勇者、やっかいになる
カンザキさんが出て行ってからすぐの事。
看護師のチヒロさんーー呼び方はそのままでいいと言われてしまったーーが医者を連れて戻ってきた。
そして、検査があるからとあちこち連れまわされる事になる。新しい部屋へ行くと、轟々と唸る円筒状の機械の中に、固定されたまま突っ込まれ。また別の部屋では厚い板の前に立たされたり、細い針で刺されたりと散々な目に遭う。
「必要な事ですから、あと少し我慢してくださいね」
チヒロさんは、これで最後です。と申し訳なさげにその柳眉をさげていた。
先を行く彼女の歩く速度は、早くも遅くもない。時々、こちらを振り返りながら先導する姿からも、細やかな気遣いが感じられた。
ーー律儀な人だな。
親についてまわる子ガモも、こんな心境なんだろうか。
若干の不安はあるものの、この人についていれば大丈夫だと感じる。
長い廊下の先。最後に通された部屋では、問診と精神性を調べるテストが待っていた。僕はカンザキさんとの会話を思い出し、真実にほんの少しの嘘を混ぜて答える事にする。
僕はあくまで、ただの青年の振りをしなければならない。ここを出るために。
そしてチヒロさんは他の要件があるとの事で、後の事は別の人に引継がれた。
「結果は一週間後です。許可が出るまでは退院出来ませんので、ご了承ください」
黒縁眼鏡をかけたスレンダーな女性が、極めて事務的な態度で当面外に出られない事を宣告する。
この世界に来たばかりの僕には、記憶障害よりましな振りをする事が出来なかったのが災いした。
「え、すぐに出られないんですか?」
「……身分証もなく、名前も分からない人を帰せるとお思いで?」
あからさまな仏頂面で答えをーー質問に質問の形で返すのはどうかと思うがーー返されてしまった。
このままでは暫く閉じ込められてしまう事になりかねない。一刻も早く帰る方法を見つけたい僕にとって、それはあまり望ましくない事だ。
僕は急がなければいけない。
そう、記憶ではなく心が訴えかけていた。
張り詰めた空気に、ふっとひと息看護師さんが溜息をつく。そしてこちらを見つめて言った。
「……最低でも身元引き受け人が必要です」
ーー誰がいるだろう。
少しの躊躇いの後、カンザキさんを思い出す。
寄る辺ない僕には、頼れるであろう人はあの人位しかいない。
僕が伝えようとしたその時。
「それな…… 「早坂君」 ら?」
そんな僕の発言に割り込んだのは、そのカンザキさんだった。
「私がなるよ。身元引き受け人だろう?」
「社長?」
突然の来訪に小さく目を見開いたものの、素早く気を取り直すハヤサカさんに、彼は書類をぽんと手渡し言った。
「連絡が遅くなってすまない。彼の事は私が見るから問題ないよ」
とん、と僕の両肩に手をかけてくるりと爽やかに踵を返すと、そのままハヤサカさんを置き去りにしてしまった。
ーー後ろの方で慌てて何か喚くような声が聞こえたのは、気のせいにするしかなかった。
◆◇◆◇◆
「ここが、今日から君の住む部屋だ」
病院から抜け出してすぐ連れられた、とあるマンションの一室。
ここまでの移動中、見るもの全てが驚きの連続だった。
歪みなく舗装された道路、馬もなく走る車、建ち並ぶビル……この世界の『科学』と言うものに、僕は圧倒されるしかなかった。
カンザキさんが、移動中にこの世界の事について色々と教えてくれたが、この目で見なければ、多分全部は信じられなかっただろう。
「部屋の中の物は、自由に使ってくれて構わない」
案内されるがまま、一通り室内を見て回る。
その後、設置されている物の使い方について、これまた簡単な説明をうけたのだが。
どう考えてもおかしい。指先一つであれもこれも済んでしまうじゃないか。
こんな事ができるのは魔法ぐらいだと思う。けれど、僕の知っている魔法は、魔術師ギルドの専売特許で誰でも使える訳ではない。そしてなによりも詠唱が必要だ。
ーー魔法よりよっぽど魔法染みてる。
そんな感想を述べると、カンザキさんはくつくつと笑い、それを噛み殺してから謝った。
「すまない、笑うつもりはなかったんだ。まあそのうち慣れるさ」
「だといいんですが……」
深としてしまった空気に、自然と今後の事に話題は切り替わった。
「……これからどうするつもりだい?」
「帰る手段を見つけたいと思います」
最後の、あの雨の記憶の後、世界はどうなったのだろう。
僕無しで魔王は倒せたのか。
ーー魔王。
思い出した。あの雨の前、僕は魔王と戦っていた。
倒した記憶がないという事は、魔王はまだいるのかも知れない。
今すぐ動き出したくなる衝動と、まだ何もできない現状に苛立ちが募る。
「協力したいのは山々だが、世界を渡るような物はまだ発明されていない」
「そうですか……」
「とはいえ、私に考えがある」
伊達に事業の手を広げてないからね。任せてくれないかと言って今日はこれまで、とばかり話は打ち切られた。
「私は帰るが、何かあったらここに連絡するといい」
と、言うやいなやペンを走らせ、幾つかの数字を書き付けたメモが寄越された。
「おやすみ、良い夢を」
「ありがとうございました、おやすみなさい」
見送ろうとした僕をやんわりと断り、そのまま部屋を出て行ってしまったカンザキさん。途端に静かになる室内。一人には十二分過ぎる広さの部屋が、かえって僕の寂寥感を掻き立てる。
「寝るか……」
用意されていた毛布に包まり、ゆっくりと目を閉じると、僕の意識はすぐに眠りの精霊の領域に落ちていった。