第十四話 崩壊
白面金毛九尾の狐。
長く生きた妖狐の最後の姿にして最強ともよばれている霊獣・天狐。その天狐の一匹でありながら傾国の獣としてインド、中国でも悪名や伝承を残している。一部では神獣とされているが、ほとんどの話では人を喰らう魔獣とされている。
日本でも美女に化けその美貌で聡明さで上皇を籠絡したが、とある高名な陰陽師に見破られ、最終的には武士達の手で退治されたと伝わる。
「彼女はその大妖狐の末裔だよ。わかるかい? 君や君の周りの人達は化かされていたんだよ」
降りしきる雨で服が濡れても三人は微動だにしない。一人は朗々と語りを始め、もう一人はその語りに困惑し、最後の一人は暴かれた己の秘密に絶望していた。
「まあ我々も数か月前までは、彼女が覚醒して事件を起こすまで存在自体知らなかったんだがね」
よく今まで隠れてこれたものだと若干感心した様子で語る村田に対して、拓郎はさっきまでの暴れようが嘘のように静かに耳を傾けていた。ようやく大人しくなった拓郎と小刻みに震えるばかりのシズク、村田はようやく話ができる状態になった事を確認すると、そのまま続きを語り始める。
「まあ、仕方ないと言えば仕方がないか。父親の方はれっきとした人間だし、彼女自身も人としての戸籍を持ち、この前までは普通の人間として生きてきたんだ。」
そこで村田は言葉を区切り、憎しみと苛立ちをないまぜにした表情で顔についた裂傷の跡を掻きむしる。
「だが、その彼女の父親は人間でありながら妖狐の雌と交わっていたんだよ。それも九尾の直系の……ね!」
そう言って村田は片手で印を結ぶとシズクの身体に貼られた呪符から電撃が走る。悲鳴を上げるシズクとその様子を見て哄笑する村田。思わず拓郎はのしかかる重圧を無視して立ち上がり、村田の足にしがみつく。
「や…、め……ろ」
「ああ、雨で濡れて呪符の効果が薄れちゃったか。失敗、失敗」
拓郎は鬼のような形相で村田の足に喰らいつくが、当の村田はまるで幼子をいなすような軽いノリで朗らかに笑いながら拓郎を蹴り飛ばす。
拓郎はなおも立ち上がろうとするが、村田はその背中を踏みつけて身動きをとれなくする。
「服が汚れるだろ? 何より人の話は最後まで聞かないとダメなんだぜ?」
「う、ぎぃ!」
村田はようやく足をどけたかと思ったら追い打ちで何度も拓郎の側頭部を蹴り上げる。
しかし、咳き込みながらもいまだ敵意と戦意が薄らがない拓郎の眼差しを見て村田は憐みの表情を浮かべる。
「やれやれ、そんなになってもまだ守ろうとするなんてね。黙ってみてなよ。……ほら、始まった!」
見るとシズクの身体から陽炎のようなゆらぎが見えたかと思うと、一気に炎が舞い上がる。その炎の色は赤ではなく紫。空気の燃焼で生みだされたものではないのはあきらかであり、自然法則から外れた紫の魔炎は、彼女を苛んでいた呪符をあっという間に焼き尽くしてしまう。
そのまま紫の炎は降りしきる雨に対して全く怯む様子を見せずに、まるで主人を守る様にシズクの周りを妖しく揺蕩っている。
拓郎は地面に転がりながら、その光景を呆然と見つめていた。
「狐火という奴さ。妖狐が人を化かしたり変じたりする時に出す炎だ。……ね、言った通りだろう?」
村田は微動だにしない拓郎の傍まで面白そうに耳元で囁く。
「彼女は人ではない。人と妖怪の間に産まれた半妖、いや今や立派な妖怪だ」
村田は喋りながらも、固まったまま身動き一つとらない拓郎を観察する。
「半妖ではない。人間をベースにした完全な妖怪だ。半妖であるならまだ救いがあったろうにね。私個人としては面白くない事だが、半妖が退魔師として活躍もしたりするケースも存在する。かの有名な陰陽師も母親が狐であったと言う説もあるしね」
呪符を焼いたシズクも自由になったにも関わらず、ただ上体を起こすだけで何もしない。ただ虚ろな目で俯き続ける。良い傾向だ、そう思いながら村田は舌に油を乗せたかのようにぺらぺらと好きなように喋り囃し立てる。
「今もなお、霊力ではなく妖力を放っているのがその証拠さ。おそらく母親の血が濃すぎたんだろうねえ。彼女は存在するだけで妖怪を集める危険な存在だ。即刻処分するべきだ」
強い妖力は妖怪達を引き寄せる。霊能者の場合は強い霊的力場を作り出して、あくまで引き寄せるだけなのだが、妖怪の場合はさらにその強い妖力を放つ妖怪に魅せられ懐く。
そうして妖怪の群れ、百鬼夜行は生まれる。
彼らは一つの個にして群と化し、主となった妖怪の元、気ままに放埓に世を跋扈し乱す。人の世からすればまさしく悪と言ってもいい。
実際にシズクはこれまで数多の妖怪を家に呼び込み、そして慕われていた。彼らは放っておけば百鬼夜行と化してしまうというのが、村田の見解だった。
それを拓郎は静かに聞き続けていた。
大人しくなった少年の姿を見て村田は満足げに頷く。ようやく真実を受け入れてくれたようだ。少々意地の悪い言い方をしてしまったが、これも彼の為である。
「気にすることはないよ。君も騙されていた被害者なんだよ。悪い夢でも見てたと思えば良いさ」
この時点で村田にとってもう目の前の少年は己の仕事の完遂を邪魔をする障害物ではなく、保護すべき一般人であった。ならば必定、暴力を働いた非礼も詫びて、怪我の治療もせねばなるまいと、彼に歩み寄ろうとしたところ……
思いきり殴り飛ばされた。
「がふっうぅ……!?」
「それで俺が止まると思ったのかよ」
一瞬、何が起こったのか当の殴り飛ばされた村田にもわからなかった。
拓郎は濡れた地面に転がる村田を満足げに見下ろすと、完全に雨水が染み込み、効力を失い使い物にならなくなった呪符を剥ぎ取りながら、何をするのかと思わず立ち上がった村田に今度は脇腹を殴りつけた。
「妖狐? 九尾? ふざけんな、馬鹿野郎。そんなモン、この街じゃあ日常茶飯事なんだよ。大体なんだよ。妖怪を引き寄せる? 別にいいじゃねえか。アイツの所に寄ってくる連中なんざ。悪さ一つもできねえような小物ばかりだぜ」
村田は懐から紙で折られた手裏剣を取り出そうとする。寸前、拓郎はその腕を掴み捻り上げる。
「何よりシズクが妖怪のボスになって世を乱す?ふざけんな! コイツに大それたことできるわけねえだろうが!」
そのまま拓郎は捻り上げた腕を引っ張って、その勢いを利用して村田の顔面に膝蹴りを叩き込む。鼻柱をへし折られた村田は慌てて拓郎から距離をとり、鼻から血を垂れ流しながら持ち直す。
「それ以前にお前、人の身内に手ぇ出してタダですむと思ってんのか。あぁ!?」
腹が立った。己の正体を偽っていたシズクにも、上から目線で家族を散々に痛めつけてきた、この男にも。
大体、この村田という男にシズクの何がわかる。
家で妖怪の世話をしたり悩みを聞いたりしている彼女を知っているのか。
飄々と強かな笑みを浮かべている彼女を知っているのか。
楽しみにとっておいたオヤツを湯那にとられて不貞腐れている彼女を知っているのか。
学校で友人達と他愛ない話で笑いあう彼女を知っているのか。
「お前が言ってるのは全部『九尾の末裔』っていう妖怪の話だ。緋暮シズクの話じゃねえ」
「所詮は子供か……!」
ひしゃげた鼻を直しながら、村田は目の前の少年を睨みつける。
彼の心は体の痛みよりも自分の温情を無碍にされたことに対する怒りに燃えていた。
睨み合う二人。
正直、今のこの状況はスーツを着た男にしこたま殴りかかる目つきの悪い男子学生と、はたから見れば、サラリーマンに絡んでいる不良だが、今ここにそれを指摘する者はいない。
「まるでチンピラです……」
「おい、コラ!」
シズクを除いては。
「お前はもうちょっと空気読め! 俺が誰の為に怒ってやってると思ってるんだ!」
「あ、それはありがとうございます。でも、そのセリフは恩着せがましいのでかっこ悪いです」
「まったく感謝の気持ちが感じられない!」
いつものようにぎゃぎゃあと口喧嘩を始める二人だが、やがて互いに軽く笑った後に拓郎は言う。
「あとで話を聞かせてもらうからな。お前の本当の事情」
「……はい」
拓郎の言葉にシズクは強く重く頷いた。
夜帳拓郎にとっては自分の家族が傷つけられ侮辱された、それだけで彼が怒る理由は充分であった。
そして、目の前の少女が頷いてくれた、それだけで納得し立ち上がる理由は充分であった。
そんな二人に対し村田は忌々しげに吐き捨てる。
「せっかく助けてやろうと思ったのに……!」
「さんざん煽ってきたくせによく言うぜ。そもそも頼んでねえよ、タコスケが!」
村田は懐に手を忍ばせるがそのまま動こうとしない。おそらく、雨に濡れてこそいるが彼の顔には今冷や汗が浮かんでいる事だろう。
理由はなんとなく察しがついた、この男の呪符を折り紙にして術に応用している。拓郎自身も一応は退魔の家の出であるため、目の前の男が術師として相当の実力者であることは察しがついた。
だが、彼が使用しているのは所詮は紙だ。ならば雨が降る今の状態は半減。いや雨の勢いはさっきと比べて増してきているため彼の術の効きはさらに悪くなっているといっていい。
だからこそさっき彼は拓郎を言葉で懐柔しようとしたのだろう。はっきりいって煽ってばかりで逆効果だったような気がするが。
(だったら、このまま戦いを続行すると見せかけて、隙を見てトンズラするか……)
現在自分はシズクと村田の間を挟むといった位置に立っている。上手く隙をついてシズクの手を引き逃げに徹すれば、目の前の男があの折鶴を使えない今ならば、逃げきることもできるのではないだろうか。
そこまで考えを巡らせた次の瞬間、よく見ると目の前に相対する村田の顔が強張っていた。
ブラフか?、そう思った矢先に自分の胸から熱い感触が感じられた。
何かが喉の奥までこみ上げて、思わず吐き出した赤いソレは鉄の味がした。
そこで、ようやく自分が光を放つナニカに貫かれていることに気づいた。
「村田さん、独断専行はダメだよ。まあ、僕が言えた義理じゃないけどさ」
なんとか首だけ振り向かせると、そこには自分とそう年の変わらない赤髪の端正な少年が立っていた。
少年は邪気のない笑みでそのまま剣の形をした光をゆっくりと引き抜き、それと共に拓郎は倒れ伏す。
「ごふっ」
何かを言おうとするも血の塊を吐き出すばかりの拓郎を中心にそのまま赤い血だまりが広がっていく。
少年の方はそんな彼を興味深げに眺めていたが、やがて僅かばかりの失望を込めて一言漏らす。
「あれ? 見込み違いだったかな?」
まるで面白いと思って買ったゲームが期待外れの駄作だったかのようにあまりにも軽く、あっさりと、己の凶行の結果を無慈悲に切り捨てる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
その光景を見たシズクの中の何かが今度こそ崩壊した。