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函の嶺風、永遠のタスキ

作者: カズ
掲載日:2026/01/06

 箱根の山裾、早川のせせらぎが冷たく響く一月二日。  かつて「天下の険」と謳われたこの場所には、独特の静寂が満ちていた。

 函嶺洞門かんれいどうもん。  中国の王宮を思わせる重厚なコンクリートのアーチは、いまや苔むし、ひっそりと余生を送っている。かつては国道一号線の要所であり、正月の二日間だけは、日本で最も熱い風が吹き抜ける場所だった。

「……今年も、来ないのかねえ」

 洞門の第三アーチ、そのまた上の薄暗い天井の隅で、ぼんやりとした影が溜息をついた。  彼は、ここに住み着いて長い地縛霊である。  地縛霊といっても、誰かを祟るわけではない。彼はただ、ここを駆け抜ける若者たちが好きだったのだ。限界まで張り詰めた筋肉、荒い息遣い、そして何よりも、彼らが必死に繋ごうとする「タスキ」に宿る執念のような熱量が、寒くて暗い洞門をパッと照らしてくれるのが大好きだった。

 しかし、二〇一四年。  老朽化のためにコースは変更され、ランナーたちはすぐ横に架けられた新しい橋、「函嶺洞門バイパス」を走るようになってしまった。

 それからというもの、彼は毎年一月二日が来るたびに、柱の陰からじっと川向こうを眺めては、しょんぼりと肩を落としている。 「あっちの橋は広くて綺麗だし、走りやすそうだけどさ。こっちの『ゴォォッ』って反響する足音が、迫力あって良かったのになあ」

 遠くから、微かにブラスバンドの応援や、観衆の声援が聞こえてくる。それが余計に寂しさを募らせた。もう、あの熱い風が自分の身体(といっても透けているが)を突き抜けることはない。

 彼は膝を抱え、洞門の入り口にある通行止めの柵を見つめた。  その時だった。

 ザッ、ザッ、とゆっくりした足音が近づいてくる。  観光客だろうか。いや、今は駅伝の真っ最中で、人はみなバイパスの方へ行っているはずだ。

 現れたのは、一人の小柄な老人だった。  白髪交じりの頭に、年季の入ったウィンドブレーカー。手には杖をついているが、そのふくらはぎの筋肉の付き方は、ただの散歩好きの老人とは違って見えた。

「……ふう」

 老人は洞門の入り口、立ち入り禁止の柵の前で足を止めた。  そして、懐かしそうに、慈しむように、苔むしたアーチを見上げた。

「ここも、静かになったもんだ」

 老人の呟きが、ドーム型の天井に反響する。霊である彼は、思わず身を乗り出した。 (おじいさん、ここを知ってるのかい?)

 老人はゆっくりとポケットから何かを取り出した。それは、古びた紫色のハチマキのように見えた。彼はそれをキュッと握りしめると、洞門に向かって深々と頭を下げ、手を合わせた。

「五十年ぶりだ。……あの時は、ここが地獄の入り口に見えたよ」

 老人が独り言ちる。 「五区、山登り。タスキを受けた時点でトップと三分差。監督には『函嶺洞門までは抑えていけ』と言われていたのに、俺は若かったから、最初から突っ込んだんだ」

 霊は瞬きをした。五十年、というと、まだ自分が「ただの場所の記憶」だった頃か、それとも自我を持ち始めた頃か。

「この中に入った瞬間、足音が反響してね。自分の息遣いがやけに大きく聞こえて、急に孤独になった。……苦しくて、足が鉛みたいで。もう駄目だ、歩きたい、と思ったのが、ちょうどこの柱のあたりだ」

 老人が指さしたのは、まさに今、霊が隠れている第三アーチの柱だった。  霊は驚いて目を見開く。

(ああ、覚えてるよ! 確かあの時、ふらっと倒れそうになった選手だ!)

 そうだ。あの時、あまりに苦しそうな顔をしていたから、少しだけ背中を押してあげようかと思って、風を起こしたのだ。いや、むしろ驚かせてしまったかもしれないが。

「その時だよ。不思議な風が吹いてね」  老人は目を細めて笑った。 「洞門の奥から、冷たくて気持ちのいい風が背中を押してくれたような気がしたんだ。『まだ行けるぞ』って、誰かに言われた気がしてね。そこから俺は、また走り出せた」

 霊の胸(のような部分)が、カッと熱くなった。  見ていた。覚えている。あの時の若者は、風を受けた瞬間、鬼のような形相になって再び腕を振り、この暗いトンネルを矢のように駆け抜けていったのだ。

「おかげで区間賞は取れなかったが、シード権は守れた。……ありがとうよ。俺の青春は、ここに置いてある」

 老人はそう言うと、持っていた杖を脇に抱え、背筋をピンと伸ばした。  そして、ゆっくりと、しかし力強く、その場で腕を振り始めた。

 一歩、二歩。  その場での足踏みだが、そのフォームは美しかった。  老人の目には、五十年前の景色が見えているのだろう。壁のシミも、薄暗い照明も、反響する荒い息遣いも。

(……走ってる)

 霊はたまらなくなって、柱の影から飛び出した。  老人の横に並ぶ。  もちろん、老人には見えない。けれど、霊は老人の呼吸に合わせ、一緒にその場で腕を振った。

 イチ、ニ。イチ、ニ。

 かつてのランナーと、かつてのコースの記憶。  二つの魂がシンクロして、洞門の中に幻の風が巻き起こる。  あの熱気だ。一月二日の、あの焦げるような情熱の匂いだ。

 ひとしきり「走った」あと、老人は満足そうに息を吐き、再び深く一礼した。

「じゃあ、行くよ。後輩たちが、新しい道を走ってるからな。応援してやらないと」

 老人は踵を返し、ゆっくりと歩き出した。  その背中が小さくなるまで、霊は見送った。寂しさは、もうなかった。

「……そっか」

 霊は、自分の透けた手を見つめた。  コースが変わっても、橋が変わっても。  かつてここで生まれたドラマや、流された汗の記憶は消えない。こうして誰かが思い出してくれる限り、自分はこの場所で、あの熱い風を感じ続けることができるのだ。

「おい、若いの! 頑張れよー!」

 遠くのバイパスから、先ほどの老人の元気な声援が聞こえてきた気がした。

 洞門の霊は、にっこりと笑った。  そして、バイパスの方角に向かって、大きく手を振った。

「がんばれー! 箱根の山は、これからだぞー!」

 その声は誰にも届かないけれど。  函嶺洞門を吹き抜けた一陣の風が、ヒュウと音を立てて、バイパスを走るランナーの背中を、優しく押していった。


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