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雲の上の網

世界を救いたいから自国を救うのか、あるいは、自国を救いたいから世界を救うのかでは過程も結果も未来も変わる。それでは、どちらが良いと思う?

 エルフィアは午前三時、沿海に浮かぶ漁師船の灯篭。夜のない鉄骨の墓場。毒に呑まれた肉体。


 我らが主人公は天国への出世という階段を登っていた。この石段は地獄といわれる上下する数千段を上り下りして最期の切り開かれた山場を上がり切ると境内がある。この時間は人がいないので安全に上ることができる。彼は祈りに縋るただの人間でもあった。はじめは孤独を求めた散歩からはじまった規則は深淵への散策として、奥深いものになっていた。ここから戻るまで5時となる。


 軋む銅板。雨に溶ける金属の臭い。倒木から生えるキノコの蕾の群れ。土壌に敷き詰められた広葉。


 いっそのことセークエンスを辞めて放浪しようとでも考えていたのだが、辞めてしまえば会えなくなる人がいる。正確には会えるのだが、帰属する立場や環境の差に殺される関係にある人がいるのだ。


 足が重くなる。思っていたより大きく肉の付いた長物がうっとおしい。引きづるように進む。体は冷え、頭の血管も縮小によって痛み始めている。


 酸素の豊かな湿気が心地よさと不快さの狭間で揺れ動く。


 足を踏み外し、膝から血が滲む。没頭と苦痛から産まれた美しい不注意に視界がぼやける。


 小雨が降り始める。手元の光に影が集る。冷え切った手指は植物の種にまみれる。


「最高」


 自己を励ます。予定調和の苦難なんて、まさしく朝飯前だろう。


 しかし、せめてカロリー食を携帯すべきだったと悔やむ。


 もう少しで道は開ける。小さな勝利の積み重ねが大局を推進させる。


 「壊れていないよな」


 端末を摩る。幸い、かわいい寄生虫は生きていた。


 髪を乾かす時間を確保するために早く上がろう。額に張り付いた前髪から雨の臭いがする。


 二段飛ばしで歩むと木々がつま楊枝のように些末なものに見えてくる。


 この地は生物の揺り籠であり、墓場でもある。


 樹海で死ぬ人間がいるのも納得だ。ここは安らぎがある。


「おお、ようやく頂が」


 わたしの願いが成就しますように……


 いまだ薄らぐことのない闇に念じる。


 倒木があるのを見る限り、管理が行き届いていない。なんとなく、殺されるには絶好の機会だと考えているとくしゃみが出た。もう一枚羽織るべきだった。


 帰ろうと境内からの細道を進むと自動車が山道を進んでいるのが見えた。光で信号を送ると緩やかに目の前で停まった。開けられたウィンドウから中年男性が顔を出す。


「おい、ガキがこんな時間にどういった了見でこんなところに居るんだ?」


「死体放棄されたので、幽霊として彷徨っていたところでして」


「…………まあ乗れよ、当てがないんだろ」


 タバコ臭い車内に乗る。


「ここは爆走するには最高のエリアでな。今日は濡れていて人がいないのも都合がいい。高速道路に飽きてから違法行為に勤しむ日々だったのだが、おまえのような野生動物もいるなら事故も遠くねえ。辞め時ってやつかな」

 片手でタバコを咥え、他人への遠慮がないハンドリングをかます中年男性。

「賢明なことだと思います」


「おまえよく見るとずぶ濡れだな。拭けや」

 タオルを投げる中年。酸味のある臭いだが、風邪を引くわけにもいかない。


「なにしにあんなところにいたんだ?親御さんは心配ねえのか」


「…………ええ、趣味ですから」


「はあーーうおっ!チッ、あぶねえなあ!!」


 動物の影が横切り、急ブレーキをかける中年。驚いた動物は峠に落ちるように飛び移った。


「ガキ、怪我無いか」

 青年は肩を強打したものの、平気なようだった。彼は右手で扉に手をかける。


「おっさん、ちょっと気になるから見てくるね」


 ブレーキ跡の残る道。止んではいるが濡れている。タイミングがずれていれば、こちらが危なかった。ライトで下を照らすと岩に全身を強打した鹿が蠢いていた。食い入るように見つめる彼を中年は手を肩に置いた。


「これは見てらんないな。わりいことしちまった気分だ。おい、そんなもん見てないで、今日は学校だろ?早く戻るぞ」


 雨の臭いで感じられないが、草露の濃い黒はたしかに体液を示していた。開かれた目。最後の悲鳴。限りなく伝わる野性。やはり、目を離すことが憚られた。


「おい、風邪ひくから、祈っているのか知らんが、はやく戻れ」


「うん」


 濡れた靴裏を擦るとギュっと音が鳴る。安全運転で進むなかで、いつまでも死を夢想する若者。


「赤の色…………」


「ん?なんかいったか、つーかお前んちどこだよ」

 空が藍色を取り戻しはじめた。あの鹿には蛆にまみれているのだろうか。痩せていたから、きっと細く小さな蛆だ。贅を尽くした太っちょとは違う。


「お前んちどこかって聞いてんだけど、ああ?セークエンス駅でいいのか?あの辺りかよ。ハイソなところに住んでんだな、坊ちゃんや」


「ガキでいいよ、それよりチョコレートとか持っていない?空腹で此処が墓場になりそうだ」


「うるせえやつ。イカくせえんだけど、コンビニでパンツも買ってこい」


「…………」



「ありがとうございます。親切なおっさんがいて楽できました」


「よくわからんが、散歩は近場にしておけ。あの辺は危ないから」


 早朝の駅にも、思いのほか人はいるものだ。しかし、時間ができてしまった。学生寮の一階で自習でもしようか。


 帰って丹念に体を清める。温かい。


 新鮮な下着を纏う。今日は曇り。この調子じゃあいつも腐るのが長引くだろう。


「さすがに誰もいないかな」

 支度をして自習室へ向かう。西門は閉ざされている。早すぎだ。南方の脇道から歩いて、大きな墓場のような二つの塔を横切れば、雨に濡れて色を増した庭が広がる。頭上の葉末から雫が落ちる。人気のない空間、遠くで響く自動車の音。水のピアニッシモ。張り付くような湿気。アマガエルが張り付いた硝子。城が見える。外装にして中身は質素な学生寮である。上層はかつて、ホールとしてイベント利用されていたらしいが、いまは出入り禁止となっているという。一階は自習室となっており、寮暮らしでなくとも使える。カードを読み込ませて城の敷地に入る。早くも明かりの灯る部屋も散見される。二階にはトレーニングルームもあり、いつか行ってみたいものだ。


「学習のプロが揃っているな、壁の住人だろうか」

 膨大な学生数を誇るセークエンスでは試験の順位が一応公開されている。同意を得られた生徒のみ一定順位を出している。上位と下位の順位はある程度固定されており、上位1%と0.1%はほとんど不動のため、“壁”と評されている。そろそろ1%を破りたい。しかし、積み重ねが別格で、やはりおのれを克己することが主軸において、展望に則って体系的な学習をするだけで良いと考えてしまう。課外活動に参加していない分、時間有利ではあるのだからもっと行けるだろという自尊心が余計だ。そもそも順位など結果でしかなく本質ではないのだ。首位を取ることは言語として便利だが、それはわたしより相応しい人間がいるはずだ。


「しまった、教材を忘れてしまった」


 仕方ないので書籍を開き、耽読する。とても静かな環境で、心地が良い。騒音をマスキングするためのイヤホンも不要だ。深い思考が大樹の根が如く、根差していく。葡萄の幹がミネラルを吸い上げるように、神経細胞に伝達物質が流れていく。それは広がる赤い池のように。そして、ジョアンナの立体的な瞳を彩る睫毛のように。時計の針がIの形になる。そろそろ人が増える時機だ。

 帰路につくころ雲の渦からわずかに差し込む太陽が、生き延びた生命を祝福していた。山の方向に虹が橋をかけていた。夢幻に交差する光と水。無差別に世界を見下ろす太陽。我らが主人公は足を止め、眼球に光の残像を刻み付ける。やがて、人は決して太陽にはなれないのだと悟る。すべては消えていくのだから。それでも。太陽に成れずとも、せめて選んだ人にとっての光でありたい。


 灰色の墓場に熱が渦巻き始める。狭くなった天へと風が吹きあがる。光を取り戻した世界に営みが顔を出す。そして、息を潜めた闇はいつまでも離れることはない。


 高層雲に都市が閉ざされたころ、青年は静寂の向こう側へと紛れていた。


 道は依然として色を濃くしたままで。

かつてなく恵まれた世代、それだけ愚かになることを許されてしまった代償は時代の輪廻を描くことだ。

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