光陽高校とか、やっぱ凄いの?」
「あそこは全国的にも有名な学校だよ。全国大会常連校に比べると演奏の安定感にはムラがあるけど、それでも全国大会に出場した年は、勢いのある熱い演奏で観客を沸かせるらしい」
「ふーん……そういう学校って、どういう練習してるんだろう」
「さあね。前は花田高の顧問だったし、丘先生も少なからず王子先生の指導を参考にしているだろうから、似ているとは思うけど」
「でも、きっと王子先生も年月が経って指導に変化がありそうだよね」
「だとしても、光陽と花田で練習の精度自体には、大きな差があるとは思えないな。あるとすれば、それは両校の顧問と生徒の実力差、かな」
「うはー、厳しい事言うね」
全国大会に何度も出ているような学校なら、周辺から強豪中学校出身の生徒が来る。中学時代から全国大会に出場しているような生徒が集まれば、必然的に年々バンドのレベルも上がっていくことになる。
全国常連校や強豪校と花田高の違いは、そこにある。
花田高も全国大会に二度出場したとはいっても、十年以上前の話で、東海大会にも毎年進めているわけではない。成績だけなら、決して強豪とは言えない中堅の学校だ。
奏馬、ひまり、逸乃のような卓越したプレイヤーはいるし、平均的なレベルも低いわけでもないから、他校に劣らない演奏を奏でられる土台はあるが、やりかたを間違えれば、結果は伴わない。
「……今のままじゃ、ギリギリかもな」
「ギリギリ?」
「うん。何か大きな変化がないと、二週間で他校との差を縮められるかどうか」
日々、花田高の演奏の質は上がっている。もっと時間があれば、本当に全国大会に行ける可能性も見えてくる。だが、次の県大会まで二週間しかないのだ。その二週間で飛躍しなければ、県大会を抜けられない可能性も充分にある。
そのためには、ただ出来ていないところを直しているだけでは足りない。根本的な原因が、今のバンドにはある。
「どうすれば良いって、コウキは思うの?」
「……バンドのバランスを崩してる子がいるんだよね」
演奏中も、録音を聴いていても、感じていることだった。
トロンボーンパートの一年生の咲だ。彼女は、音が小さい。目立たな過ぎて、トロンボーンパートのバランスが悪くなっている。丘に何度指摘されても、咲はそこを改善できないでいた。
音が出せないわけではないはずだ。咲の音が響くようになれば、中音域の厚みはさらに増す。今は楽器が鳴っていないせいで、ハーモニーもちぐはぐになっている。
「その子を直すのが重要ってこと?」
「ああ。技術の問題じゃなくて、心とか思考の問題だと思う。きっかけがあれば、すぐに直るはずだ。そこが改善されれば、もっとバンドのサウンドは安定する」
恐らく丘も気づいているはずだし、トロンボーンパートや学生指導者の二人も気づいているはずだが、皆指摘しても直らないから困っているような空気を感じる。いつまでもそのままにしていい問題ではない。花田高が先へ進むためには、絶対に克服しなければならない問題だ。
「何とかならないか、動いてみるよ」
「私に出来る事はある?」
「その子に集中したいから、他の子のケアを任せたい。特に初心者組は初めての県大会だし、経験者組の意気に呑まれて足を引っ張らないようにって固くならないかが心配だ。それは智美もだけど、まあ智美は大丈夫だろ」
「何それ。ま、分かった。様子見るようにする」
「よろしく」
待ち合わせ場所から花田高までは自転車で三十分ほどかかる。学校に着くと、時刻は六時を少し過ぎたところだった。
それからは英語室で智美と一緒にハーモニーを作る基礎練習をした。初心者にとって最初の難関は楽器を吹けるようになることだが、その次の壁は、周りと音を合わせることだ。
完璧に和音が響いているか、音程は合っているかといったことを耳で聴いて判断できるようにならなくては、集団で吹くときに浮いてしまう。
そのため智美には音を聞き分けることができるようになってもらうのが最優先だった。その他の基礎練習は同じサックスパートの上級生がペア練習やパート練習で見てくれている。
「今の、凄く綺麗だったね!」
「うん。ユニゾンも、大分合わせられるようになってきたな」
あるフレーズを、同一の音で一緒に吹くことをユニゾンという。ユニゾンで吹いて綺麗に二人の音が合わさっていると、美しい響きが生まれる。まずはユニゾンが吹けるようになっていないと、違う音でのハーモニーを合わせるのは難しい。
「じゃあ、今度は俺が五度上で吹くから、聴いてな」
「はい」
ハーモニー練習で智美と吹くのは、教本の楽譜の場合もあるし、簡単な曲の場合もある。なるべく智美が飽きないような練習メニューになるよう心掛けていた。
一学期の間は平日の昼放課に、初心者七人を集めて同じことをしていた。これからは夏休みで一日練習が続くため、その時間は無くなる。自主練習の時間が使えれば良いのだが、家が遠かったり門限が厳しい子も多く、智美のように朝早くから来れたり夜遅くまで残れる子は少ない。
「コウキは、合わせるのが上手いね。凄く吹きやすい。私の音程、ズレてるでしょ?」
「それがハモりを担当する人の仕事だよ。相手に合わせるって言う技術は絶対に必須だ。智美も手を抜かなければすぐ出来るようになるから。じゃ、今度は智美が五度上な」
「はい」
七時半頃にもなるとほとんどの部員が登校してきていて、八時からの練習開始前に各自の音出しが始まっていた。
「これくらいにしとくか」
「うん。ありがとコウキ」
「じゃあ、さっき言った部員のケア、頼むな」
「任せて」
英語室を出て隣の総合学習室に入ると、いつもの定位置に咲がいた。トロンボーンを構えて、音を出している。だが、他の奏者の音に紛れて全然聞こえてこない。
音出しの段階で、自分の音としっかり向き合うのが重要だ。適当に音を出していても無駄な時間となってしまう。なのに、咲の場合は音が小さすぎるせいで、自分の音がはっきりと聴こえていないだろう。
黒板のそばで音出しをしていた奏馬に近づいて、声をかけた。
「奏馬先輩、おはようございます」
「お、おはよう。コウキ君」
「先輩、お願いがあるんですけど」
「ん、何?」
「今、ペア練習で橋本さんと組んでますけど、トロンボーンの橘咲さんと組ませてもらえませんか?」
奏馬の眉が、ぴくりと動いた。
「なんで?」
「バンドのためです。咲さんは、音が小さい。それが原因で、バンドのバランスが悪くなっています。さらに良くするためには、咲さんがもっと音が出るようにならないと」
「それを、コウキ君が直せるの?」
「分かりません。でも、放置していて良い問題でもありません。咲さんとはあんまり一緒に練習する時間が無かったので、ペア練習で見てみたいです」
「確かに咲ちゃんのことは俺も気になっていたけど、あれは技術の問題じゃないと思う。難しいよ?」
「はい。でも、絶対に解決しなきゃいけない問題です」
「……二人にも聞いてみよう。理絵ちゃん、咲ちゃん」
室内にいた二人を奏馬が呼んだ。トロンボーンの二年生の遠山理絵は、咲のペア相手だ。パートリーダーと副部長サブも担当している。コウキが、前の時間軸からずっと尊敬している人でもある。
「はーい」
「ペア練習の事なんだけど、コウキ君から提案があった。咲ちゃんとペア練習を組みたいらしい」
咲が、目を見開いた。
「ふーん……何でなの、コウキ君?」
「咲さんの音について思うところがありまして、少し見てみたいんです、理絵先輩。まだ咲さんとは一緒に練習したことってほとんど無いから、ペア練習の時間を使いたくて」
「私じゃ、駄目なの?」
「そうではないです。でも、理絵先輩も気づいているはずです」
コウキの指摘に、理絵の視線が揺れた。咲の方を見ず、喉を詰まらせている。
「俺に出来るか分からないですけど、やってみたいんです。理絵先輩にはその間、橋本さんをお願いしたいです。理絵先輩になら橋本さんをお願いできます」
「……私は良いけど、咲ちゃんは?」
話を振られて、咲がびくっと身体を揺らした。
「私……は……」
「咲さん、短い間だと思うけど、どうかな」
「私に、駄目なところがあるの?」
「駄目じゃない。ただ、もっと良くなる部分がある。咲さんがそれを克服したら、今よりずっと咲さんは上手くなるし、バンドのレベルも上がる。だから、重要なことだ」
うつむいて、咲は応えない。奏馬と理絵が顔を見合わせて、気まずい表情を浮かべている。
咲自身も、何となく察しているはずだ。今のままで良いとも思っていないだろう。だが、本人が変えたいと強く思う気持ちとコウキに見てもらうことを許容する気持ちがなければ、どうしようもない。
「咲ちゃん。俺は、やってみても良いと思うよ。万里ちゃんの上達は咲ちゃんも知ってるでしょ。コウキ君に任せてみたらどうかな? 俺や正孝は、初心者の桃子ちゃんや智美ちゃんを見ているから咲ちゃんを見てあげられないんだ」
奏馬が、優しい口調で幼いこどもに諭すように声をかける。咲が、ちらっと奏馬を見た。奏馬が頷く。
「私も、トロンボーン以外の子に教えてみるのも良いかな。違う楽器の子に教えるって難しいし、自分の勉強にもなるかも」
理絵が指を頬にあてながら言った。咲の気持ちが動くように、気を使ってくれている。
咲は理絵の顔を見て、それから、コウキに目を向けてきた。
「やろう、咲さん」
「……分かった」
よし、と奏馬が言った。
「決まりな。コウキ君。自分から言い出した以上は、頼むぞ」
「はい」
「万里ちゃんにも言いに行くか。咲ちゃんは先に音楽室に入ってて」
「分かりました」
とぼとぼと総合学習室を出て行く咲の背中を、黙って見送った。叩いたら折れそうなくらい細い身体をしている。一見すると、あの身体でトロンボーンを鳴らすなんて出来るのか、と思える。
だが、咲よりはるかに身体の小さい三年生の瑠美は、バストロンボーンを軽々と吹き鳴らしている。なら、咲にも出来るはずだ。なにか心理的な問題があって上手く音を出せていないだけで、そこを解決できれば、咲はもっと伸びるはずだ。
理絵と奏馬の間で交わされる会話を聞きながら、コウキはそう思った。




