I DON'T WANT TO BE YOUR DOG, GET OUT
犬の吠え声と、唸り声が聞こえて、わたしは窓を見た。紺のカーテンはぴったりと閉じている。隣の部屋からはかすかにテレビの音と、人の話し声が響いていた。
わたしは視線を、パソコンの画面に戻した。プロバイダのトップページには、ニューストピックが並び、画面の右下には22:32と表示されている。
わたしが未来からやってきた殺人アンドロイドに銃をつきつけられてから、2週間が経った。わたしの日常はそれまでと同じように続いていたけれど、世界では物騒な事件が起こっていた。
遠く離れた国での内乱。この国での、自動車事故。それはいつものことだ。
遠く離れた国での飛行機事故。この国での、政治家汚職問題。それも、良く聞く事件だ。
遠く離れた国での、流行病。この国での、通り魔事件。それも、時々は聞く事件だ。
遠く離れた国での、大統領暗殺。この国での、大規模自然災害。それは、20年に1、2回はある事件だ。
これらは、確かに深刻な出来事だ。けれど、今起こっていることに比べたら、その深刻さはどこか霞んでしまう。
2週間前、わたしはミスターローレンスが何者なのか知らなかった。
今もミスターローレンスが何者なのか、相変わらず分からなかった。けれど、その名前は2週間前と比べたら、はるかに馴染み深いものになってしまった。
ミスターローレンスの名前は、ネットを中心に半年程前からあちこちで囁かれていたらしい。わたしがその名前を知らなかったのは、仕事が忙しくてネットをよくチェックしていなかったのと、家族や友人からの連絡を全て無視していたせいだ。
ミスターローレンスの名前が、朝や夕方のテレビニュースで流れるようになると、それまでのどこか適当なメールや伝言が一変し、その文面や声が深刻なものへと変わった。さすがに無視できなくなり、わたしは仕事の合間に、大丈夫、生きてるよ、元気だよ、ミスターローレンスに襲われていないよ、と方々にメールや電話を入れた。
ミスターローレンスは、人をばらばらに解体する。
ミスターローレンスは、性別が女ならば、10才の子供から80才のおばあさんまで、レイプする。
ミスターローレンスとネットで検索すると、ミスターローレンスのコメントがついた、被害者の写真が出てくる。
ミスターローレンスは人を食べる。
ミスターローレンスは空を飛べる。
ミスターローレンスは凄腕のクラッカーだ。
ミスターローレンスは吸血鬼だ、悪魔だ、幽霊だ。
ミスターローレンスは海底に地下都市をつくり、そこから各国の地下鉄へ通じるトンネルがある。
零時零分零秒に、ミスターローレンスの犬になりたい、と検索すると、ミスターローレンスがつくったアプリのダウンロードサイトが出てくる。
そんな、都市伝説のような噂が、まことしやかに語られていた。わたしはあまり、そういう話しには興味がないけれど、連日報道されている、ミスターローレンスがらみの事件を聞くと、そういう噂がたつのも納得できるような気がした。
ミスターローレンスの名前が、電波にのって全国のお茶の間に流されるにきっかけになったのは、流れ星事件だった。
1週間と4日前、奥多摩湖で流星群の撮影をしていた、アマチュアの天体観測チームがミスターローレンスに殺された。チームメンバーは五人で、そのうちの一人が、撮影の様子をネット配信していた。だから、巨大な蝙蝠のように、夜空を飛ぶ人間と、たくさんの流れ星と、観測チーム五人の断末魔が、わずかなタイムラグを挟んで、ほぼリアルタイムで全世界に配信された。
インターポールは、この事件はミスターローレンスと呼ばれる男の犯行が高い、と発表した。
東京タワーのてっぺんに、全裸の女子高生が突き刺さっていたのは、流れ星事件から2日後のことだった。
それから、3ヶ月前のアメリカ、ミシガン州のとある町に、人間の肉片が霰のように降っていたことがわかった。それにもミスターローレンスが関わっていた可能性が高いことが報道された。
5日前、インターポールは、ミスターローレンスが関与していると思われる事件は猟奇性の高いものが多かったが、ここ数日多発しているものは、今までのものと比べて、残虐性、猟奇性、1つの事件の規模、事件が起こる頻度、全てが上回っていると発表した。
4日前、ロンドンと、ニューヨークと、ベルリンと、モスクワと、北京で、それぞれの主要鉄道が爆破された。死者、行方不明者あわせて、52326名。怪我人を含めると、被害者の数は把握しきれないほど多いということだ。全ての遺体の口には、ヒマワリが突き立てられていて、インターポールが声明を出す前に、ほとんどの人間がこれはミスターローレンスが絡んでいる、と推測した。そして、人々の推測は間違っていなかった。インターポールは、ミスターローレンスが関わっている可能性が高いと発表した。
3日前、国際連合安全保障理事会は、世界規模での非常事態宣言を発表し、各機関での情報共有、出入国の本人認証の強化を行うことを取りめ、それぞれの国においても国民の本人認証を強化させるように指示を出した。また、ミスターローレンスは、これまでの調査から、国連非加盟国に潜伏している可能性が高いため、事件が収束するまで、全ての国連加盟国は、国連非加盟国との国交を凍結することが決定した。
国連の声明を受けて、日本でも様々な動きがあった。都道府県の境目には、昔の関所みたいに、主要道路と駅に検問所が設置された。
外務省は、必須ではない海外渡航は避けるように呼びかけ、渡航禁止地域に指定された国にいる邦人は、現地の日本またはアメリカ大使館に行くように指示を出した。
空を見上げれば、一番少ない時でも2、3機、軍用のヘリや飛行機が飛んでいるのが見えた。
一昨日、昨日と、そして今日。厳戒体制の各国を嘲笑うかのように、ミスターローレンスは再び日本に現れた。あらゆる公共施設の前に、磔にされたキリストよろしく、楔で四肢を留められた遺体と、木の杭が置かれていたのだ。
それは図書館の階段に、小学校の門に、役所の玄関に、国立の研究所や大学や病院の前に、そして国会議事堂の前に、前衛的なオブジェのように立てかけられていた。被害者はいまのところ83名、全て日本人だった。
わん、と犬の吠え声がまた聞こえた。わたしは、パソコンの画面から顔を上げた。犬の声は、窓のすぐ外から聞こえたように思われた。
わたしは少しだけ、不安になる。なぜなら今の東京都では、特例を除き、夜間外出は禁止されているからだ。犬の散歩は絶対に、特例には入らない。それに、この辺りには犬を飼っている家はない。どこかの家から、逃げてきたのだろうか。
わたしはパソコンに向き直り、ミスターローレンス、犬、と検索してみる。ヒットするのはミスターローレンスの記事だけて、完全に犬のほうは無視されている。
わたしは、検索オプションを開き、ミスターローレンス、犬、の2つを必須条件に指定して検索してみた。
表示されたのは4件の情報で、そのうち2つは個人ブログだった。どうやらミスターローレンスと、飼い犬のことを同一記事内に書いているだけのようだ。
残り2つのうち、1つはニュース関連のサイトだった。開いてみると、「【悲報】ミスターローレンスが東京でヒャッハー」という記事と、「犬のことわんわんおって言いはじめたの誰だよ」という記事が並んで表示されているだけだった。
最後の1つは、怪しげなサイトだった。ログをとることが目的なのか、何かの実験なのかはわからないけれど、ミスターローレンス、犬、という単語が、複数の言語によって書かれているだけのサイトだった。広告も表示されなければ、リンクも見当たらなかった。
わん、わん、うぅ
犬の声が響き、窓ガラスに何かが当たる音が聞こえた。この辺りの地形は高低差が激しくて、密集しているアパートは巨大な階段のように、段々に並んでいる。だから、わたしの部屋は2階に位置しているのにも関わらず、その窓のすぐ下には、隣に建つアパートの裏庭が広がっている。
うぅ、わん、わん、うぅ
間違いない。犬がいる。窓の向こうの、裏庭に。わたしは、立ち上がった。部屋の隅のクーラーから放たれている冷たい空気が、わたしの頬に当たった。
きゃんきゃうん、と犬の鳴き声の調子が変わり、待て、犬、と叫ぶ男の声が聞こえた。
ミスターローレンスだろうか。わたしはパソコンの隣に置いてあった携帯をつかんだ。ミスターローレンスに関わる通報は、110のあとに#10だ。わたしは、画面をタップして、電話アプリを開いた。
ぱぁん、と窓ガラスが砕ける音が響いて、蒸し暑い空気と、シベリアンハスキーと、人間が、部屋の中に雪崩れ込んできた。
シベリアンハスキーの後ろ足は、血に染まっている。牙を向き、鼻にシワを寄せながら、シベリアンハスキーは、床に倒れている男の喉に噛みついた。
ぱん、と花火が炸裂したような、破裂音が響いた。シベリアンハスキーの体がびくりと跳ねて、灰色の背中が赤く染まり、ぴんと張っていた尾が垂れて、床にその体を横たえた。
シベリアンハスキーは目を見開いて、痛みにあえぐように、激しく呼吸している。
仰向けに転がる男の首からは、血液が勢い良く吹き出し、それはどう見ても助からないように思えた。
ミスターローレンス?
わたしは部屋の隅から、その惨状を見つめ、呟いた。
No, I said No. I am not Mr. Lawrence.
弱々しく呟いたのは、男ではなく、犬のほうだった。わたしは目を擦った。すでにシャワーを浴びた後だったので、今度はわたしの指にはアイシャドウもアイラインもつかなかった。
シベリアンハスキーの呼吸が徐々に弱くなっていく。やがて、その呼吸は完全に止まった。
温い風が、カーテンをゆらし、血まみれの男の髪と、シベリアンハスキー毛並みと、わたしの前髪をなでていった。
床に倒れている、一人と一匹に近づこうと足をふみだすと、シベリアンハスキーの体が発光しはじめた。悪い魔法がとけていくように、光につつまれたシベリアンハスキーの形が、人間のものへと変わっていく。光が消えると、そこには全裸の白人の女性が現れた。
わたしは目を擦った。右手の人指し指を見ると、付け根のわきに、まつげが一本くっついていた。
わたしはどうするべきか悩んだ。部屋には死体が2つ。そのうち一人は、この部屋にきたときは犬だった。わたしは手元の携帯電話を見つめた。男が犬に喉笛を食いちぎられて死んで、犬は銃に撃たれて死んで、そうしたら犬は人間に変わりました、なんて話を誰が信じてくれるのだろうか。
ふと、頭に銭形さんの顔が浮かんだ。銭形さんなら、信じてくれるかもしれない。
インターポールの連絡先を検索しようと、わたしは携帯の画面に指を置いた。インタまで入力したところで、床に倒れていた男がむくりと起き上がった。わたしは驚いて、携帯を床に落とした。ごとりと、鈍い音が響いた。
血まみれの顔がこちらを見た。その顔には、見覚えがあった。
山西さん?
男は無表情のまま、私を眺め、しばらくそのまま眺め続けた。
ああ、君か。ミスローレンス
ようやく、発された声は、どこかくぐもっていた。しかも、男の口は閉じたままで、喉の傷を見るに声帯もかなりダメージを受けているようだった。いったいどこから、声がしたのだろうかと、わたしは訝しげな視線を男に向けた。
膝に予備の声帯と、発音機関がある。俺は膝が笑うを文字通り行うことができる、稀有な人間だ
人間じゃないですよね
この時代では自分のことを人間と呼ぶように命令されている
じゃあ、わたしに人型殺人アンドロイドってばらしたのはまずかったんじゃないですか?
それについては問題ない。問題があるのなら、素性をばらすことなどしない。ミスローレンス、これは、俺にとっても、君にとっても、とても困難な状況だ
血まみれの男は、床に横たわる全裸の女性を見た。明るい栗色の髪に覆われて、女性の顔は良くわからない。
この女の方は、その、何者なんですか? ちょっと前まで、シベリアンハスキーでしたよね
この女はミスターローレンスの犬だ
へ?
今は人間に見えるが、これは犬だ。牝犬なんだよ
男は膝でそう言うと、立ち上がった。黒く光る革靴で、女の肩を蹴り、うつ伏せにさせた。
ほら、尻尾があるだろう。これが何よりの証拠だ。人間には尻尾という器官は存在しない
確かに女性のお尻には、シベリアンハスキーの尻尾がついていた。けれど、尻尾以外は、この女性は人間だ。指先も、豊かな胸も、脛も、足の指も、人間のものだ。
人間のように見えるのは、分子変換ナノマシンメタモーを打ってるからだ
ナノマシン?それって、この間研究が始まったばかりの、あれですか
そうだな。ナノマシンの研究自体はもっと古くからあったが、2015年から実用化に向けての研究が始まった。2022年には3つの薬が市場に登場し、俺のいる時代では薬といえばナノマシンのことをさすくらい、それは普遍的なものになっている。メタモーはRNAのタンパク質合成因子に働きかけ、その結合の仕組みを変える薬だ。2016年から研究が始まり、臨床実験が開始されたのは2028年だ。しかし、重篤な事故が発生したため研究は凍結、試薬も破棄された
メタモーは、そんなに危険なんですか?
俺のデータを見る限り、メタモーは非常に危険であると言えるだろう。意図せぬタンパク質を合成し、その結果mRNAに作用し、DNAの情報を書き換える恐れがある
つまり、変位した細胞が、元に戻らないかもしれないっていうことですか
その通りだ
あの、ミスターローレンスって山西さんと同じように、未来からきた人なんですか?
俺の標的であるミスターローレンスは、この時代の人間だ。この牝犬も、この時代の、ミスターローレンスの犬だ。誰が、どうやって、この牝犬にメタモーを打ったのかはわからないが、どうやら俺以外にも、未来からきている人間がいるようだな
山西さんが追っているミスターローレンスと、今、世間で騒がれているミスターローレンスは、同じ人なんですよね
言っただろう、俺が追っているのは、ミスターローレンスという名のミスターローレンスだと。そいつはサマーバケーションをとる。それ以外に、情報はないんだ。同一人物かもしれないし、そうではないかもしれない
男は、それでだ、と言ってわたしの眉間に銃をつきつけた。
犬になるか、ここで死ぬか、どちらかを選んでくれるか、ミスローレンス?
銃はやはり黒く、とても丈夫そうに見えた。
犬になるって、その、それは例えばあなたの下僕になるとか、そういう意味での犬ですか?それとも、未来の技術を使って、犬に擬態するというような、つまり、生物としての犬になれってことですか?
男は左手で、ジャケットの内側を探り、白い箱を取り出した。白い箱は血で汚れ、赤茶色のまだらになっている。
男は片手でその箱を開けた。中には注射器と、メスが一本と、薬瓶が収まっていた。
両方の意味だよ、ミスローレンス。君がここで死にたくないというのなら、俺の指揮下に入るんだ
わたしは黙ったまま、男を見た。男もまた、私を見つめた。わたしの首筋を、汗が一筋流れていった。
部屋のエアコンは必死に部屋の温度を下げようとしているけれど、窓からは蒸し暑い空気が、あとからあとから、流れてくる。
どちらも、嫌だと言ったら?
死んでもらうしかないな。残念ながら
それは全く、残念とは思っていない口ぶりだった。わたしは男の黒い瞳を睨み、言った。
それって、ずるいですよ。選ぶことなんか、最初からできないじゃないですか
人には死ぬ権利もある。未来ではそれも認められている。生きる権利と同じように
男には隙がない。少しでも動いたら、わたしは頭を撃ち抜かれ、ミスターローレンスの犬のように、この部屋の床の上に横たわるのだろう。
ミスローレンス、選んでくれないか。選べないのなら、俺は君を殺さなくちゃならない