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第一話 色咲く花の井戸

 朝から雨の降る日は、世界一面が灰に染まる。

 そんな日は雨露(あまつゆ)に濡れた花の色が一層深く(かお)るもの。

 だからであろうか。ひとりのうら若き女が、美しい花にうっかり酔ってしまったのも、仕方のないことなのかもしれない。




藤花(ふじか)ちゃん、藤花ちゃん。悪いんだけれど、ちょいと来ておくれよ」


 起床したばかりでぼうっとしていた藤花は、名を呼ばれて振り返る。

 ああ、外から流れ込む湿った空気を快く感じられる、よい目覚めだったのに。

 思わず不機嫌に、険しい表情で後ろを見てしまったのだろう。

 顔を向けた先で、なじんだ女の顔が困ったように笑っていた。


「何よ、純陽(じゅんよう)? あと数分ぐらい、朝風呂まで余裕をもったっていいでしょ?」

「そんなんアンタの勝手だよ。イチイチくちだしなんかしやしないよ、そうじゃなくて黄秋(きしゅう)ちゃんがさ」


 変わった響きをもつ名前は勿論、本名ではない。藤花も同じ。いわゆる源氏名であった。

 長屋形式で続く宿で生活する遊女たちのかりそめは、みな一応ようにうつくしい。

 同じ店で働く仲間の名に、冷や水をかけられたように藤花の目が覚める。


「黄秋がどうしたの」

「どうにも病気になっちまったみたいで、起きれないみたいなんだ」

「梅毒?」

「幸いソッチじゃない。すごい熱でね、ただの風邪だろうが、こりゃ今日は商売は無理だよ」

「そう。ダンナさんも黄秋を無理にまでははたらかせまではしないわよ、よかった」


 藤花はかすかに胸をなでおろす。

 高熱とあっては不安はあるが、梅毒であったならいずれ肉が削げ落ちて、捨てられてしまう可能性が高い。そうでないだけマシだった。

 さっぱりした動きで立ち上がり、黄秋が寝床へ向かう。

 雨のせいで薄暗い長屋のなかで、湿気が肌にまとわりつく。


 柔らかな布団のうえで、黄秋は白い美貌を赤く染め、唸っていた。

 壊れ物に触れるように額に触れれば、なるほど、火鉢に手をかざしたかのように熱い。

 綺麗に切りそろえられた髪はぬばたま色。現世に下りた雪女の如き容貌は、病に伏せっても奇妙な色香を放つ。

 この長屋でも稼ぎ頭である彼女の、さすがの相貌に思わず見とれてしまう。


「これはつらいわね。まだ巳の刻まで一刻程度あるかしら」


 仲間が苦しんでいるときに。藤花は己を叱る。

 この天気で、もしも涼やかな風が吹いていなかったら、蒸してうっとうしくてならなかったろう。

 かわいそうに。じかにいってしまうと高い矜持を傷つけてしまいかねないから、心のなかだけで憐れむ。


「ああ。何人かはもう湯屋に行く準備を始めちまったけど」

「なんですって? まったく無情な奴ら!」


 そうはいっても彼女たちも仕事だ。それぞれ生活に必死な身。

風邪は万病のもと。それにうつれば客や他の遊女に更に感染してしまう可能性もある。商売あがったりだ。

心配だからといって助けたがる藤花たちの方が、ある意味では愚かなのかもしれなかった。

藤花は、信頼できる友人とこっそり陰口を叩けるのだから、むしろいなくてよかったと内心笑う。


「仕方ない。あたしは、そうだね。外で水でも汲んでくるから、ダンナさんに黄秋について知らせに行ってくれない?」

「そりゃあ、いいけどさ。いいのかい? 今日は曇って、朝っぱらからまるで夜みたいじゃないか」


 不安そうに口元に袖を運ぶ純陽に、藤花は苦笑する。

 きっとこの面倒見がよくて怖がりな遊女は、井戸嬰児(いどえいじ)のことをいっているのだとすぐにわかったからだ。


 なんてことはない。よくある怪談話である。

 昔、子を身ごもった遊女が逃げた。しかし身重の体で追ってから逃げ切れるはずもなく。息も絶え絶えになってきたころにたまたま井戸の石に手をついた。

 追い詰められた身重の遊女は、悲観して井戸の中に身を投げたという。

 

 そこまでならばただの悲劇。だが往々にして、悲劇には恐れをあおる物語が続くもの。

 深い深ぁい井戸底に落ちた女の身体をなんとか拾い上げ、死に触れた井戸を頼んで清めまでした。

 しかし、湿った夜が満ちた日には、時折聞こえるのだという。

 か細く歌う、美しい声が。まるで穢れを知らぬ少年の如き、清らかで澄み切った歌声が。

 人々は、命の熱をもたぬ歌声の持ち主、その正体を「きっと身重の遊女の腹から、死に際に子どもの魂が抜けでてしまったのだ」と噂した。


 井戸の底に住まう、生まれすらしなかった死者。井戸嬰児。

 遊女のなかで静かに怪談は広まり、いつしか井戸は「緑井戸」と呼ばれ、恐れられるようになった。

 そして、この緑井戸は、まさに藤花たちのいる長屋にあるのだった。


 青ざめる純陽に、藤花はおかしくなってカラカラと声をあげた。


「ばかねえ、幽霊になにができるっていうの。しかも赤ん坊よ? 酸いも甘いも、オトナの夜も知ってるあたしたちにとっちゃあ、怖くもなんともないわ」

「でもさあ、魅入られたりしたらどうするの? 物の怪に魅入られたものの末路は、どれもこれも恐ろしい」

「怖がるくせに怪談を好んできくから、何もかもが悪い結果につながるように見えるのよ。どうせ客がつくまでの暇をつぶすなら、占いでもしておきなさいな」

「そうはいってもねえ」


 くちではまだ純陽はゴネる。

 それでもあっけらかんと歯を見せて笑顔を浮かべる藤花に、少しは恐れも晴れたらしい。

 純陽もまた、黄秋の前で心配そうにかがめていた腰を伸ばす。

 時間はあっという間に過ぎる。いくら仲間のためとはいえ、あまり仕事に支障をきたしては、折檻されてしまう。

 自分たちもつらいし、場合によっては原因となった黄秋だって都合が悪い。本末転倒だ。


「じゃあ、あたしは旦那様のところへいってくるけど。藤花ちゃん、ほんとに気を付けとくれよ」

「はいはい、わかったわかった。とっととかわいいおしりをふって、黄秋ちゃんが休めるようたらしこんできて頂戴」

「もう! 旦那さまにそんなことしたら殺されちまうよ!」

「冗談に決まってんでしょ。ほらいけ!」


 ぐずぐずする純陽にげきを飛ばす。

 途端、彼女は「ひぃっ」と加虐心を目覚めさせるような愛らしい悲鳴をあげて、ぴゅうとかけていった。


「ああいうところが男にウケるんだろうね、()い子」


 腰に手をあて、藤花は小さなため息をひとつ着く。

 愛らしい子といえば――自分の呟きに、藤花は黄秋の枕元にひざをつく。

 苦しそうに浅い呼吸を繰り返す黄秋の伏せられた長いまつ毛を見ていると、それだけで胸が締め付けられる。

 藤花は、黄秋の額にかかる乱れた前髪を柔らかな手つきでなおしてやった。

 

「それにアンタも大事な可愛い仲間だよ。ここ数日客が多かったからね、疲れちゃったんだね。すぐ冷たい水をもってきてやるから、待ってな」


 耳元で小さく小さく囁き、小さな頭を撫でる。起きているのか寝ているのか、頑なに閉じられた瞼からはわからない。

 ただ、ほんの少し眉間のしわの数が減った……気がした。


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