九 「分岐点」
ショッピングモールの中に入っている本屋はそれほど大きいものでもない。
それでも、美奈と見て回るのは、楽しかった。
美奈は、小説は勿論、絵本や実用書まで、幅広く読む子だ。コウキもその口だったから、随分本のジャンルが合う。
学校の図書室には無い本で読んだ事のある本があると、二人で盛り上がった。
こんなに本の話が出来る子は、大人だった時にもそばにはいなかった。
コウキは、人よりは本を読む方だった。読んだ本について話したいと思っても、興味を持ってくれる人は周りにいなくて、結局一人で気持ちを消化するだけだった。
美奈は、何でも笑って聞いてくれる。それが、たまらなく嬉しい。
棚を見上げる美奈の横顔が、おかしいくらいに眩しく感じた。
「ん、どうしたの、コウキ君?」
「あっ、いや。 何でもない」
首を傾げた拍子に、美奈の髪の毛がさらりと揺れた。透き通るようなその髪の艶が、どきりとさせる。
最近は、ふと気がつくと、美奈の事を考えていた。
自分でも、どうかしてしまったのではないかとすら思う。相手は、こどもなのだ。それなのに、心臓は痛いほど動く。
考えはした。
実際の年齢が離れているから、同年代の子と付き合うとか好きになってはいけないのなら、自分は二十代や三十代の女性と恋をすればいいのか、と。
それはそれで、おかしい気もする。第一、相手がコウキの事をこどもだと思って相手にしないだろう。
この気持ちは、おかしい事ではないのではないか。そう、思うようにはしている。
それに、美奈といると、こどもを相手にしている気がしない。
それで良いのではないか、という気もする。
「考え事?」
覗き込まれて、顔が熱くなるのを感じた。
「ごめん、大丈夫」
「そう? あ、私、この本買ってくるね」
「わかった」
美奈が、手に抱えた小ぶりの本を二冊、レジへと持って行った。会計の間、離れたところで待つ。
二人でのデートは、上手くいっていた。
異性と二人きりで出かけるのは、就職した初めの頃にちょっとあったくらいで、久しぶりの事だった。女性に慣れていない訳ではないが、久しぶりすぎて、どうやって異性をもてなせば良いかも、あまり覚えていない。うまくできているか、不安だった。
ただ、今のところ、美奈は楽しんでくれているように思う。会話も、途切れたりはしない。むしろ、弾んだ。
あまり、気負わなくても良いとは思う。なのに、デートだと意識してしまうと、普通にしていられているか、分からなくなる。
「お待たせ!」
小走りで美奈が戻ってくる。目的の本を買えて、満足といった表情をしている。
「長居しちゃってごめんね、たのしくって」
「俺も楽しかったから」
にこりと、美奈が笑う。
心臓が、どうにかなりそうだった。
「そろそろ、ご飯食べる? コウキ君、お腹減った?」
「そうだな、食べよっか。フードコートが良い? レストラン街?」
「本買っちゃったから、フードコートが良いな」
「分かった」
歩き出そうとしたところで、前方から大人がやってきた。美奈が、気づいていない。
ぶつかりそうになって、思わず美奈の身体を引き寄せた。
「おっ、ごめん」
こちらに気づいた相手が、片手をあげて謝ってきた。頷いて、美奈を離した。
「危なかった」
「ご、ごめんねコウキ君。ありがと」
「うん、じゃあ、行くか」
「あ、うん」
美奈が、少し後ろをついてくる。さっきまでは隣を歩いていたのに。
「体調、悪いの?」
「え、そんな事ないよ?」
「後ろ歩くから」
「えっ、あ、ううん別になんでも」
「じゃあ、隣歩こうよ」
「あ、え、と、うん」
頷きながら、隣に来ようとしない。
見かねて、手を差し出した。その手を、美奈がぽかんと見つめ、首を傾げる。
黙って、美奈の手を握った。
「えっ」
「行こ」
後ろをついて歩かれるのは、嫌だった。美奈には、隣で歩いてほしい。
嫌がる素振りは見せず、美奈は手を握ったままだ。歩き出すと、自然と隣同士になる。
「もっと早くこうしとけばよかった」
笑いかけると、美奈は顔を赤くしたまま、曖昧に笑った。
握る手に、少しだけ力を込められた気がした。
昼食を食べた後もショッピングモールを回って、夕方になる前には、帰る事にした。あまり遅くなると、美奈の親を不安にさせる。
自転車で来ても良かったが、ゆっくり話せるし、美奈も歩きたいと言ったので、徒歩を選択した。帰りも、行きと同じ道を使って帰っている。
昼前に手を繋いだおかげで、自然と美奈とは手を繋げるようになっていた。今も、しっかりとその手は握られている。
一日、美奈を楽しませてあげられたように思う。学校で過ごす時よりも、多く笑ってくれていた。
見た事がないような無邪気な姿も見られて、コウキも満足していた。
こんなに楽しいのなら、また二人で遊ぶのも悪くないと、そう思った。
「コウキ君、今日はありがと。すっごく楽しかった」
「俺も、楽しかった。また行こうよ」
「うん」
顔を見合わせて、笑いあう。
何となく、美奈のその表情に、陰がある気がした。さっきまでは、無かったものだ。
「美奈ちゃん、どうしたの。何か、暗い気がするけど」
尋ねると、一瞬、美奈の表情が固まった。それから、苦しそうな表情に変わった。
何か不味い事をしただろうか。不安で、心臓が早鐘を打ち始める。思い当たる節はない。
美奈が、足を止めた。
「……コウキ君に、言わなきゃいけない事があるんだ」
何か、嫌な予感がした。
「私ね」
その先を聞くのが、怖いと思った。
「私立の中学を受験するんだ」
どくん、と心臓が一際大きい音を立てた。
「前から、言われてたの。お母さんが厳しくて、公立は絶対に駄目だって。私立に行きなさい、勉強しなさいって」
美奈の言葉が染みこんでくる。一言一言が、コウキの身体を冷たくしていく。
「だから、合格したら、コウキ君と離れちゃう」
言い終わらないうちに、美奈の目に涙が浮かんだ。溜まり切ったそれは、頬を伝って流れ落ちる。
唇を震わせ、耐えようと顔をくしゃくしゃにしている。だが、涙は止まらず、溢れて美奈の頬を濡らし続けている。
「私、行きたくないっ。コウキ君と、離れたくない。皆と、離れたくない。私立なんて、行きたくないよ」
コートの袖で、涙を乱暴に拭う。その手を掴んで止め、ハンカチを差し出した。
ぼんやりとハンカチを見つめ、それから、美奈は受け取った。
「学校は違っても……家を行き来したりして、遊ぼうよ」
精いっぱいの言葉だった。
ハンカチで目元を抑えながら美奈が力なく首を振る。
「私立は……勉強ばっかりってお母さんが言ってた。塾にも通わせるって。きっと、会う時間なんてない」
拭っても拭っても、涙が美奈の目から溢れる。それが、コウキの心臓を痛めつけた。鈍い痛みが襲い続けてくる。
胸を衝かれたような気分だった。
この時間軸に戻ってきて、一番初めに異性として好意を持てた女の子が、美奈だった。まだ、二人ともこどもだ。これから、ゆっくり互いの事を知っていけたら良いと思っていた。中学も、一緒にいられると思っていた。
衝撃で、言葉が出せない。
ふと、前の時間軸の事が頭に浮かんだ。
卒業間近の時、担任から、美奈は私立へ行くという発表があった。どこの、までは覚えていない。ただ美奈はそのまま本当に別の中学に進学し、それ以来、街でも姿を見かけた事はなかった。
以前はそれほど仲が良くなかったから、すっかり忘れていた。
きっと、この時間軸でも避けようがないのだろう。
いや、コウキが美奈を止めれば、変わるのだろうか。
そもそも、美奈の未来を変えられるとして、その先は、美奈にとって幸せなのだろうか。前の時間軸の美奈は、私立へ行った後、幸せに生きたのだろうか。
思考に陥って、美奈を放置していた事に気がついた。
泣き止んだ美奈も、二人の繋いだ手をぼんやりと見つめている。
何か、言おう、とコウキは思った。
「……俺も、美奈ちゃんとは同じ学校に行きたい」
美奈が、顔を上げる。
「けど、止める事が、美奈ちゃんのためになるのか、分からない。自分が……心からしたい事を選んだ方が、良いと思う。お母さんが言うからこうするとか、俺や皆と離れたくないから行きたくないとかじゃなくて……美奈ちゃん自身が、本当に行きたいのはどっちなのか……自分自身で、選ぶしかないんじゃないかな」
止めなくて良いのか。
心の声が聞こえた気がした。
「もし、美奈ちゃんが私立に行きたいなら、応援する。公立に行きたいなら、そうなるよう、お母さんの気持ちを変える協力をする。どっちを選ぶにしても、美奈ちゃんが心から行きたいと思うほうを選ばないと、後悔すると思う」
美奈の目を見つめる。澄んだ瞳だ。穢れを知らないような、純真な瞳。
「私が、心からしたい事」
「そう」
しばらく考え込んでから、美奈は力なく微笑んだ。
「少し、考えてみる」
頷いて、歩き出す。手は、繋いだままだった。
陽は、大分傾いてしまっていた。
「コウキ君」
繋いだ手に、力が込められた。
「話を聞いてくれて、ありがとう。話して、良かった」
「……うん」
行かないで欲しい。
そう、伝える事が、出来なかった。
この時代に戻ってきて、何をしているのだろうか。
元々は、後悔していた事をやり直したくて、戻ってきた。
他人をいじめていた事。
他人のいじめを見て見ぬふりをしてきた事。
自分がいじめられてきた事。
それらを無くしたかった。
誰とでも分け隔てなく付き合う。同情とか憐みとかではなく、心の底からもっと多くの人と、真正面から向き合いたかった。
クラスの雰囲気は、大きく変わった。
コウキが求めていたような、男の子も女の子も普通に会話したり、輪の中に入る事が出来るクラスになっている。
こういう人と人の関係性を、ずっと作りたかった。
常にクラスが、暗くどんよりとした感情に支配された空間である事が、嫌だった。
それを、この数ヶ月で、大きく変られた。順調に、やりたかった事をやれている気がする。
だが、そうして色んな人と関わるようになった事で、今度は美奈を悩ませている。
美奈が、自信の望みと違う道を歩むような人生には、なってほしくない。美奈は、公立と私立どちらを選びたいのだろうか。
コウキに、それを変えられるだろうか。
そもそも、他人の人生を変える事が、一人の人間に許される事なのだろうか。
自分にできるのは、何なのか。
何のために、この時代に戻ってきたのか。
考えは同じところを巡り続けていて、いつまで経ってもまとまらない。
真冬の図書室は、寒い。
ストーブにあたっているのは、コウキ一人だった。
授業後で、カウンターに図書委員が一人と、図書の先生が本の整理をしているだけで、他には誰もいない。
思わず身震いして、椅子からおりてストーブの目の前に近づいた。
扉が開く音がして、誰かが図書室へ入って来た。
その誰かの足音は、本棚の向こうからこちらへ近づいてくる。背後で、ぴたりと止まった。
「コウキ君」
美奈の声だ。
振り向くと、ランドセルを背負った美奈が立っていた。
「隣、良い?」
頷くと、美奈は机の上に置いていたコウキのランドセルの横に、自分のランドセルを下ろした。
それから隣に来て、同じようにしゃがんだ。
図書の先生が、扉から出ていく音。
ストーブの光を、美奈がぼんやりと見つめている。
最近は、授業が終わるとすぐに美奈が教室から出て行く姿を見ていた。だから、今日ももう帰ったのかと思っていた。
六年生になってクラブ活動も引退していたので、放課後に残る六年生自体、少ない。
「私、決めて来たよ」
どくん、と心臓が跳ねた。
美奈のほうを見る。
「私立、受ける」
その言葉が、すっと身体を冷たくした。予想していたことではあったが、改めて聞かされて、胸がぎゅっと縮むような痛みが襲ってきた。
「……そう」
顔を見ていられなくて、視線を逸らした。
「今まで、私立に行くことは別に嫌とは思ってなかったけど、お母さんに言われて勉強ばっかりしてきたのは、嫌だと思ってた。何で、勉強ばっかりしなきゃいけないんだろうって。学校も、あんまり好きじゃなかった。でもね、コウキ君と仲良くなった頃から、クラスも雰囲気が変わってきて、毎日がすごく楽しくなった」
ストーブを見つめたまま、ぽつぽつと美奈が語りだす。
「コウキ君と話すのも、凄く楽しかった。夢みたいだった。友達も増えて、信じられないくらい、楽しかった。それで、卒業したらみんなと離れちゃうって気づいて、急に私立の受験が嫌に思えてきて、苦しくなった。離れたくないって思うようになったんだ。だから、こないだあんなこと言っちゃった」
そこで言葉を切り、深呼吸した。
「でも、コウキ君に、私のしたい事をしたほうが良いって言われて、考えてみたの」
膝を抱くようにしゃがんでいた美奈が、こちらに体を向け、じっと見据えてきた。
その視線を受け止め、美奈を見つめ返す。
「コウキ君に言われてから、お母さんともちゃんと話したんだよ。そしたらお母さんに、ずっと私が私立に行ってくれることを夢見てた、それだけが楽しみだった、って言われた。お父さんが死んじゃってから、お母さん大変だったから、私には良い暮らしをして幸せになってほしいからって」
美奈の父親は、彼女が低学年の時に、事故死している。
それから母親と二人暮らしだと聞いていた。
「それで私、お母さんの夢を叶えてあげたいって思ったんだ。きっと、お母さん、一人で私を育てるの大変だったと思う。だから、あんまり心配かけたくない」
「うん」
多分、父親の保険金があって、私立に通わせるくらいの余裕はあるのだろう。
母親にしてみれば、これから先、娘が生きていくうえで、学力を身に着けていてほしいと思うのは、自然なことなのかもしれない。
美奈も、その気持ちに答えようとしている。
それは、他人に邪魔できるものではない。
「コウキ君、相談に乗ってくれて、ありがとね」
「うん」
私立に行くのが、正解とは限らない。
学力があれば、幸せになるとも限らない。
いい学校へ行き、いい会社へ入るのが、人生の成功だと誰が決めたのだろうか。コウキは、その価値観は嫌いだった。
だが、その考えを他の誰かに押し付ける事は、違う。
その人が、自分の人生をどう決めるか。
それがすべてなのだ。
コウキは、それに寄り添うことしかできない。
引き止めたら、美奈の気持ちは揺らぐかもしれない。
だが、コウキがこの先、一生美奈のそばにいるかは分からない。
一時の気持ちで、彼女の選択を迷わせることは、できなかった。
「受かると良いな」
「うん、がんばる」
話は、終わった。
ちょうど図書室の先生が帰ってきたので、ランドセルを背負い、挨拶をして二人で図書室を出た。
靴に履き替えて生徒玄関を出ると、さっきまで晴れていたはずの空には雲が広がり、薄暗く灰色に染まっていた。
「あと少しだけど、仲良く、してね」
「そんなの」
当たり前じゃないか。
呟きは、黒い雲に吸い込まれていった。




