第二話
草が風に揺れる音と川のせせらぎ。
冷気が体に忍び寄ってくる。
(ここは……どこだろう……)
身体中が痛む。指一本も動かせそうになく力が入らない。少しでも気を抜けば、そのまま意識を手放しそうだ。
(……寒いな……)
体にあたる風は強くは無いが冷たい。
(……!?……)
気配が幾つか近づいてくる。殺気を帯びた気配だ。
(……妖魔……?)
まともに動けないであろう状態の今、もし妖魔に見つかれば勝ち目はない。見つからないことを願いながら、できるだけ息をひそめ気配を消す。幸い辺りは闇に包まれている。大人しくしていればそうそう見つかることはないだろう。
「~~~、~~~、~~~」
声が聞こえた。
よく聞き取れないが何かを話している。妖魔ではない人の声。
(……人?妖魔じゃな……!?)
不意に殺気が増した。触れただけで斬れそうなほどの張りつめた気配。
雲に隠れていたのだろう。月明かりが辺りの闇をうっすらと照らし出したその瞬間。
視界に飛び込んできたのは月光を受けて煌めく刀剣と数人の着流しの男。そして羽織を着た二人の男。刀と羽織が翻る、荒々しい立ち回り。
着流し姿の数人が倒れ、一人が沙彩のすぐ近くに倒れてきた。
頬に生温かい何かがかかる。
むせ返るような匂いに、それが何であるかを理解する。
これは夢だろうか?
しかし夢にしては自分を包む空気や匂いはやけにリアルだ。
身体が怠い。瞼が重い。意識が遠のく。
気配が近づいてくる。
(……ダンダラ羽織……?)
薄れていく意識の中で沙彩が最後に見たものは、裾と袖が山形に染め抜かれた羽織だった。
**********
目が覚めると見慣れない天井が見えた。
(……どこだろう、ここ……)
八畳ほどの片付けられた部屋だ。四面ある壁は三面が襖になっており、うち一面は上半分に張られた障子から柔らかな光が入ってくる。壁に面して文机があるくらいでほとんど物も置かれていない。部屋の中ほどに敷かれた布団の上にどうやら自分は寝ていたらしい。
(……何があったんだっけ……)
確か……仕事をしていたのだ。それで妖魔にやられ、意識を失った。そこまではわかる。問題は、そこからだ……。
あれは、夢だったのだろうか……?
着流しの男たちと白刃の光。血の匂いと生温かな感覚。張りつめた空気と殺気……。
夢ならばこんなにもはっきりと覚えているものでもないだろう。
けれど、そうでなければ理解が出来ない。妖魔と戦う自分の日常が如何に非現実的かは理解しているつもりだ。それでも殺気を放つ着流し姿の男たちが斬りあっている光景はありえない。それに……。
「……ダンダラ羽織は……夢だよねぇ……」
思わずつぶやき苦笑する。夢にしても何故ダンダラ羽織だったのか……いや、好きだけど。新選組。
裾と袖が山形に染め抜かれた羽織は新選組の隊服として有名なものだ。
父が時代物が好きなこともあり、東雲家では大河ドラマや時代劇はよく観られていた。有料の時代劇チャンネルをひく程度には好きだったらしい父親が、特に好きだったのは八代将軍が貧乏旗本の三男坊に姿を変え市井で大立ち回りをする話や、隠居した副将軍が諸国漫遊の世直し旅に出る話で、どちらもかなりの長編シリーズだ。勧善懲悪としたそれらは子供でも分かりやすく、副将軍のお供が印籠を取り出すシーンなど真似をして遊んだりもしたものだ。そのような環境で育った沙彩は自然と歴史に興味を持ち、特に幕末時代は好きだった。
好きな時代背景の漫画や小説は色々読み、歴女とは言わないが一般人よりはちょっと詳しい程度には知っている。どちらかと言うと好きな偉人に対するミーハー心で、ファンクラブに入るほどではないけれど出演する番組はとりあえずチェックする温い感じのアイドルファンに近いだろう。そんなミーハー心には幕末という時代は好きにならずにはいられない魅力的な人物に溢れていたし、取り扱った作品も多く手に取る機会も多かった。
そして幕末と言えば倒幕派と佐幕派が存在するわけだが、もちろんどちらも大好きだ。特に佐幕派。というか新選組。
大好きだけど……こんなわけのわからない夢を見なくてもいいだろうと思う。夢、なのだろうか……?夢だとしか思えないけれど、肌で感じるものは現実味があって判別がつかない。
(……考えても仕方ないか……)
わからないことを悩んでいても答えはでない。そもそも答えを出すには情報が少なすぎるのだ。自分の置かれた状況を沙彩はほとんどわかっていない。
身体が動くことを確認し、沙彩は身を起こした。動けるならいつまでも寝ていても仕方ない。
自分の体を見下ろして眉を顰める。
着ているものが変わっている。自分は確か制服を着ていたはずだ。白のカッターシャツに紺のセーター、臙脂に紺のタータンチェックのミニスカート。それほど珍しくもないスタンダードなデザインだ。けれど今、沙彩が着ているものは襦袢だ。
そして改めて周りを見渡し、大切なものが無いことに気付く。
「紫苑!?」
気付いた瞬間に呼んでいた。手元に視線を落とす。
紫苑は沙彩にしか扱えない沙彩だけの刀だ。沙彩の霊力が紫苑には宿されている。霊力同士が反応し、沙彩が呼べば離れていても紫苑は手元に現れる。しかしそれは沙彩が本当に必要とした時だ。紫苑が現れないのなら危険はないと思っていいのだろう。
けれど、落ち着かない。
現状がわからない中で、紫苑が手元にないことのなんと不安で心もとないことか。
目を閉じて、一つ深呼吸をする。意識を集中し、自分自身の霊力の波動を探す。近くで確かに感じる波動。
大丈夫だ。紫苑は近くにある。
それを確認し、目を開ける。僅かだが不安は拭えた。
不意に障子に影が差した。襖の開く気配がする。
「起きてたか」
「おはようございます。具合はどうですか?」
かけられた二つの声に顔を向けた。
「っ!?」
そして固まった。
……やっぱり夢かな……。
最初に思ったのはそれだった。
声のした方を見ると、そこには男が二人立っていた。一人はどこか少年のようなあどけなさを感じる笑顔を浮かべており、愛嬌のある顔立ちだ。もう一人は眉間に皺をよせた仏頂顔だが顔立ちは涼やかで整っていると言えるだろう。
沙彩は二人のうちの一人、無愛想な男の顔を知っていた。それは本であったり、テレビの特番であったり、土産物屋のグッズだったりと様々だが、使われている写真は全て同じだ。「色は白く、眉目秀麗な色男」後世で、そう表される人物。新選組副長、土方歳三その人だ。
ダンダラ羽織の次は副長だ。もう夢だとしか思えない。自分の好きな組織とその中枢を担う人。土方歳三がいるなんて夢以外ないだろう。むしろ現実だと困る。憧れの存在に会えるのは嬉しいが困る。
手の甲を抓ってみると、そこには確かな痛みが存在した。
……夢じゃない。その事実に沙彩はますます困惑してきた。
鈴原の当主ならまだわかる。鈴原には当主のみが扱える秘術として時空を超える術があるからだ。いつの時代にも妖魔は存在する。そのため鈴原に退魔士となれる者が育たなかった際、力を貸せるようにと何代か前に当主が編み出したと聞いている。しかしそれには高い霊力が必要だ。沙彩は確かに霊力は高い方ではあるが、次期当主の星姫には及ばない。
自分にそんな力があるとは思えなかった。だが痛みは本物だし、自分は夢を見ているわけではない。起こっていることは現実だ。
「大丈夫ですか?どこか痛んだりします?」
「あ、いえ、大丈夫です……」
不意にかけられた声に我に返った。仏頂面の男が土方ならこの柔らかな笑顔で気遣ってくれるこちらの男は沖田総司だろうか?沖田総司と言えば「明るく陽気な笑顔の好青年」とされていたはずだ。多分間違いないだろう。
「なら良いのですが……」
ほわっとした笑顔にこちらも釣られてしまいそうになる。新選組最強との呼び声も高い天才剣士と言われる人物とはこの笑顔からはとても思えない。
「ところで、あなたは何故あんなところに倒れてたんですか?」
「え、あ、えっと……わかりません……」
「おい」
男の眉間の皺が深くなった気がした。だがふざけているわけではなく、自分でもわかっていないのだから仕方ない。
とりあえず、一つ確認しなくてはならない。目前の二人が土方歳三と沖田総司だとすればここは新選組の屯所だろう。前川邸か西本願寺のどちらかだ。大まかな場所はわかった。わからないのは……。
「あの、一つ聞いてもいいですか?今って文久何年でしょう?」
「……おまえ、ふざけんのも大概にしろ。見慣れねぇ着物は着てるわ、変な荷物は持ってるわ、返答次第では……」
眉間にくっきりと皺を寄せ、疑わしげな目で睨むように見据えられる。
皮膚がちりちりと粟立つような感覚が走る。胸がざわつく。恐怖とは違う、初めての感覚だ。
「土方さん、女の子脅してどうすんですか」
「黙ってろ総司。そのうえ女の持ち物とは思えねぇ立派な刀まで持ってやがる。何者だ、おまえ」
「刀!?それ、今どこに!?」
自分が持っていた刀と言うのは間違いなく紫苑だ。近くにあることはわかっている。この場になくともこの邸のどこかにあるはずだ。
掴みかからんばかりの勢いで尋ねた沙彩に土方と呼ばれた男が目線で促すと笑顔の男は入ってきた襖とは違う、彼らから見て右側の襖を開けた。続き間になっている隣の部屋からリュックと一振りの刀を持ってくる。
鞘は白塗り、柄巻きは黒で鍔には皐月の家紋である菖蒲と鈴原の家紋である蘭が彫られている。そして刀から感じる霊力の波動。紫苑だ。
刀を目にとめると沙彩は胸をなでおろした。
呼べば来るとわかっていた。たとえどこにあってもだ。けれど見えるところにあるのと無いのとでは全然違う。
「紫苑は祖父から貰ったものです。女が刀を持っていてはいけませんか?」
「そういう訳ではないですけどね。京の町もいろいろ物騒なんで我々としても警戒するんですよ。それに刀を抜き身の状態で握ったまま河原に倒れていたとなると気になりまして」
苦笑しながらの答えにそれもそうかと納得はする。この時代に洋装でしかも刀を握って倒れてる女とか絶対怪しい。そんなやつがいたら警戒するのは当然だ。
「それから今は元治元年です」
……元治。新選組が結成されたのは文久3年だったはずだ。年号はもう変わっているということか。
今いる部屋は庭に面しているらしく、開いた襖の間から外の景色が見えていた。庭の木々には新緑が芽生え、どうやら季節は春らしい。
元治元年、春……。とすれば新選組を語るなかでも重要項目、池田屋事件の前辺りか……。時代背景は大体わかった。
「次はこっちの質問に答えろ。おまえは何者だ?」
「わたしは……」
話してもいいものだろうか?それに話したところで信じてもらえるとも思えない。何しろ自分でも信じられないのだ。
(……まぁいいか。話しても)
嘘のようだがそれが事実だ。それ以外、自分には語れない。
話してしまおう。そう決めて、沙彩は口を開いた。
自分でもよくわからない、自分の身に起きたことを語るために。