七ノ十 「合宿二日目」
施設の夕飯は大好物のカレーだった。当然、おかわりもしたのだが、太や修と張り合って三杯も食べたのはさすがにまずかったと、きつい腹をさすりながらコウキは思った。
合宿での練習はほとんど椅子に座ったままでも、かなり集中力を使う。女子の中には疲れすぎて食欲が無いという子もいたが、コウキは逆だった。普段は茶碗一杯か二杯程度しか食べないのだが、今日はそれだけ食べられてしまうほどに疲れて腹が減ったのだ。それに、ここのカレーは美味い。
風呂上りに、部屋で少し休憩してから談話室へ向かった。合宿の夜は、共同浴場で入浴を済ませた後、消灯前まで談話室で過ごす部員が多い。せっかくの共同生活、皆と話したいと思うのは自然なことだろう。
コウキが中へ入ると、一角で行われていたリーダー会議がちょうど終わって解散したところだった。奏馬に近づいて、部屋の鍵を渡す。部屋の鍵は各部屋の代表の三年生が管理することになっている。
そのまま話を続けようとしたところで、三年の副部長の大野都が、奏馬のそばに来て袖を引っ張った。
「ねー、奏馬、来て」
「あ、おう」
そのまま、無理やり都に連れられて奏馬は行ってしまった。声をかけるタイミングを失って、見送ってしまう。
練習のことで話したいことがあったのだが、仕方がない。
ソファの一つに座って、息を吐き出す。
懐かしい時間だ。
かつての高校生時代も、毎年ここへ合宿に来た。夜は、こうして談話室でくつろいでいたものだ。
練習に関しては、以前は部のまとまりがなく、丘の演奏の指摘は音の縦が揃わないとか音程が合わないとか、本来合奏以外の場でやっておくべきことに集中していた。そんな状態だったから、練習量に結果がついてこないまま、大会も三年間良い成績は残せなかった。
だが、今回は違う。明らかに、記憶の中のかつての演奏より、質の高いものになっている。部員の顔つきも、行動も、技術レベルも、各段に良くなっている。
この三ヶ月、コウキは表に立ちすぎないように、練習メニューの提案や、練習が遅れている子やついていけてない子、悩みを持っていそうな子のケアといった陰のサポートに徹してきた。
あくまでリーダーは三年生だからだ。一年生で、必要以上にでしゃばるわけにはいかなかった。
その成果が、少しは出ているのだろう。
本来、皆これだけの力を持っているのだ。ただ、人間関係や部の運営の停滞などで、その力を発揮できなかっただけで、環境が整えば、自らの力を出せるようになる。
思い描いていた部の形が見えつつあり、コウキの心は充実していた。
「……ん?」
思考に耽っているうちに、ふと、視界の中の違和感に気づいた。
談話室を見回す。広々とした室内には、ところどころソファーやテーブルが置いてあり、部員も他団体の人も、くつろいで談笑している。その隅のソファに、勇一と美喜が並んで座っていた。
あの二人は、あんなに距離が近かっただろうか。肩が触れそうな距離だ。いや、それ以前に、ああして二人で話すような仲だったのか。ちらりと横顔が見えた。随分、楽しそうに笑っている。
視線を移すと、二年生の正孝と摩耶も、談話室の一番奥の窓際に立ち、何とも言えない空気感を放っている。学生指導者と部長の二人だから、仕事の話をしているのかとも思ったが、どうも、もう少し甘い雰囲気のように見える。
極めつけは、奏馬だ。先ほど都に呼ばれていったが、今は都ともう一人、三年生のテナーサックスの脇田岬に挟まれて、困った顔をしている。都と岬が、奏馬を取り合っている構図だ。その様子を、遠くから桃子が悔しそうに眺め、智美と夕が慰めている。
いつの間にか、いくつもの恋愛が進んでいるようだ。コウキが気づいていなかっただけで、そういうことも皆はしっかりやっていたということか。
何となく、初々しいものを見ている気分になって、心の中でコウキは微笑んだ。
自分も、かつてはそういう時があった。昔好きだったあの子は、今はこの部にいないが、別の学校で元気でやっているのだろうか。高校生の時の淡い恋愛を思い出して、何となく懐かしい気分になった。
合宿の二日目が始まる。
起床の音楽の前に目を覚ましていたコウキは、身支度をすでに済ませ、談話室で窓の外の景色を眺めていた。
昨晩は消灯時間の後に陸がやってきて、正孝と奏馬も混ざって、菓子を食べながら四人で談笑した。陸がコウキの恋愛について聞きたがったが、躱し続けた結果、矛先は正孝と奏馬に向いて、二人の話で盛り上がった。
やはりコウキが気がついた通り、正孝は摩耶と交際しているらしい。公言はしていないが秘密にもしていないらしく、尋ねたらあっさりと告白した。
奏馬は、今は誰かと交際する気はない、と語った。
明かされて驚いたが、都とは幼馴染なのだという。その話は前の時間軸では聞いたことが無かった。仲が良い程度にしか認識していなかったが、幼馴染だからこその親密度だったということだ。
「おっ、コウキ君、朝早いね」
振り向くと、まこがいた。
「おはようございます。目が覚めちゃって」
「私も。今日は大事な日だしね」
いつも通り、まこは頭をおだんごにまとめている。まこが他の髪型をしているところを、コウキは見たことがない。
「関係無いですけど、まこ先輩って、髪型変えないんですか?」
「ん、なんで?」
「おだんごって頭皮が引っ張られて痛そうだなぁと思って」
「あはは、まあ多少は気になるけど、これは私の基本だから。おだんごの時は、部活モード。それ以外はお休みモード、みたいな」
「なるほど」
会社員だった頃、会社の仲間にもそういう人はいた。スーツを着ると仕事人になり、帰宅して脱ぐとだらしなくなるような、オンオフのきっちりした人だった。
「理にかなってますね」
「でしょ。それに夏は涼しいよ」
確かに、ポニーテールやストレートと比べても首元が空く分、涼しいのだろう。
まこと話しているうちに、起床の音楽が鳴りだした。部屋に戻って決められた掃除を済ませ、朝食のために食堂へ向かった。
今朝は白米に味噌汁、干し魚、根菜の煮物に漬物と、シンプルな和定食だ。昨日食べ過ぎただけに、あっさりとした朝食はありがたい。
食堂は十人掛けの長テーブルが十と、四人掛けのテーブルが五つ並んでいて、花田高はその半分を使って良いことになっている。
少し落ち着いて食事をしたくて、四人掛けのテーブルを選んで座った。空いた三席に、智美と夕と桃子が座ってくる。
「ねえ、三木君さあ、奏馬先輩に好きな人がいるか知ってる?」
食事を始めてしばらくした頃に、桃子が言った。
「んー、いないと思うけど」
「本当?」
「多分ね。いるとしたら都先輩じゃない」
何となく他の人に聞こえないほうが良いだろうと思い、小声で話している。
「だよねえ……」
昨日、奏馬が都と岬に挟まれているのを、桃子は悔しそうに見ていた。おそらく、奏馬に好意があるのだろう。
「何か良いアドバイスしてあげてよ」
智美に話を振られて、唸った。
「って言ってもなぁ。奏馬先輩は、今は誰とも付き合う気無いって言ってたから、変に好意を見せすぎると、逆に距離とられちゃうかもよ」
「じゃあ、どうすれば良いの?」
「んー……あんまり好意を見せすぎずに、でも奏馬先輩にとって特別な存在になっておくしか、ないんじゃない」
「だからぁ、それをどうやってやるのか分かんないのっ」
「ペア練習、奏馬先輩と組んでたでしょ。なら、ペア練習見てくださいって言う時に、そっと服の袖を引っ張ったり、挨拶する時は笑顔で手を振ったり、そういう細かいところで、好意を見せすぎないようにしつつ、異性だと意識してもらえるようにすれば?」
「何それ、ムズッ」
桃子がげんなりした顔をして、漬物を口に放り込んだ。パリポリという小気味いい音が鳴る。
「それが出来たら苦労しないよ」
「じゃあ、指をくわえて幼馴染の都先輩とくっつくのを見てれば?」
「もうっ、なんでそういう意地悪言うの!?」
頬を膨らませて、桃子がじたばたした。
「都先輩は凄く自然にそうしてたからな。相手は異性と付き合う気が無い人なんだから、細かいことでポイント稼いでいくしかないんじゃないの。今のままだと、奏馬先輩にとって、都先輩より特別にはなれず、ただの後輩で終わっちゃうよ」
「うう~!」
「あんまいじめないでよ、コウキ」
苦笑しながら、智美が言った。
実際のところ、昨日話を聞いた限りでは、奏馬の気持ちを掴むには地道な努力しかないだろう。都のこともはっきりと好きだと思っているわけではなさそうだったし、頑張れば桃子にも可能性はある。
いじけている桃子を見て、少しだけ可哀そうになった。
「じゃあ、試しに俺に笑顔で挨拶してみてよ」
「え……おはよ?」
笑顔で、挨拶をしてくる。
「良いじゃん、その笑顔で良いんだよ。今度はそれに手を振るのをプラスしてみ」
「おはよ」
さっきと同じ笑顔のまま、恥ずかしそうに手を小さく振る。
「そっちの方が可愛いかも」
黙々と朝食を食べていた夕が、ぽつりと言った。
まんざらでもない様子で、桃子がにやける。
「えっ、そう?」
「うん。ただの挨拶でも、表情や動きが加わると相手に与える良い印象も上がるから。それを奏馬先輩にやるんだよ」
「うーん、奏馬先輩相手だと緊張しちゃうんだよぉ」
「……よし、桃子さんに重要なアドバイスを一つ送ろう」
箸を置いて、姿勢を正す。つられて、桃子も真っすぐ背筋を伸ばした。
「好きな相手に緊張したら、負けである」
「…………はあ?」
「緊張は相手にばれる。それは同時に、好意もばれるってことだ。好意がばれると、まだ相手がそんなに自分のことを良いと思っていなかったら、距離をとられる。だから、緊張したら負けなんだよ。緊張せずに、普通に友達と話す感覚を守る。これが秘訣だ」
「あー……なる、ほど……」
「いかに素の自分で接して、かつ好意をチラ見せするかにかかっていると、俺は思う。相手を追いかける立場になったら負け、くらいに思ったほうが良い」
普段、自分が意識してそうしているわけではないが、これまで友人達の恋愛相談に何度も乗ってきて、自然とそれが一番成功する接し方だと思うようになっていた。
一気に言い終えて、乾いた喉を潤すためにお茶を口に含む。
「さすが恋愛マスター三木と言われた男だね」
智美の一言に、勢いよく茶を噴き出してしまった。瞬間、顔に浴びた夕が叫び声をあげ、椅子から立ち上がる。
「ちょっ、ごめんっ!」
「最っ低!」
びしょ濡れになった顔をハンカチで拭きながら、夕が怒鳴った。テーブルの上の料理にも、茶がかかってしまった。
智美が大爆笑している。
「おまっ、智美! 誰のせいでこうなったと思ってんだ!」
「あっははは! はは、あー! はははは!」
腹をよじって笑っている智美を睨みながら、テーブルをタオルで拭いていく。
中学生の時に、拓也の彼女の奈々につけられた呼び名だ。高校に上がって誰も呼ばなくなったと思っていたのに、まさかこのタイミングで言われるとは思いもしなかった。
結局、ずっと怒っている夕に謝り続け、しかも茶をかけてしまった夕の分の料理まで食べるはめになった。
他の部員にも間抜けなところを見られ、動けないほど腹一杯になり、夕には激怒されたままと、散々だった。
「いやぁ、さっきは笑った笑った」
朝食が終わって、合奏前の準備だった。講義堂で楽器を出していると、隣に智美が来て楽器を出し始めた。
「笑いごとじゃないぞ、ったく。まだ夕さんに睨まれてるんだからな。二度とその変なあだ名で呼ぶなよな。次呼んだらもう恋愛相談手伝わないから」
「ごめんごめん。気を付けまーす」
両手を合わせて謝っているが、まだ智美の顔はにやけている。
ため息をついて、トランペットを取り出した。
「そういえば、今日、花田高の前任の先生が指導に来てくれるらしいじゃん、どんな人か、コウキは知ってる?」
「ん、あー……ちょっとだけなら」
前の時間軸では三年生の時に少し会って話したことがあるくらいで、指導を受けたことはない。
「でも指導を受けるのは俺も初めて」
「どんな人なんだろう?」
「花田高が全国大会に行った時、つまり丘先生が現役時代の顧問だ。多分、もう五十歳過ぎじゃなかったかな」
今は名古屋の光陽高校という吹奏楽の名門で指揮をしている。東海大会までは毎年必ず出場していて、何度か全国大会にも出場していた気がする。
花田高の黄金時代を作り上げた人だけに、その指導を受けられるのは大きな幸運だ。以前は、そんな機会は無かった。
「基礎合奏始めるよ」
奏馬の掛け声で、音出しを始めていた部員が椅子に座り始める。
前任の顧問が来るのは、十時過ぎだという。今の現役からすれば、伝説の人だ。その人が来るとあって、部員は勿論、丘も卒部生も、どこかそわそわと落ち着きが無い。
時刻は八時。あと二時間ほどで、彼が来る。




