七ノ十二「観察者」
夜になって夕飯と入浴を済ませた後、コウキはまた昨日と同じように談話室へ向かった。部屋にいても、正孝も奏馬もリーダー会議でいないため、暇なのだ。
メールで洋子とやり取りをしていたが、洋子もコンクール練習がハードになってきて疲れ気味らしい。眠ってしまったのか、メールをこちらから送った後、返事が返ってこなくなった。
談話室には、やはり他の部員も大勢いた。隅では、まだリーダー会議が行われている。朝の王子の指導もあって、話すことが多いのだろう。珍しく、丘も参加しているようだ。
近くのソファに座ろうとしたところで、ふと誰かの強い視線を感じて、談話室を見回した。ぱっと見では、皆談笑に夢中になっていて、コウキが入ってきたことに気づいている者はいないように思う。それなのに、まだ視線を感じ続けている。
もう一度全体を見回すと、ふいに一人と目が合った。グループに混ざっているのに、その会話には参加せず、じっとコウキを見ている子がいる。
一年生のバリトンサックスの、山口元子だ。
黒縁の丸い眼鏡をかけて、おさげに結った髪を前に流している。あまり笑わない静かな子で、コウキもまだ挨拶程度の軽い会話しかしたことがない。
見られているのは、気のせいではないようだ。コウキは、元子に近づいた。
元子の表情が、驚いたものに変わる。
「元子さん、勘違いだったらごめんだけど、何か用だった? こっち見てた気がして」
テーブルを囲んでいた他の子の視線が、元子に向く。
驚いた表情は一瞬のことで、もう元の表情に戻っている。
「そうだね、あるといえばあるかな」
すんなりと認められて、やや意外な気持ちにコウキはなった。
「なら、向こうで話す?」
「うん」
そのまま立ち上がり、元子がすたすたと歩きだす。
「あ、じゃあ……皆、ちょっと元子さん借りる」
「はーい」
後を追い、黙々と前を歩く元子の姿を眺める。華奢な身体つきだ。背は百五十センチ半ばくらいだろう。姿勢が良く、歩き方がきびきびとしている。
談話室から大分離れたロビーまで出てきた。この時間だと、ロビーに面した管理人室に職員がいるだけで、他には誰もいない。
空いているソファーに、元子が腰を下ろす。ぴんと背筋を伸ばして前を見ている。
コウキも、向かいのソファーに腰を下ろして向かい合った。
「それで、用って?」
問いかけると、元子の眼鏡がちょっと光った気がした。どこまでも見透かすかのような、元子の鋭い視線が突き刺さってくる。
彼女がどういう子なのか、まだコウキは良く分かっていない。というよりも、そもそも、元子はあまりコウキに近寄ろうとしない子だった。今も、何故見られていたのか全く思い当たる節が無い。
「気づかれるとは思わなかったな」
言われた意味が分からず、首を傾げる。
自分がかけている眼鏡を指しながら、元子が言った。
「これ、私の視線を隠す眼鏡なんだけど」
「どういう意味……」
「新しい人生はどう? 楽しい?」
どくん、と心臓が音を立てた。
「やり直しの人生は」
「な、に……」
口元だけで、元子が笑った。コウキに対して笑いかけてきたのは、初めてだ。だが、その笑みが、コウキには酷く不気味に見えた。
「あなたが、過去の記憶を悪用しない人で良かった」
何を言っているのか。何故、コウキが今まで隠し通してきた事実を知っているのか。
早鐘を打つ心臓を抑えながら、頭を回転させた。
「一体、何の話?」
「薬、飲んだじゃない」
「……言ってる意味が、分からないな」
二人とも、相手にしか聞こえない音量に抑えている。広々としたロビーには誰もいないとはいえ、管理人室には職員がいる。仕切りがないから、大きな声で話せば聞こえてしまう可能性もある。
「警戒しないで良いよ。私は、あなたの敵とかじゃないんだから」
「さっきから何を言ってるんだ。アニメでも観過ぎたんじゃないの?」
「ふふ。話しかけるつもりも気づかれるつもりもなかったけど、あなたから近づいてきたから、明かしておこうと思ったの。別に、私も隠すつもりはなかったもの」
元子は、こんなに大人びた話し方をする子だったのだろうか。合奏の時も普段も、最低限の返事くらいしかしないし、必要以上に他人と親しくしている姿を見なかった。
「私は、あなたのことを知っている。薬を飲んだことも、新しい人生をやり直していることも」
「くどいな……あまりしつこいようなら、もう戻るよ」
「やだ、警戒しないでって言ったじゃない。私は、あの店の店主の娘だよ」
「……は?」
「聞こえなかった? 私は、あの不思議な店の店主の、娘」
「いや、聞こえたけど」
「じゃあ、あの人の顔を思い出してみてよ。似てるでしょ」
そう言って、元子は眼鏡を外した。
最後にあの店の店主と会ったのは数年前だ。何となくしか、覚えていない。だが、似ているという前提で見れば、確かに、面影があるような気もする。
「しらばっくれなくて良いよ、もう。その態度で、あなたがこの話に心当たりがあることなんて、ばればれなんだから」
言われて、心の中で舌打ちした。元子のペースに巻き込まれている。
動揺して、冷静でいられていない。
とぼけるのは無意味だと悟り、コウキはソファにもたれて深く息を吐いた。
「参ったな。なんであの店の娘さんが花田高に……違う、俺のそばに、か? どういう目的だ?」
元子が再び眼鏡をかけなおし、こちらを見てくる。
「お父さんが私に頼んできたの。あなたを見ていてほしい、って」
「俺を? なんで、あの店主が?」
「あなたが、ギャップの可能性があるから」
「……ギャップ?」
聞き慣れない言葉に、眉をしかめた。
「ズレたモノのこと。ズレたモノっていうお父さんの言い方がダサくて嫌いだから、私はギャップって呼んでるの」
「……それで?」
「あなたは、あの店に出会った。そして、薬を飲んだ。つまり、二回ギャップと遭遇した。更に、あなたは気づいていないかもしれないけど、中三の時にも一度、ギャップに出会ってる。智美ちゃんが持っていたんだって」
「智美が!?」
思わず大きな声を出してしまって、慌てて口を抑えた。管理人室の職員が、一瞬怪訝そうな顔をしてこちらを見てきたが、頭を下げるとまた仕事に戻った。
「智美も、ギャップ……を知ってるのか?」
「いいえ。本人はそうとは知らずに持っていたようだし、もうその記憶も無いはず。今は手放しているみたいだし」
「そう、か……」
「その智美ちゃんが持っていたギャップは、間接的にあなたに作用する効果を持つ道具だった。不意の遭遇ならまだしも、人生で三回も自分に影響するギャップと遭遇するなんて、ありえないことなの。もしそんなに頻繁に遭遇できるようなものだったら、とっくに世界中でギャップの存在は認識されていなきゃおかしいもの。だから、お父さんはあなたがギャップである可能性を感じた」
言われて、はっとした。
「いや、俺、もう一つ遭遇してる」
その瞬間、元子の眼が大きく見開かれた。自然と身体が前のめりになり、こちらを窺うような顔をして尋ねてくる。
「どういうこと?」
「小六の時、小学校の石像が動いて会話をした。彼、と言って良いのか分からないけど、あの石像も、自分のことを元子さんが言うところのギャップだ、と言っていた」
元子が、口元に手をあてて、深く考え込むように黙る。
今の彼女の様子からは、コウキにとって悪意のある相手には見えない。それ以前に、もし元子に悪意があったのなら、この三か月で一度も接触してこなかったのが謎だし、今も正体を明かしたりもしなかっただろう。本当に、ただ見ていただけなのかもしれない。
だからといって、すぐに信用できる相手なのかどうかは判断がしづらい。
しばらくして、元子が顔を挙げた。
「なら、決定だね。やっぱり、もうあなた自身がギャップになってるんだ」
「……俺が」
「そう。ギャップを引き寄せる体質、とでも言えばいいかな。大人になってから体質が発現することも、無いことは無いらしいから。変わった体質を持つ人は、この世界に数は少ないけどいるの。お父さんもそう」
「あの人も?」
「ええ。予知能力があるとか、心が読めるとか、人によって体質は色々。でも、そういう人達からギャップの存在が世界にバレるわけにはいかないから、こちら側の人間が色々工作してるんだけどね」
コウキはため息をついてから、顔を両手で拭うようにして、天井を仰ぎ見た。
自分がギャップを引き寄せる体質だ、などと言われても、納得できるわけがない。前の時間軸では、二十八年間、一度もそういうものに遭遇したことはなかったのだ。
「そういうことだから、あなたの周りで、ギャップに関わる問題が起きたりしないか、見ててほしいってお父さんに言われたの。どうせどこかしらの高校には通わなきゃいけないんだから、って。それと、私のかけているこの眼鏡は、私の視線を相手に気づかれないようにする道具で、ギャップの一つなの。別に私、目は悪くないし、こんなダサい丸眼鏡、本当はつけていたくないんだけど」
綺麗な丸い形の黒縁の眼鏡。未来ではそういうのが流行る時期が来ていたが、今はまだダサくて地味な眼鏡という風潮だろう。
「でも、あなたを見ているのが仕事だったから。じろじろ見られてたら、あなたの気分が良くないだろうと思って、気を遣ってお父さんから借りたの。まさか、この眼鏡をかけていたのに私の視線に気づくなんて思わなかったけど。それも、やっぱりあなたがギャップを引き寄せる体質だからなんじゃないかしら」
談話室で元子の視線に気づいたのは、違和感を感じたからだった。それが、コウキの体質によるものだというのか。
「つまり、この眼鏡も計算に入れると、あなたは五回、ギャップに遭遇したってことね。お店とお父さんは合わせて一回とカウントして、過去に戻る薬、小学校の石像、智美ちゃんの持っていた道具と、この眼鏡。もう、ありえない。あなたがギャップである何よりの証拠よ」
「俺が……ギャップだとして、俺はどうなる?」
「別に、どうも」
あっけらかんとした様子で、元子が言った。
「ギャップを引き寄せる体質といっても、そんなに強いものではないんじゃないかな。危険なものに遭遇することは、無いと思っていいでしょ。そもそも、凶悪なモンスターとか、悪に染まった超能力者とかが現れてそれに巻き込まれて、なんていうのは、アニメや漫画の世界の話。現実にはそんなこと、ありえない」
「じゃあ、特に何かに気をつけて生活する必要もない、ってことか?」
「せいぜい、その体質や過去の知識を悪用しないことかな」
「……まさか、部内に俺の正体を知っている人がいたなんてな」
「気づかれない限り、黙っておくつもりだったよ。わざわざ言うことでもないし。私の仕事は、あなたを観察することだもの。ついでに、もしあなたの周りにギャップが集まってきて、それが例えば道具だったり生き物だったりで、他の人の手に渡りそうになったら、危なくなければ回収してお父さんに届けるっていう約束なの」
元子の大人びた口調や振る舞いは、この歳でギャップに関わってきたことで、培われたものなのだろうか。
「……元子さんは、高校のそばで一人暮らししてるのか?」
「いいえ。お店から通ってる」
「え、名古屋から毎日?」
「あの店は、名古屋にあるわけじゃない。扉を通して色んな地点と繋がっていて、名古屋はその一つってだけ。この辺りにも一つ出入口があるから、そこから通っているの」
ふふっ、と元子が笑った。ふと見せたその表情は、年相応の女の子の顔だった。
「こんな大事な時期に私に気づくなんて、間が悪いね。でも、まあ気にしなくて良いよ。私はこれまで通り過ごすから、あなたもこれまで通り過ごせば良い。私だって、今部活に真剣なの。仕事のためだけに、花田高に来ているわけじゃないから」
ソファから立ち上がって、元子が見下ろしてくる。
「あなたを見るためだけに、こんな厳しい部でやっていけるわけないでしょ。私だって普通に部活をしていたいし、コンクールに全力で向かいたいの。だから、お互い今まで通りに接しましょう」
「……ああ」
「まあ、話した以上はギャップ関係のことで相談があれば聞いてあげるよ。私に分かる範囲で、だけど」
軽く手を振って、元子は一足先にロビーを後にした。
一人残り、またソファにもたれる。
今日は、多くの事を知り過ぎた。
今まですっかり忘れていたが、確かにこの世界にギャップは存在していて、自分が気づいていないだけで、すぐ身近にいるかもしれないのだ。
自分もそれに深くかかわっているのだと、改めて実感した。
身近に元子のような詳しい人間がいるのは、考えようによっては幸運なのかもしれない。完全に信用したわけではないが、これから見極めていけばいいだろう。
本当に元子がただ部活をするためにここにいるのなら、コウキにとっても害は無い。
ソファから立ち上がり、ガラス張りの壁の外を見た。
真っ暗闇にぽつんと佇む駐車場の街灯に、大きな蛾が何匹かまとわりついているのが見えた。




