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第9話

 戦闘が終わったあとだった。


 第五部隊の撤収は静かで、どこにも無理がなかった。前も後ろも崩れず、最後まで形を保ったまま引いている。負傷者は出たが、想定内だ。報告も滞りなく終わった。


 ――問題は、ない。


 そう判断していいはずだった。


 なのに。


 セレナは、足を止めた。


 立ち止まる理由はなかった。

 次の配置を考える流れも、頭の中にはもうできている。


 それでも、身体が動かなかった。


 胸の奥に、ふっと何かが触れた。


 痛みじゃない。

 怖さとも、違う。


 薄くて、理由のない、不安。


「……あれ?」


 小さく呟いて、セレナは眉を寄せた。


 こんなの、久しぶりだった。


 前線に立つようになってから、

 不安は「処理するもの」だった。

 感じた瞬間に、判断で切る。考えない。


 でも、今のこれは違う。


 処理する前に、残っている。


 背後から、紙を揃える音がした。


 聞き慣れた音。

 規則的で、余計な動きがない。


 レオンだ。


 振り返らなくても分かる。

 半歩後ろ。少し高い位置。


 ――いる。


 その事実が、なぜか胸をざわつかせた。


 いる、って……いつまで?


 思った瞬間、心臓が一拍遅れた。


 今まで、考えたことがなかった問いだ。

 だって、戦場では“在るか無いか”しかない。


 戻ってくる。

 配置される。

 終わったら、いなくなる。


 それが普通だった。


 なのに。


 今回だけ、分からない。


 撤収の指示も出ていない。

 次の配置の話も、まだだ。


 “いつもの流れ”が、どこにも書いてない。


 セレナは、無意識に半歩だけ近づいていた。

 確認するためじゃない。

 ただ、距離を詰めたかった。


「……レオン」


 名前を呼んでから、少し間が空く。


「はい」


 すぐに返る声。

 落ち着いていて、変わらない。


 それが、逆に不安だった。


 セレナは、一度息を吸ってから、言った。


「……あんた」


 言葉を選んでいるつもりはなかった。

 でも、自然と慎重になる。


「これってさ」


 一拍。


「一時的に、戻ってきただけなの?」


 聞いてしまった。


 理由も、理屈も整っていない。

 ただ、確認しないと前に進めない感覚があった。


 紙を押さえていた音が、止まった。


 ほんの一瞬だった。

 けれど、その一拍が、やけに長く感じられた。


 レオンは書類を重ね、脇に置いた。

 動きは静かで、無駄がない。


 前にも出ない。

 下がりもしない。


 いつもの位置。

 セレナの半歩後ろ。


「いいえ」


 即答だった。


「一時的ではありません」


 声は落ち着いている。

 変わらない。


 だからこそ、はっきりと届いた。


「第五部隊所属として、正式に戻ってきました」


 制度の言葉だった。

 逃げ道を含まない言い方。


 セレナの胸の奥で、何かが音を立てて外れる。


「英雄最高医として、配置されています」


 一拍。


「恒常的な所属です」


 それ以上、説明はしなかった。

 補足も、言い換えもない。


 必要な言葉は、もう全部出ていた。


 セレナは、しばらく黙っていた。


 頭で理解するより先に、

 身体のほうが反応していた。


 肩が、わずかに下がる。

 呼吸が、自然になる。


「……そっか」


 小さく、そう言った。


 確認するみたいな声だった。


「じゃあさ」


 一拍。


「ちゃんと、戻ってきたってことなのよね」


 念押しでも、不安でもない。

 ただ、置き直すための言葉。


「はい」


 レオンは、迷いなく答えた。


「戻っています」


 それだけだった。


 セレナは、ふっと息を吐いた。

 深呼吸じゃない。


 溜めていたものを、外に出すみたいに。


「……なんだ」


 小さく笑う。


「もっと構えた返事くるかと思ってた」


 レオンは首を振らない。

 肯定もしない。


「事実ですので」


 淡々とした返事。


 それが、少し可笑しかった。


「昔もさ」


 セレナは視線を外し、鎧の留め具に触れながら言った。


「こうだったよね」


 一拍。


「前に出る私と、後ろにいるあんた」


「はい」


「役割、全然変わってない」


 言ってから、少しだけ考える。


 ああ、と。


 戻ったんじゃない。

 続いてただけなんだ。


 そう思った瞬間、胸の奥が静かになる。


「……王都にいた頃とさ」


 何気ない調子で続ける。


「空気は違うけど、立ち位置は同じって感じ」


「環境が異なりますから」


「それはそうなんだけどね」


 セレナは、手袋を外して指を軽く振った。


「でも、ちゃんと後ろにいるって分かってると」


 一拍。


「前、出やすい」


 言い切りだった。


 照れも、言い訳もない。


 レオンは、それを評価しない。

 感想も言わない。


「前線は、安定していました」


 事実だけを置く。


 セレナは、うなずいた。


「でしょ」


 それで、この話は終わった。


 続きを探す必要はなかった。

 深く掘る理由もない。


 ただ、二人がそこにいる。



「……三年、だったな」


 セレナは、鎧の留め具に指をかけたまま言った。

 外すでもなく、止めるでもなく。


「長かったなーって思うし」


 一拍。


「正直さ」


 視線を落としたまま、続ける。


「きつかった」


 弱音みたいな言い方じゃない。

 確認に近い声だった。


「でもね」


 そこで、ほんの少しだけ言葉を選ぶ。


「私、ずっと思ってたの」


 レオンは口を挟まない。

 紙を揃える音も、もうしない。


「……あんたが戻ってきたときにさ」


 一拍。


「恥ずかしくないようにしなきゃ、って」


 言ってから、自分で少し苦笑した。


「変でしょ」


 でも、否定しない。


「前に立って、判断して」


「誰かが死なないようにして」


「正しいって言われる選択を積み重ねて」


 指先が、留め具から離れる。


「ちゃんとやれてる私で、戻ってきてほしかった」


 声は静かだ。


「弱ってるとこ見せたくなかったし」


「迷ってるとこも、止まってるとこも」


 一拍。


「……知られたくなかった」


 レオンは、何も言わない。


「だからさ」


 セレナは、ゆっくり息を吐いた。


「頑張ってきたんだと思う」


 胸を張るでもなく、

 誇るでもなく。


「ちゃんと、前に立って」


「ちゃんと、判断して」


「ちゃんと、壊れないようにして」


 そこで、言葉が止まる。


 少しだけ間が空く。


「……でもさ」


 声が、ほんのわずか低くなる。


「今、考えると」


 一拍。


「それが地獄だったんだよね」


 言い切った。


 誰かを責める調子じゃない。

 自分を責めてもいない。


「戻ってくるかも分からない人のために」


「未来のこと、全部賭けて」


「逃げない自分でいようとするの」


 視線を上げる。


「地獄だったな、って」


 レオンは、ゆっくりと書類を揃え終えた。


「……そうですね」


 短く、静かに言う。


 否定もしない。

 慰めもしない。


「ですが」


 一拍。


「その地獄があったからこそ」


 言葉を選ぶ。


「今の第五部隊が、成立しています」


 評価ではない。

 事実の整理だ。


 セレナは、少しだけ笑った。


「だよね」


 軽い声。


「無駄じゃなかったって思えるなら」


 一拍。


「まあ、悪くない地獄だったかな」


 冗談みたいな言い方だった。


 でも、その奥に、確かな疲労がある。


 レオンは、視線を落としたまま言う。


「恥ずかしくありません」


 それだけだった。


 余計な言葉は足さない。


 セレナは、一瞬きょとんとしてから、

 ふっと息を吐いた。


「……ありがと」


 小さく言う。



 ―――セレナの言葉が落ちて、少しだけ静かになった。


 レオンは、しばらく何も言わなかった。

 書類をまとめ直すでもなく、視線を逸らすでもない。


 ただ、手を止めていた。


「……私のほうも」


 低く、一定の声で言う。


「地獄でした」


 言い切りだった。


 感情は乗せない。

 でも、曖昧にもならない。


「書類ばかりでした」


 机の端に揃えられた紙の束に、視線を落とす。


「制度、規定、調整、承認」


 一つずつ、淡々と。


「現場からは、どんどん離れていきました」


 声の調子は変わらない。


「役職が上がるほど」


 一拍。


「前線が、遠くなります」


 セレナは、何も言わずに聞いている。


「判断は増えました」


「責任も増えました」


「ですが」


 ほんのわずか、間を置く。


「自分が何をしているのか、分からなくなる時間も増えました」


 否定でも、後悔でもない。

 ただの事実だ。


「最年少で英雄最高医になった結果」


 言葉を続ける。


「妬みも、敵意も、想定以上でした」


 具体的には語らない。

 それで十分だった。


「露骨な妨害もありましたし」


「無視されることもありました」


 一拍。


「制度上は正しくても」


「人として、正しく扱われないこともありました」


 セレナの指が、わずかに動く。


 レオンは、それを見ない。


「それでも」


 続ける。


「あなたが前線で、踏ん張っていると聞いていました」


 声が、ほんの少しだけ低くなる。


「判断を引き受け」


「部隊を成立させている、と」


 評価の言葉ではない。

 事実の共有だ。


「それを考えると」


 一拍。


「息を止めたままでも、続けられました」


 セレナは、顔を上げない。


「正直に言えば」


 レオンは、初めて言葉を選ぶように間を置いた。


「死にたいと考えたことも、あります」


 淡々とした声。


 重い言葉なのに、叫びはない。


「理由は単純でした」


「出口が、見えなかったからです」


 説明は、それ以上しない。


「ですが」


 言葉を続ける。


「前線で、あなたが立っていると考えると」


 一拍。


「少なくとも、自分だけが地獄にいるわけではないと分かりました」


 それは、救いでも美談でもない。


 ただ、呼吸を続けるための現実だった。


「それで」


 レオンは、書類を静かに揃え直す。


「なんとか、今日まで来ています」


 セレナは、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく言う。


「……似たようなこと、してたんだね」


 責める声じゃない。


「互いに、見えないとこで」


 一拍。


「息、止めながら」


 レオンは、否定しない。


「はい」


 短く答える。


 セレナは、ゆっくりと息を吐いた。


 深呼吸じゃない。

 止めていたものを、少しだけ緩めるみたいに。


「じゃあさ」


 顔を上げずに言う。


「今は、止めなくていいってことでしょ」


 問いじゃない。


 確認だ。


「はい」


 レオンは、静かに答えた。


「今は、呼吸が可能です」


 それだけだった。


 世界は、相変わらず重い。

 制度も、責任も、消えない。


 ―――しばらく、何も言わない時間があった。


 セレナは、先に口を開いた。


「……ありがとう」


 照れも、飾りもない声だった。


 レオンは、少しだけ姿勢を正す。


「ありがとうございます」


 いつもの敬語。

 でも、今日はそれでちょうどいい。


 セレナは、小さく息を吐いてから、少しだけ笑う。


「これからさ」


 一拍。


「息、しやすくなるのが逆に不安なんだけど」


 冗談めいた口調。


「甘えすぎたら、どうしよって」


 レオンは、否定しない。


「必要な範囲であれば、問題ありません」


 淡々とした返事。


 セレナは、くすっと笑った。


「じゃあさ」


 一拍。


「存分に、甘えさせてもらうね」


 レオンは、少し間を置いて答える。


「はい。承知しました」


 それだけだった。


 世界は、相変わらず重い。

 地獄も、消えていない。


 それでも。


 呼吸しながら立てる場所が、ここにはあった。


 今日は、それで十分だった。

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