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極彩色の露

飽くなき欲望もいつかは滅びる。

 オナニー?


 オナニーとはいったい何なのか。調べてみる。


 自身の性器を刺激してオーガズムを得る行為。


 なるほど、よくわからない。関連する言語をみる。

 マスターベーション……昔に習った言葉だが実感が沸かない。第二次性徴期を迎えた人の多くがやっているという。エルフィアでは特に多いだと!?


 添付されたファイルを開くと中身は男女の性交動画であった。教室で再生するもんじゃない。


 流れかけた喘ぎ声を電源ごと遮断する。あのやろう、悪趣味なものを。


 隣の席から目線を感じる。曖昧に笑う。誤魔化せたか?


 電源を落として学習に集中する。数学に必要なのは判別と集中力だ。しかしどうだろう、弁論のような速さで授業を進めるサイコパスじみた教師に疲弊する凡人、思うがままに爆速で自習をする学習モンスター。眠りの森のサルよりは美女。まったく美しくない空間だ。帰って自習したい。

 こちらからすれば、すでに解ききった問題を答え合わせをするだけの退屈な予定調和の時間。呆けてしまいそうな点数取りゲームのレール。必死に書き写す生徒。しかし、点数を取るために美しいノートなど必要はない。思考さえできればいい。思考力に不可欠なのは知識の体系化であり、その完成度は適切な頻度で充分な問題量を頭をこねくり回したのかに依存する。だが、それすらも所詮は箱庭の問題を解くだけの児戯であり、なお、わたしの美しさを証明できない理論など、実用の奴隷でしかーー


 オ


 ナ


 ニー


 ーーーー!!


 オナニーの響きが妙に脳に馴染むもので、頭から離れない。

 オイラーがオナニーに見えるっておかしいだろ。


 複素数平面……ガウス、サイン、コサイン、シコイン、シコ……?虚数、実数。性欲の数式に於いて、性欲のつよさεの関数はホルモンバランスhと性欲を想起させる事象への感度a、受容体各チャネルの感度bとしよう。期待するオーガズムに抗う精神力、すなわち大脳前頭葉における制御を司る判断力をσとして…………違うな。この思考は間違えている。シコ……やめだやめ。怒りや欲情といった美しくない感情は混ぜてはいけない。つまり、オナニーを考えることを否定してはいけない。受け入れてから、排するべきか考えるのだ。


『え、おまえシコってないの?』

 ゲオルグ!マスターベーションなんて美しくはない!セックスは新たな命を生む最高の行為だ。それは認めよう。だが、マスターベーション、否。オナニーよ、貴様はよくない。オナニーはいわば生殖本能が導きだしたセカンドプラン、いや、それにもなりえない。美しい生命の繁栄を考えた時、オナニーというやつはーー


『いや、オナニーは必要だ。性機能の維持になるからな』

 アーロン!きみまで、性欲の向こう側へいったのか。


『……ええ、無理……オナニーしないとか』

 ジョアンナ!我が姫はそんなことをいわない。見当違いも甚だしいぞ!


 息も絶え絶えのホイッスラーの顔面は蒼白になっていた。

「はあ、はあ」

「大丈夫かい?ホイッスラーさん」

 普段は時間いっぱい教鞭を止めない教師も珍しく声をかける。


「すこし、し。いえ、休んできてもよろしいでしょうか……」

 ちょうどいい。思考をリセットするには散歩が最高だ。邪魔にならないように後ろを通り、廊下に出る。誰もいない空間がありがたい。


 男性トイレに入ると先客が便意と格闘しているようだった。


 隣の個室に入る。彼は衣服も脱がずに頭を抱えて座った。静けさのなかで隣から小刻みに漏れる吐息が聞こえる。思わず身を固めるホイッスラー。


!?


 相当な関門でせき止められているのだろうか……季節の変わり目も近いし、体調を崩しやすい人なのだろう。可哀そうに。


「うっ、ふぅ」

 お、ひねり出せそうか……いや静かだな。そういや、同居していた叔父さんも切痔でよく悶えていたなあ……


 過去に思いをはせるホイッスラー。隣の個室から水を流す音がする。カチャカチャとベルトを直す音。結局、出なかったのだろう。あれだけ格闘しておいて、そんなこともある。


「……」

 妙に臭うな。低温やけどにならぬよう、はやく済ませよう。


「ふーっ、まじ寝みい」

 だれかが入ってきた。出るのがなんとなく気まずい。


「なんかイカ臭くね」

 イカ?昼からツマミを食べるなんて渋い人いるのか?


「だれかシコってたのかな。ククク」

 点と点が繋がる。まさか。まさか彼はオナニーを!?ここで!?


「……」

 手を洗いに出たいがあらぬ誤解をされるわけにもいかないので、息を殺し潜む。


「あー、授業だりい」

 バシャバシャ手を洗う音が静かになるのを待つ。


「まさかここがオナニースポットだったとは……」

 手を洗うホイッスラー。やはり隣の方から臭っていた。しばらく、あそこはもう使いたくないかもしれない。石鹸で嗅覚を上書きする。シャボン玉が鏡に当たり、虹の紋様を描いていた。ふと、洗面台の下をみているとゴミ箱から例の臭いがしたので、あわてて扉から出た。すると別の教室に入るところだった男子生徒と目が合った。大丈夫だよな?ハンカチを折りたたんでポケットにしまう。


 教室に戻る。皆から受ける視線がさっきの男子生徒の目と重なる。彼が変な妄想をしなければいいのだが。


 数学の授業が終わり、廊下に出て女子生徒たちと話していると先ほどの男子生徒とすれ違う。

 ボソッと話す言葉を幸か不幸か耳に入ってしまう。

「いや、彼に限ってトイレでオナニーなんて」

 否定したくなるが、逆効果になると判断して、談笑を続けた。幸い、女子たちは会話に夢中で周囲に気が向いていない。ゲオルグからメッセージが届く。脈絡もなくあんなものを送るなんて。


ゲオルグ:どう?アレ観た?よかっただろ。


                              趣味じゃなかった。:ホイッスラー


 この子らは自慰行為をするのだろうか。信頼できる女子に聞きたいものだ。そしてジョアンナはどうなのだろう。あの死の香りがする令嬢がするとは思えないが、ただの願望でしかないと気付く。なにも知らないのだ。こんなに好きなのに。

 話していると廊下の奥から珍しく別学年の教師が姿をみせた。たまたま近くにきたので挨拶をする。花屋さんみたいな香りが広がる。実にフレグランス。


「ミューズ先生、こんにちは」

「あら、今日も眩しいわねホイッスラーさん」


 彼女は1学年の若き学年主任だ。かなりのエリート出身らしいが、華のある美人と親しみやすい雰囲気で男女を問わず人気だ。ただし、ホイッスラーにとって、妙齢の女性というのは個人的には苦手意識があった。それでも、個々人の善性を知る限り、分け隔てなく敬意をもち付き合うようにしていた。

 彼女が歩きながら談笑するのはジョアンナだ。ホイッスラーは思わず目を惹かれる。

 なぜ、ミューズ先生と一緒に居るのだろう。顔を凝視するのは良い癖ではないが、視界に入ると吸い込まれてしまう。天然モノのオートフォーカスレンズだ。相変わらず何を考えているかわからない表情だが、ときおり見せる諦観や死希の影はなかった。彼のなかで失望と安心が入り混じる。


「ジョアンナさんも元気していた?」

「うん」

 内向的性格を理解したうえで、反応の硬さを読み取れる。前回の雪辱を挽回しなければと引き締める。

「いい図書館をみつけたから、ぜひ次の休みで一緒に……」

 アドリブで誘い文句を考えていると、前方から猪突猛進の女子生徒が突っ込んできた。

「ミューーーズせんせーい!」

 背後から先生の腰に抱き着く女子生徒。わたしたちを横でみていたミューズ先生がわたしに衝突する。まるで人間ビリヤードだ。質量保存の法則がすごい。左腕に母なる柔らかさが伝わる。顔が近く、なんともいえない空気が流れる。ミューズ先生はスカートの埃を掃いつつ、立ち上がる。冷静な表情に大人の余裕を感じる。ひとまず壁に当たってケガなどなくてよかった。

「ちょっと、元気すぎるわよ。滅茶苦茶じゃない」

 ミューズに叱られて萎縮する女子。

「ホイッスラーくん耳赤くない?」

 足が痛く、もたれかかったままでいると、後ろの女子生徒に揶揄われる。動揺して、顔を右に向けるとジョアンナの綺麗な足が近かったので、あわてて顔を戻した。美しい皮膚だった。彼女の太ももに棲む微生物は頂点に座する。転生したら、そうなりたい。

「あー!まさかジョアンナさんのパンツ覗こうとしている?」

 鉄砲玉系女子からの視覚外攻撃に意表を突かれるホイッスラーは声が上ずる。鶏のように。

「ええっ、そんな!」

 あわてて立ち上がる。

「あはは、ジョアンナさん。違うからね。ははは」

 動揺し、ジョアンナの方へ向くと一歩下がった彼女が目を背ける。桃色の頬には恥じらいと非難が滲んでいた。

「……変態」

 ホイッスラーの背筋は電流を受けたように伸びて、彼の神経がスパークした。感動か失望によるものなのか、涙腺が潤うのを必死に堪えようとする。あるいは、恍惚かもしれない。

「あら、こんな時間。先生は授業の用意があるからいくわね」

 腕時計をみたミューズ先生は足早に去っていった。ジョアンナも駆け足で教室へ戻る。鉄砲玉系女子に文句を言おうと思ったが、すでに引っ込んでいた。

「ほら、戻るよホイちゃん」

 級友女子の小さな手に腕を引かれる。しまった!デートチャンスを逃した。

「ああ、さっきは大丈夫だったかな?ごめんね、重かったでしょ」

「全然ラッキーかなあ………あ、男子ならもっと食べたほうが良いよ~」

 ホイッスラーは笑顔で頷きながら、スカートの短さについて考えていた。


 その後、彼は膨れ上がる煩悩をよそに、学習を進めた。いい感じにお腹も消化されて、集中力を維持できたのは喜ばしいが、やたら元気な分身に困惑した。

 元々、自制心の強い彼は年相応の性欲をうまく抑えていたものの、ストレスが続けばこうなりやすいと経験則で知っていた。彼の家で受けた教育方針により、性的コンテンツへの接触が禁じられていた彼は、ある種の潔癖ともいえる忌避感を抱いており、オナニーを性への堕落と捉えてしまっていた。あるべき形としてのセックスさえも周囲の関係や個人の人生を壊しかねないとして遠ざけていた。結果として、彼はひたすらに絵を描くか、あるいは学習を重ねることで欲望の力をなんとか誤魔化すようになっていたのだ。しかし、魔王ゲオルグが率いるオナニー界隈の汚染、あるいは常識をインストールしたホイッスラーには新たな選択が生まれた。

 どうすれば、姫を性欲の目でみずに済むのか?そうだ。オナニーをしよう。


 オナニーの型を調べてみる。立てた教科書の裏で余計なことをする行為に背徳を感じる。

 オカズ……?触媒が必要な人とそうではない人がいるらしい。オカズがあった方がなんとなく上手くいきそうだ。なるほど、献立を立てるようなものだ。ひとり合点がいく。さすがに此処で行うわけにはいかない。夜に決行しよう。触媒選びはオナニーの質を決めるらしい。なんとか、夜までに選定しよう。


ゲオルグ:よし。これならどうだ?


 違うぞ、ゲオルグ。わたしは性依存になりたいわけじゃないんだ。他者の性交を除こうとも思わない。それは神秘性を帯びた美しいものであるべきだ。自分だけのきわめて適切な自慰行為こそ目指す形なんだ。


           ありがとう。でも、オカズとやらは自分で捕まえてみせるよ。:ホイッスラー


ゲオルグ:!?大爆笑するからやめろ。



「うん、オナニーを理解すると他人も異なった視点で観れるようになった気がする。これで自己をコントロールし、さらに磨くことができれば、あのように姫を失望させることはあるまい。ふふふ」

 ホイッスラーは茸狩りを愉しむように、性の連想に耽った。尤も、狩られるのは彼のキノコだ。ひと言もインプットできていない地理学の講義が佳境に入るころ、彼の活火山は勢いを増し、煩悩の火砕流が思考を温めた。彼の環太平洋造山帯が猛々しく隆起していることは教室のだれもも認識していなかった。彼は密やかな性の奔流に心が洗われるような気持ちで板書の火山を眺めていた。

 放課後が近い。

ラッキースケベは準備を怠らないものにしかやってこない。

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