かなわない
「ひぃめぇさぁん」
お久し振りですぅ、とおちゃらけた雰囲気全開で会いに行けば、厳つさ全開のサングラスを外して、その人は苦笑を見せた。
その大人を見せつける表情が好きだ。
その顔を見て、私は締まりの欠片もない笑顔を見せる。
姫路 真弓さん。
女の人っぽい名前だけれど、見た目は少し厳ついお兄さんだ。
伸ばされた髪を後ろで結い上げて、元の目付きの悪さを隠すためにしているサングラスは、余計に厳つく見せていることを彼は知らない。
私は彼を姫さんと呼ぶ。
最初の頃は、もっと別の呼び方ねぇの?なんて言っていたけれど、今では何も言わずに私の頭を撫でる。
その私より一回り二回り大きな手が、くしゃくしゃと髪を混ぜるのが好きだ。
「姫さん姫さん!お腹空きました!」
何か食べさせて下さい!とカウンター席に腰を下ろす私。
ここは姫さんが経営中のバーだ。
しかも現在営業時間外。
当然今がお昼だからだけれど。
姫さんは私の要望に苦笑のまま、はいよ、と答えてくれる。
だから私は更に甘えて「チャーハン!チャーハンが食べたいです!」と言い出すのだ。
甘えておいてなんだけれど、姫さんは突き放すことを覚えた方がいい。
制服のまま、学校のある時間にも関わらず、営業時間外のバーにやって来た女子高校生。
普通なら帰らせるなり、話を聞き出すなり、学校に行かせるなり、保護者やら学校やらに連絡だ。
そういうのを一切しないから、甘えに甘えることを、姫さんは知っているんだろうか。
カウンターの綺麗に磨かれたテーブルに、ぺったりと頬を貼り付ける。
冷たくて気持ちいい。
お店の中に音楽は流れておらず、カッチャカッチャと姫さんが料理する音だけが響く。
美味しそうな匂いが鼻を刺激して、同時にお腹の虫まで刺激した。
「……姫さぁん」
「なんだ?」
「……何でもない」
一度体を起こしてから、テーブルに額を打ち付けた。
これで頭を冷やせ、私。
怪訝そうな声だった姫さんに言おうとした言葉を飲み込んで、私は目を閉じる。
死にたい、姫さんには一番言ってはいけない言葉。
好き、姫さんには絶対に言ってはいけない言葉。
私の吐き出したい言葉は、姫さんにとっては毒となり棘となり、傷付けたり嫌な思いをさせる。
そんな私が私は嫌だけれど、姫さんには受け入れて欲しいとか自分勝手なことを考えてしまう。
ゴトン、耳元で音がして顔を上げる。
視線の先にはガラスのコップと、その中になみなみに注がれた真っ赤な何か。
「トマトジュース?」と首を傾げる私に、お玉を持った姫さんは笑う。
あ、それ、好き。
白い歯を見せて子供っぽく笑うの、好き。
「しそだよ、しそ」
「しそ……ってあの、しそ?」
「お前が言ってるしそが、一体何なのか分からねぇけど、しそだな」
私の言っているのは葉っぱの、しそ、だ。
目の前に出された赤い飲み物は、しそジュースだと、姫さんが教えてくれた。
初めて飲むそれに、恐る恐る口を付ける。
「……うまっ」
「美味しいって言え」
コツン、と額を小突かれたが気にしない。
笑いながらコップを両手で持つ。
酸っぱいけど正直こういうやつのが好き。
甘いもの辛いのも苦いのも嫌いじゃないけれど、喉とか胃がキューッてするような酸っぱいのが好きだ。
完全に自分の体をいじめている気がするけれど。
それから更に置かれる皿には、山盛りのチャーハン。
頼んだのは私だけれど、女子高校生に出す量じゃない。
それが顔に出ていたのか、私にスプーンを持たせながら「食わねぇと成長しねぇぞ」発言。
女の子の成長って中学生くらいで止まるよ。
それでも私は、目の前のお腹の虫を刺激するそれに耐えられずに、いただきますを呟いてスプーンで切り崩していく。
ほわほわと白い湯気を立てるそれは、お米もしっかり立っていて、チャーハンとしてパラパラになっていて素敵だった。
やっぱりチャーハンはパラパラが命。
一口食べて、うまうま。
二口食べても、うまうま。
兎に角美味しい姫さんのチャーハン。
ひたすら口の中に入れては咀嚼を繰り返す私を、姫さんは自分の子供を見るような目で見た。
食べる手を止めずに、私は静かに姫さんの手を見る。
姫さんの手は綺麗だ。
男の人らしい骨張った手をしているけれど、指自体は細めで爪の形もしっかりしている。
そんな手――左手薬指には、永遠を誓い合った証が、キラキラと存在していた。
だけど私は知ってる。
その証の片割れが存在しないことを。
ゴウゴウと燃える火の中で、あるべき持ち主と一緒に眠ったことを、私は知ってるのだ。
考えると胃から酸っぱいものが込み上げてきそうになるけれど、チャーハンとしそジュースで押し戻す。
一瞬の吐き気は直ぐに消えて、空っぽになったお皿とコップを見て、姫さんがよく食ったなぁ、と笑う。
そりゃあ、美味しいですから、なんて告げれば、頭を撫でられた。
「姫さん姫さん」
「何だ?」
「また来てもいいですか?」
いつも聞かない言葉を聞いて、目を見開いた姫さん。
厳つい顔が子供っぽくなってから、ぱちぱち、瞬きをした。
驚いてるなぁ、そんなに驚くことかなぁ。
私は鏡みたいに私を映すテーブルを撫でながら、姫さんの言葉を待つ。
「当たり前だろ。もう、娘みたいなもんだしな」
キラキラ輝く指輪が鬱陶しい。
拒絶じゃないから、気付いていないからタチが悪い。
にっ、と八重歯を見せて笑う姫さん。
その指輪を外させて投げ捨てたい。
あの人と同じように死んでみたところで、私の立ち位置は変わらないし。
あの人を押し退けて好きだと言ったところで、答えなんて分かり切っている。
あの人がいない今でも、指輪をしているのがいい証拠じゃない。
素敵な夫婦でしたもんね。
知ってます、見てましたから。
私のこと、本当の娘みたいに可愛がってくれましたもんね。
じわり、滲む視界の中で笑う姫さんは残酷だ。
知らないことが罪なように、気付かない優しさは残酷だ。
「うん。じゃあ、お腹もいっぱいになったから、重役出勤で学校行きますね」
ケタケタ笑えば、行ってこい、と頭を撫でられる。
本当に可愛がられてる。
その温かくて大きな手が好きなんだけれど、軽く頭に当たる指輪がなぁ。
いつか私も姫さんを過去の人にして、別の人と家庭を築くのかな。
姫さんと同じ指に指輪をして永遠を誓って――姫さん達みたいな片割れを失っても夫婦でいるのかな。
お店を出ると冷たい風が頬を撫でていく。
寒いから早く学校に行こう。
コートのポケットに手を突っ込んで、夫婦なぁ、と考えた秋の日。
「彼氏ほしー……」
姫さんよりも、魅力的な人なんてそうそう見つからないけれど。