七ノ十四 「それぞれの想い」
自分のホルンを磨きながら、奏馬は部室でぼんやりと物思いに耽っていた。
ホルンは管が複雑に入り組んでいるから、クロスで丁寧に拭かないと汚れが目立つ。高校生になってから親に買ってもらった楽器で、愛着があり、練習の後はいつも一日の感謝を込めて、掃除をしていた。
木曜日。合宿から、三日が経つ。本番の地区大会まではあと三日だ。明日は終業式で、夏休みに入る。
「今年は、行ける」
自分に言い聞かせるように、言葉を漏らす。誰もいない薄暗い部室に、奏馬の呟きが消える。
花田高の出る地区は、愛知県の中でも強豪校が集まっていることで有名だ。
特に目立つのは安川高校で、あそこは地区大会、県大会、東海大会と進むごとに、その演奏の質を大幅に向上させてくる。ほぼ毎年東海大会へ進み、何度か全国大会にも出ているから、世間的には花田高とライバルのような扱いだが、実際には大きな隔たりがある。
だが、今までは明確な差をつけられていたが、もう違う。課題曲も自由曲も、今の花田高に合っているし、東海大会まで進めた去年よりも、演奏の出来もバンドの質も良い。
春のフレッシュコンクールの頃は、ここまで出来るようになるとは思っていなかった。それほどまでに、酷い演奏だった。
奏馬にとって高校生最後の年だ。それなのに、このままでは地区大会で終わってしまうかもしれないという、諦めにも似た想いに襲われ、暗い気持ちになった。
今は、そんな想いは一切ない。この部は、変わったのだ。
去年は、一つ上の上級生が厳しい人達だった。だから、抑え込まれていた下級生が反発した。コンクールの後、奏馬の代も一つ下の正孝の代も、少しずつ抜けていくようにして、数人が部を去った。中には抜群の技術力を持つ子もいたから、バンドのレベルは各段に落ちた。
その経験があったから、学生指導者として奏馬は抑えつける指導はしないように心掛けてきた。上級生が絶対という風潮も無くしたくて、ペア練習ではその枠を取り払った。
そのおかげかは分からないが、確実にバンドは良くなった。
泣いても笑ってもあと三日である。残された時間で、出来ることをやるしかない。
「今年は、行ける」
拭き終えて輝くホルンに映る、自分の姿を眺めながら、奏馬はもう一度呟いた。
「は~るこっ」
どん、と後ろからぶつかられ、そのまま腰に手を回された。よろめきそうになったのを踏ん張って耐える。
副部長の都だ。隣に、テナーサックスの岬もいる。
「お疲れ。帰ろー」
「良いよ」
楽器を片付け終わって、鞄の中身を整理しているところだった。全て詰め込み、鞄の口を閉め、肩にかける。そのまま、二人と並んで歩き出した。
都はかなり背が低いし、岬も高いほうではない。三人で並ぶと、晴子だけ頭一つ分程飛び出てしまうのが、いつも気になっていた。
小さくて可愛らしい二人が羨ましい。というよりも、同期の女の子は晴子以外、全員背が低い。晴子も、低い身長が欲しかった。
「どしたの、晴子?」
「ん、何でもない」
都がのぞき込んできたのを、笑ってごまかす。無いものは仕方がないのだ。
今日で、一学期が終わった。午前で学校は終わって、午後が丸々部活動だった。活動時間後も居残って練習をしていたから、すでに時間は八時になろうとしている。
ここ最近は、いつもこの時間まで残っていた。
晴子にとって、最後のコンクールになるかもしれないのだ。後悔をしないために、少しでも練習をしようと決めた。都と岬は、それに付き合ってくれている。
物音一つしない静かな階段を、並んで下りていく。
「コンクール、もう明後日かあ」
岬がぽつりと呟いた。三人のスリッパが、階段を一段降りるごとに、ぺたぺたと音を立てて反響する。
「四月から、早かったね、なんか」
「うん。あっという間だった」
「私達、勝てるかなあ」
「強豪校、多いもんね」
都と岬が、弱気な言葉を吐く。
花田高校のある地区は、代表枠は四校しかないのに、どこも優れた演奏をするから、接戦になるのだ。
五月くらいまでは、今年はもう駄目だと思っていた。前年度に、ソロを担当出来るレベルの子達がいなくなってしまったし、晴子の力不足のせいで、全体のまとまりも悪かった。
様々な要因が重なって、バンドのレベルは落ちていた。実際、春のフレッシュコンクールの演奏は最悪だった。
けれど、あの時から比べると、バンドは見違える演奏になっている。少しずつ少しずつ、部が変わってきたのだ。
何が原因だったのか、晴子には分からない。ただ、本当に段々と部は良くなった。おかげで、もしかしたら上に行けるのではないかという、漠然とした希望を持つようになった。
「上に行けるって、信じようよ。そのために私達、今までにないくらい頑張ってきたんだもん」
「……そうだよね、晴子。去年より、全然頑張ってるよね、私達」
自分を納得させるように、何度も頷きながら都が言った。
「うん。今年は、去年より凄くまとまってる。上に行けるって、きっと皆も思ってる。だから、大丈夫」
靴を履き替えて外に出ると、辺りは完全に暗闇に包まれていた。少ない街灯を頼りに、通学路を歩いていく。
肌にまとわりつく不快な蒸し暑さが、べたつきを生む。
三人は家の方向が同じだから、よく一緒に帰っていた。中学の時からの付き合いだから、もう六年になる。三人とも、花田中央中学校出身で、吹奏楽部だった。
中学三年間は、全て地区大会で終わった。それが、晴子達の実力だった。だから、花田高に来て最初の年に、県大会にあっさり進んだり、去年は東海大会に進んだりしたのは、上級生のおかげであって、自分達の力だという実感はなかった。
いざ三年生になってみると、どうやって上を目指していけば良いのかも分からなくて、周りに頼りっぱなしだった。
同じ中学校出身の奏馬は、当時から上手かったし人望もあって、高校一年生の時には、すでにプロ奏者を目指して音大受験を考えているような、音楽一筋の人間だった。だから、奏馬が部長をやれば良いと思っていた。それなのに、奏馬は学生指導者になって、なぜか晴子が部長に選ばれた。
晴子はずっと、自分は部長に相応しくない人間だと思ってきたし、部長としての責任感に苦しめられてきた。
辞めたいと思ったことも、一度や二度ではない。二年生までは、上級生から部長らしくない、と言われ続けたのも、辛かった。
何とか耐えてこられたのは、いつも隣に都と岬がいて、奏馬が音楽面では引っ張ってくれて、他の同期も晴子の駄目な部分を支えてくれたからだ。
皆が居なかったら、晴子はとうに辞めていただろう。
同期は、去年まではもう少し多かったけれど、途中で三人辞めてしまって、九人になってしまった。
これ以上、一人も減ってほしくなかった。だから、九人で約束した。もう誰も辞めないで、皆で助け合おうと。残った九人の結束は、固い。
「私達なら、やれるよ」
今は、そう言い続ける。その言葉を、本当にするために頑張ってきたのだから。
自分達を信じて、二日後の地区大会を迎えるだけだ。
高校生活最後になるかもしれないコンクールが、もう明後日に迫っている。
緊張と不安で胸が落ち着かなくて、気を紛らわすために、机に教科書を広げていた。けれど、全く集中出来なかった。
サイドテーブルに置いたコップを乱暴に掴み、お茶を喉に流し込む。
「っはあ」
一息に飲み切って、未来は大きく息を吐いた。机に出来ていた水滴の輪の上にコップを戻し、壁の時計に目をやる。午前三時。あと一時間もすれば、外は明るくなる。眠れないまま、朝を迎えそうだ。
寝たほうが良いのに、頭は冴えて眠れない。部活から帰ってきて、夕飯の前に少し眠っただけで、後はずっと起きていた。
頭をがしがしとかき回して、教科書を閉じる。急に勉強道具が目障りに思えて、机の引き出しに、まとめて適当にしまい込んだ。
がらんとした机に両肘をついて、顔を両手で覆う。指の隙間から、勉強机の蛍光灯の光が漏れてくる。
未来にとっては、今年のコンクールが最後となる。大学では学業に専念するため、クラリネットを続けるつもりはないからだ。
親には、遊びは高校までにしろと言われているけれど、未来自身は、遊びのつもりで部活をやってきていない。勉強と同じくらい、未来にとっては部活動もクラリネットも大切なものだった。
親には九月になったら引退しろと言われているけれど、聞くつもりはない。コンクールの結果がどうであれ、三月の定期演奏会まで部に残る気だ。
ただ、叶うならば、コンクールは上に行きたい。去年までの結果は、上級生の力が大きくて、自分達の功績ではなかった。
自分達で掴んだ結果が、欲しい。その気持ちは強いものの、だからといって、今はそれだけを求めて活動しているわけでもない。
以前、クラリネットの一年生の綾が、部を辞めようとした。皆で引き止めたことで、なんとか思いとどまってくれたけれど、綾がそうなってしまった原因は、自分にもあった、と未来は思っている。
上の大会に行きたい。結果を出したい。それだけを求めていたせいで、初心者の綾にまで経験者の自分と同じレベルの要求をしてしまっていた。
クラリネットが責められる空気から、一年生を守ってあげなくてはならなかったのに、未来は気づかなかった。むしろ、厳しく接することで、自分もその責めの一端を担ってしまっていた。
それに気づいてから、未来は変わった。
綾達が、音楽を好きになってくれるように。吹奏楽に夢中になってくれるように。
それも大切にするようになった。
上に行きたいという気持ちは、少しも失ってはいない。むしろ、バンドのレベルが上がったおかげで現実味が増したから、気持ちはより強くなっている。
けれど、それは誰かの心や感情を犠牲にしてまで、叶えたい夢ではない。未来がいつの間にか吹奏楽を大好きになっていたように、綾達にも大好きになって欲しい。綾達にその想いがあって初めて、上を目指したいと一緒に思ってもらえるはずだからだ。
常に未来が厳しくしていた頃と比べて、クラリネットパートの雰囲気は変わった。楽しく、けれど真剣に音楽に向かう。そういう形になっている。
今までは、未来のせいで委縮する後輩のケアを晴子がしてくれていたのだと、後になって気がついた。
クラリネットパートを部の足手まといにしてしまっていた原因は、他の誰でもなく、未来自身にあった。
クラリネットパートは、もうお荷物とは言われていない。一年生三人は日に日に成長して、立派なバンドの戦力になっている。
本当は、もっと時間が欲しい。そうすれば、クラリネットパートは今より更に良くなる。クラリネットパートが良くなれば、バンドのレベルも更に良くなる。
時間が、足りない。明後日が本番なんて、早すぎる。もしかしたら、そこで、終わるかもしれない。
胸の中が、焦りのようなもので満たされて苦しい。
地区大会で、終わりたくない。
もっと、吹いていたい。皆と、もっと吹きたい。少しでも長く。
ここからなのだ。ここから、バンドは更に良くなる。時間さえあれば。地区大会さえ、抜ければ。
堂々巡りのような考えを追い払おうとして、未来は一度大きく息を吐いた。
昼休みに、太と学校の近くのコンビニへ行った。いつもなら持ってきている弁当で足りている太が、食べたりないと言ったからだ。
「本当にそんなに入るのか? 腹いっぱいになって楽器吹けなくならん?」
「大丈夫大丈夫。なんか食べてないと落ち着かなくて」
腹をさすりながら、手に提げたコンビニの袋を振り回して、太が笑った。袋の中には、パンとおにぎりと菓子が詰められている。いつもはぼんやりのんびりとした太でさえも、緊張しているのかもしれない。明日のコンクールで、三年生の夏が続くか終わるかが決まるのだ。当然だろう。
修は正直に言えば、他の同期八人と比べても、熱心に部活動に打ち込んでいるほうではなかった。
トランペットの技術はそれほど高くなくて、ずっとサードだったし、家が遠いせいで通学も大変だし、練習に休みは無いし、部に入っても、良いことはあまりなかった。だから、適当に皆に合わせて、何とかやっていられれば、それで良いと思っていた。
ところが、新入生が入ってきてから、部が変わりだした。それも、良い方向へ。
それに合わせて、必然的に練習も厳しくなり、修はついて行くので精いっぱいになった。後輩が頑張るから、自分も頑張るしかなかった。
いじられキャラとして、パートでも部の中でも定着していたが、修にも、先輩としての意地と誇りがあった。
三年間、この部でやってきたのだ。ついていけずに脱落するなんて、嫌だった。それに、同期の九人で、もう誰一人辞めないようにしようと約束したから、それも、破りたくなかった。
「修はあんまり食べてなかったね」
「ん、ああ……食欲無くて」
昨日の夕飯も、あまり食べていない。
一年前も二年前も、こんなことは無かった。中学生の時もだ。コンクール前日でもいつものように飯を食べ、風呂に入り、豪快に眠った。
それが、今回だけは違う。
自分でも気づかないうちに、部の皆の熱にあてられたのかもしれない。本気でコンクールで勝ちたいという気持ちが、心の中に生まれている。だから、不安や恐怖が胸の中に渦巻いて、こんな状態になっているのかもしれない。
「コンクール、明日だもんなぁ」
「絶対、勝ちたいな」
「うん」
下駄箱に戻って靴を履き替え、渡り廊下を通って職員棟に移る。階段を上がろうとしたところで、上からトロンボーンの瑠美が下りてきた。生徒指導を受けるか受けないか微妙な、膝より少し上の短さのスカート。ひらひらと揺れるそれを、見てはいけないと思いつつ、眺めてしまった。
「おっつ~」
手を振りながら、瑠美が近づいてくる。太がにこやかに手を振り返した。
「どこ行くの、瑠美?」
「んー? 気分転換。何か皆ソワソワしてる空気が嫌でぇ」
間延びした話し方だ。瑠美は、いつもふわふわとしている。中学生に見えそうな身長に、はっとするほど白い、絹のような肌と、整った顔立ち。間違いなく、美少女と呼んで良い見た目をしている。
そんな瑠美を前にすると、緊張してしまって、いつもは軽く回る口が、上手く動かなくなる。
「明日で全て決まるんだもん、ソワソワするのは仕方ないよ」
「そうだねー。でも、なるようにしかならないのに」
「瑠美は緊張してないの?」
「してないよぉ。私はいつも通り吹くだけだもん」
はあ、と太が感心したような声を上げた。
瑠美は、いつもこの調子だった。どんな時でもおっとりとしていて、自分のペースを崩さない。一緒にやってきた三年間で、瑠美が緊張している姿を、修は一度も見たことがなかった。いつだって、見事にバストロンボーンを吹きこなす。
「お? 太君、それ何?」
太の提げているコンビニの袋を、瑠美が覗き込んだ。袋を開けて、太が中を見せる。
「おっ、パンオショコラだ。ちょうだい!」
「あっそれ俺のお気に入りなのに!」
「もう貰ったもーん。ありがとねぇ」
個包装されたパンオショコラをひらひらと振りながら、瑠美は渡り廊下の向こうに去っていった。
「ちぇっ、最後に食べようと思ったのになあ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、太は本気で怒ってはいない。太は、決して怒らない奴だ。その穏やかな性格とふくよかな体型から、部員の癒し的な存在として見られている。
瑠美とも臆さず話せる太を、密かに修は尊敬している。
四階まで上がって総合学習室に入ると、奏馬が近づいてきた。
「お、コンビニ行ってきたのか?」
「うん。チョコあるよ、食べる?」
「いやいい。口がべたついて吹きにくくなる」
「食べた後はちゃんと歯磨きするでしょーそりゃ」
「それでも、俺は気になるんだよ」
どうでも良い会話だが、何か話していないと、奏馬も落ち着かないのだろう。
何か気を紛らわしていないと、気分転換になるはずの昼休みが、息苦しいものに感じてくる。それは修も同じだ。
いつもなら会話に加わるのだが、今日に限っては、くだらない会話をする気にならなかった。窓の外に目をやり、向かいの生徒棟をぼんやりと眺める。全ての窓が閉まっている。夏休みに入ったから、生徒の姿はない。
もっと早く夏休みになって欲しかった。そうすれば、練習時間がもっと増えた。
それは同時に、他の学校にとってもそうなのだが、それでも、修はもっと時間が欲しかった。
納得の行く演奏になっているわけではない。三年生のくせに、自分がトランペットパートの中でも下のレベルにあることは自覚している。それはつまり、足を引っ張る立場ということだ。
自分のせいでコンクールが駄目になったら。そう考えると、暗い気持ちになる。
ここで、終わらせたくない。
奏馬と太のくだらない会話が、相変わらず続いている。
窓の外に目を向けたまま、修は両手の拳を握りしめ、唇を強く噛んだ。




