第七話 ある山中での話
雪村から鈴城
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日が沈んだ深い山奥の森の中、そこには深い静寂と暗闇が支配していた。
人の気配など微塵も感じ取れない獣道。
そこに枯れ葉を踏む音が響き渡る。そこには女の二人組の登山家が歩いていた。いや登山家というにはいささかお粗末と言わざるおえない軽装だ。
片方はショートから少し伸ばした程度の赤髪に褐色の肌色をした女性。快活な印象を与える少女だが荷物は利便性よりもオシャレを優先したような薄そうなナップザックに、薄手のシャツとジーンズというラフな格好。
もう片方は腰まで伸びた長い髪に白い肌。こんな場所では幽霊と勘違いされてもおかしくはない容姿に、こちらもワンピースに薄手のジャケットを羽織っているだけで、荷物も手提げ袋のみという格好だ。
どう考えても山奥まで来るような恰好ではない。
いったいどんな理由でこんな時期に雪すらまだ降っていない山を登ってきたというのか。
よほどの間抜けか自殺志願者か。いやおそらくは前者だろう。二人の女性は顔色も悪く焦燥したような顔でひたすらに前を向いて歩き続けていた。二人の顔につけられたひっかき傷や痣、そしてさっきから一言も発しない所を見るに、おおかた道に迷った際に責任を押し付け合って何度も口論や喧嘩をしていたらのだろう。
ここまで迷い込んだ人間たちがよくやる行動の一つだ。愚かしいことこの上ない。
既に心身とも消耗しきっているようだ……もっとも自分たちにとっては好都合だ。彼女たちを監視していたモノたちはこれ以上考えていても仕方ない、と行動に移る事にする。相手がなんであろうと、どうせ殺して喰ってしまうことに変わりはないのだから。
「キキッ」「ギギッ」「ギィ!」「ギヒッ」
彼らは狩人であり、山中を歩く彼女たちは獲物だった。
季節外れの御馳走をゆっくりと楽しむとしよう。どうせあんな格好でこんな山奥まで来る愚か者だ。いなくなっても誰も困るまい。ならば必定、大人しく我らの贄になるがよい。
相手側からしたら理不尽この上ない事を考えながら、仲間の内の一匹が彼女たちの後ろに回り込む。ソレは牙がのぞく口から涎を滴らせ、爪を研ぎ走りかける。まずは後ろから追い越しざまに片方の女の喉笛を掻き切ってやろう。
さすればもう片方の女はどんな顔をするだろうか、気付かずに阿呆のようにそのまま歩き続けるだろうか。すぐに気づいて変わり果てた相方の姿に混乱し泣きわめくだろうか。ああ、考えただけで身が震える。
そこまで考えた次の瞬間、ソレの視点は暗転した。
どうした? 女はどこだ。なぜ自分は宙に浮いているのだ? 身体が軽いぞ? いや、首から下の体の感覚がない?
下にはさっきの女どもが……感情の見えない顔でこちらを見上げている。なぜ襲おうとした女の片手には血の滴る刀が見え……? 女共の後ろには……倒れ伏した……首……ない。ない。ない。
そこでソレはようやく自分が首を切断されたと認識した所で意識はプツリと途切れた。
◆
褐色の女は手に持った大太刀を鞘に収めながら、不敵な笑みを浮かべて、宙を舞い地面に転がる大猿の首を一瞥した。
先程までの弱った姿から一変して、その姿は獰猛な闘気に満ち溢れていた。
「狒々かあ。大きさ的にはあまり年月を経てなさそうだから大したことなさそうだけど、こいつら群れてくるから面倒くさいんだよね」
「明乃。……群れるということは頭がいる……油断しないで」
先程仕留めた獲物を値踏みする褐色の女に長髪の女は釘をさす。彼女の手元にもいつのまにか水晶玉が収まっており、その水晶玉は中から絶えず小さな光を点滅させていた。
「……十、十五……二十匹くらいいるわ。ようやく仲間が一匹殺されたのがわかって相当殺気立っているみたい」
彼女が水晶を見つめながらそう呟くと同時にガサササササと周囲から枝を軋らせ枯れ葉を踏む音が響き渡る。
「キイイイイ!?」「キキキキキ!!」「ギギッ!」
おそらく他の狒々たちが狙っていた獲物に逆に仲間を殺され混乱と怒りで騒ぎ立てているのだろう。だが迂闊に突っ込むと首を刎ねられた同胞の二の舞になると察しているせいか、中々仕掛けてこない。褐色の女・明乃はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「なんだ、思ってたよりも慎重なんだね。時間かかりそう。あーあ、面倒くさい」
「……それだけ思考が人に近い証拠。……油断禁物」
またも窘められるが明乃は特に口答えはしない。実際に相方の彼女の言う通りであり、自分たちは既に敵地の真ん中。一歩間違えれば、この大猿たちに骨も残さずに喰われてしまうのだ。
しかし、それでもなお明乃は緊張感とは無縁といった面持ちで欠伸をしながら周りを睥睨した。
確かにこれは危機的状況だ。二人きりならば。
「玲は心配性だねえ。大丈夫でしょ……囲っているのはむしろアタシらだし」
その言葉と共に、狒々たちによるざわめきを掻き消すように、大きな爆音や刺突音、発砲音が響き渡る。その音の合間からこぼれる狒々たちの悲鳴と断末魔。
ここにきてようやく狒々たちは状況を理解した。自分たちが罠にハメられたことに。
だが、時既に遅し、獲物と狩猟者の立場はとうに逆転した。
そうして、一つの山を支配し登ってくる人間たちを喰い殺していた狒々の群れはたった十分たらずで壊滅してしまった。
◆
その蹂躙劇の合間に一つの影が夜の山を駆け抜ける。
それは群れの中でも一回り大きな狒々であった。
群を率いていた狒々は一瞬だけ振り返り、自分群れが瓦解されていく様を目に焼き付けながら、屈辱と憎しみで歯噛みした。
自分たちは山の精気と瘴気を吸いながら、長く生き、妖怪に変じた山ノ怪だ。その中でも彼はいち早く狒々となり、そのまま頭目を張ることができた。
気に喰わぬ者は人間だろうが同胞だろうが喰い殺し、その血肉でさらなる力を得る。快感だった。力が強くなるのを感じ周りの同胞たちはそんな自分を見て恐れひれ伏すのだ。
もっとだ。もっと血を、肉を、力を。欲望は膨れ上がり、いっそ麓の人里にでも攻め寄せようとしたその矢先にこれだった。
「役立タズ供メ……!」
思わず毒づく。彼に己を顧みるという言葉はなかった。常に己がもっとも優れた個体であり、それ以外は追従する駒という認識だ。
だからこそ立ち直りは早い。
狒々はつむじ風のように走り抜けながら、これからの事を思案した。
どこか別の山に押し入り、そこの猿の頭目となろうとも思ったが、そんなまだるっこしい事をするよりも、いっそ自分だけで人里に下りて霊力のある人間をかたっぱしから喰って力をつけた方が早いかもしれない。ならばいっそ妖怪や人が多く集まるという噂の街にでも行ってみるか。
そこまで考えて狒々は立ち止る。
「ああ、いたいた。おーい」
目の前に一人の少年が立っていた。少年は狒々の姿を確認すると、怯えたり、身構えるどころか。笑顔で語りかけてくる。
黒いジャージに白いジャンパーを羽織っただけのひょろっちい人間の子供だ。このまま無視して通り過ぎるのも良し、すれ違いざまに腕の一振りで首を飛ばしても良かった。
だができなかった。狒々の中に残った只の動物であった頃の本能が警鐘を鳴らし続けていた。
「いやあ、後ろは本当に酷いことになってるね。もう君の仲間は全滅してる頃合かな?」
「何者ダ?」
「あれ? 人間の言葉がわかるの? すごいなぁ。さすがあれだけの群れを率いてただけはあるや! 優秀な個体なんだね」
「何者ダト聞イテイル!」
へらへらと自分のペースで喋り続ける少年に狒々は苛立ちを覚えて、語気を荒げて再度問いかける。
「なんとなくわかるでしょ? 君のお仲間を狩ってる人たちの仲間だよ」
あっさりと自分はお前の敵だと宣言した少年に狒々は馬鹿にされたと思ったのか、今度こそ怒りに獣面を歪ませる。
「舐メルナヨ。人間ゴトキガァ!」
狒々は手で印を結び、口から血色の煙を吐き出した。先手必勝である。この煙は己の妖力を滲ませた人間にとっては猛毒に類するものだ。
並の人間であるなら、数秒と待たず、身体が麻痺し、呼吸ができなくなるだろう。
このまま毒で倒れ伏すもよし、毒に抗い立ち続けている所を喉笛を切り裂いてやるもよし、さてどう料理してやろうかと舌なめずりする。
いや、待て。今は逃げることが先決だ。とりあえずこの少年の四肢を裂き身動きをとれなくして、人質として利用しよう。己には理解できぬことだが、人間はどうにも同胞への仲間意識が強い故に効果は覿面だろう。
そこまで考えて、いざ実行に移そうとした次の瞬間、突如として大きな風と共に霧は払われ、視界は明るくなった。
「召喚」
少年の一言と共に、彼を中心とした場所に光の柱が黒天を貫く。狒々はまるで昼夜が逆転したかのような錯覚に見舞われて混乱する。
「展開」
ゆっくりと光柱の下へ視線を辿ると、その光の柱は真上に突き上げた少年の手から発せられていた。
少年は特に気にした様子もなく、手から発せられた光を縮小させて小さな光る球状に収める。
狒々は唖然とその光景を見つめて膝を落とした。アレはダメだ。あの少年が持つアレは自分たち妖怪にとっての天敵だ。かなう訳がない。狒々はソレに対する知識はなかったが、あの光を本能で感じることができた。動物ではなく妖怪としての本能が彼の脳内に抵抗という選択肢を奪う。
「よおし、それじゃあいくよ!」
少年は手の平に収まった魔を滅する光を狒々に向ける。
次の瞬間、一筋の光が闇が支配する森を迸り、もはや抵抗する気力も残ってはいなかった狒々はその光に呆気なく飲み込まれていった。
◆
「それで跡形もなくなったわけね?」
「ゴメン、姉さん」
山の中では不釣り合いなキャリアウーマンの出で立ちをした眼鏡の女性が額に青筋を立てて、狒々の頭を仕留めた少年を地面に正座させていた。少年は端正な顔立ちを拗ねたように膨らませており、そこには見た目よりもいくらか数年ほど幼い印象を与えた。
「だってあの程度で簡単に死ぬとは思わなかったんだもん……」
「あの程度ってどの程度よ! いつも言ってるじゃない! やり過ぎだって!」
周りを見れば、少年の同僚たちが自分たちが仕留めた猿たちの遺体の回収や、少年の放った光線による余波でできた火事の消火活動など、事後処理に追われていた。
そこには今回の狩りの囮役を買って出た茜と玲もいた。
「おい、そっちにも火の手が回ってるぞ! 符術で水を増やせ!」
「え? いきなり山奥から光の柱が見えて麓の村の人たちが『山神様のお怒りだ』って騒いでお祈りしてる!? ……すいません。それウチです」
少年は彼らを一瞥した後、ごまかすようにぎこちなく笑う。
「みんな仕事熱心だねえ」
「みんあが仕事熱心になってる原因の火事と光はアナタのおかげよ。どうもアリガトウ!」
眼鏡の女性は少年の頬を抓りながら、これでもかと嫌味を込めて感謝の言葉を口した。
その後も彼女の説教は続いたが、やがて長い説教に一区切りうつと気が済んだのかため息をつく。そこにはさきほどの憤怒の表情から一転して、純粋に家族を心配する姉の表情だった。
「ねえ、翔吾。あんまり無茶しないで。その力だって限界があるのよ?」
そう言われた翔吾は何を言われたのかよくわかっていないのか、キョトンとする。
「心配はいらないよ、姉さん。これくらいなら何の負担もないし、この力はみんなを守るために授かったんだ。だったら使わないと損だろう?」
やがて、特に気にしたような様子もなく、いつもどおりの朗らかな笑みを作る弟・鈴城翔吾に姉・友佳は胸を痛める。一見すれば、彼の姿は己が身を投げうって人々のために戦う勇者に見えるだろう。
だが、弟として引き取られたばかりの彼を知っている彼女はわかるのだ。このひたむきさの奥には信条も信念も何もない、ただそうしなければ、自分にはこれしかないから、という空虚な使命感のみであることを。
「それじゃあ、次の仕事に移るとするよ」
友佳はそれを知ってるからこそ、歯がゆくも自分に彼を止めることはできなかった。彼女にできるのは少しでも彼の負担を減らすことだけだった。それも自分では彼を救えないことへの無力感を誤魔化すための只の自己満足だと自覚しながら。
「次の目的地は第一級霊災特区『燈現市』、あの九尾の直系が入り込んだらしいわ」
友佳の言葉に翔吾もかすかに眉をひそめる。
「直系か……大元の九尾ではないにしろ結構な難敵だね」
「今の所は狙いはわからないけれど、恐らくそこに住む霊能者もしくは妖怪の捕食かしらね。妖怪は強い個体を喰らえば喰らう程、力が強くなるのもいるしね。……既に村田君が先行してもらってる」
「そうか、僕らもここの後始末が済み次第急ごうか」
その言葉に作業を進める周りの者たちの手も早くなる。増えた仕事に対する愚痴は一つもない。既に彼らはこの組織に入社したことで覚悟は決まっているのだから。
無辜の人々を守るため、金のため、生まれながらの使命のため。彼らは様々な理由でこの世界に飛び込んだ。いまさらどうこう言うものか。
『鈴城警備保障』、鈴城姉弟の父が経営する民間警備会社。
だが、彼らの専門は『妖怪』『悪霊』の討伐、及びそれらからの一般人の警護、一般人でも使える符術用の札の開発。すなわち国家公認の退魔組織の一つである。




