第8話 戦場
戦闘が始まった。
敵の第一波は予想より早かった。前線に立つ第五部隊へ、まとまった数が一気に流れ込んでくる。
セレナは一歩前に出る。
視界が澄んでいた。
敵の動きが分かる。味方の位置が把握できる。これまでなら、ここで一度、呼吸を深くしていた。無理をする準備だ。
だが、今回は違った。
「前、出すぎるな」
背後から、落ち着いた声が届く。
レオンだ。
セレナは足を止めない。止める必要がない。声が届く距離に、後ろがいると分かっている。
「中央、増やします」
同時に、身体が軽くなる。
力が湧く感覚ではない。余計な重さが抜ける。剣の振りが速くなる。踏み込みが浅くならない。
増強魔法だ。
しかも、過剰ではない。戦い続けられる強さだけが、正確に乗せられている。
「左、負傷二。まだ行けます」
レオンの声は淡々としている。戦況を数で捉えている。感情が入らない。その分、判断が早い。
セレナは頷く。
「左、持たせる。中央で押す」
命令が通る。
前が動く。後ろが合わせる。
敵の動きが鈍る。
セレナは気づいた。
焦りがない。
何かあれば、後ろが止めてくれる。致命傷になる前で、必ず止めてくれる。その確信が、判断を鈍らせない。
「右、下がりすぎです」
「了解」
レオンの声に、隊員が即座に応じる。指示が多くない。だが、必要なところにだけ、確実に入る。
治癒魔法が広がっているのが分かる。
派手ではない。光も強くない。だが、刃を受けたはずの兵が、次の瞬間には持ち直している。
死なない戦場だ。
セレナは歯を食いしばった。
こんな戦い方を、どれだけ待っていたのか。
「……前、もう一歩出る」
「問題ありません」
即答だった。
その声を背に、セレナは踏み込む。
今回は、無茶ではない。
勝ちに行く一歩だ。
「増強魔法、慣れてきたと思います」
後ろから届くレオンの声は、相変わらず落ち着いていた。
戦場の音に紛れても、はっきり聞こえる。必要な言葉だけが選ばれている。
「もう一段、強めます」
セレナは一瞬だけ目を伏せた。
身体の状態を確かめる。息は乱れていない。剣の重さも感じない。足取りも安定している。
「問題ない。やって」
短く返す。
次の瞬間、空気が変わった。
力が湧き上がる感覚ではない。身体の奥にあった限界が、静かに引き上げられる。視界が広がり、敵の動きが遅く見える。
セレナだけではない。
第五部隊全体に、同じ変化が起きていた。
「前、踏み込みが深くなっています」
「重さ、感じません」
「……これ、本当に俺たちか」
隊員たちの声に、焦りはない。驚きだけがある。
誰も無理をしていない。
誰も削れていない。
全員が、英雄級の動きをしている。
レオンは最前線後衛に立ったまま、魔力の流れを調整し続けていた。
増強を強める。
治癒を切らさない。
負荷が集中しそうな場所に、先に声を飛ばす。
「右、三人まとめて来ます。下がらず受けて」
「了解」
指示が出る前に、身体が動く。
刃と刃がぶつかる音が続く。だが、折れない。押し返されない。隊列が崩れない。
セレナは前に出た。
剣を振るたびに、敵が弾き飛ばされる。止まらない。勢いが落ちない。一太刀ごとに、道が開く。
敵の攻撃を受けても、踏みとどまる。
次の瞬間には、もう治っている。
止まらない。
退かない。
ただ、前へ進み続ける。
セレナの華奢な身体が、戦線を押し返していた。
止まらないという一点だけで、
前線そのものになっていた。
「中央、完全に割れました」
レオンの声が響く。
「このまま行けます」
セレナは頷いた。
「第五部隊、押し切る」
声に迷いはない。
敵の陣形が崩れる。逃げ始める者が出る。踏みとどまる者は、次々に倒される。
誰も落ちない。
誰も倒れない。
これが、後ろが成立した戦場だ。
セレナは剣を振りながら、はっきりと実感していた。
自分は一人で戦っていない。
背負っていない。
支えられている。
そして、支えている。
前と後ろが噛み合ったとき、戦場はここまで変わる。
敵が引き始めた。
戦線が、完全に押し返される。
セレナは剣を下ろさない。最後まで前に立つ。だが、胸の奥にあったあの重さは、もうない。
「……次も来る」
「はい」
即答だった。
「問題ありません」
レオンの声は変わらない。
最前線後衛で、すべてを回しながら、それでも余裕があった。
第五部隊は、今日初めて理解した。
英雄が並んで立つとは、こういうことだ。
この戦場は、もう地獄ではない。
勝ち続ける場所になった。
――――――――
【敵視点】
最初は、いつも通りの戦場だと思った。
敵の前線に立つ部隊は、特別に数が多いわけでもない。装備も突出していない。中央を押せば崩れる。そう判断した。
だが、踏み込んだ瞬間から、感覚が狂った。
斬った。
確かに斬った。
手応えもあった。
それでも、倒れない。
致命傷のはずの一撃を受けた兵が、次の瞬間には体勢を立て直している。血は出ている。だが、崩れない。恐怖も混乱も見えない。
「……おかしい」
誰かが叫んだ。
前線の動きが、異様だった。
一人が前に出ると、必ず左右が同時に動く。突出しない。遅れない。全員が同じ距離を保っている。
まるで、全員が同じ命令を同時に受け取っているようだった。
攻めるたびに、先を読まれている。
包囲しようと動いた瞬間、すでに迎撃の位置に兵がいる。数で押そうとすれば、逆に押し返される。
「指揮が早すぎる」
いや、違う。
指揮だけではない。
前に立つ女が、異常だった。
剣を振るたびに、道が開く。
止まらない。
押されても、押し返す。
戦車だ。
一人の英雄が暴れている、という印象ではない。前線そのものが、前に進んでいる。
だが、本当に恐ろしいのは後ろだった。
倒れるはずの兵が倒れない。
削れているはずの部隊が、削れない。
誰かが叫ぶ。
「後ろに何かいるぞ!」
だが、見えない。
派手な魔法は見えない。光も強くない。それなのに、戦場の結果だけが、ありえない形になっていく。
負傷が致命傷にならない。
疲労が限界に達しない。
判断の遅れが生まれない。
「……英雄が一人いる戦いじゃない」
敵の指揮官が、歯を噛みしめる。
「これは、部隊そのものが英雄だ」
撤退命令が出る。
だが、すでに遅い。
退路は塞がれ、押し返され、逃げる余地がない。戦場が、最初から勝つ形に組み上げられていたことに、今さら気づく。
これは奇跡ではない。
偶然でもない。
前と後ろが噛み合った結果だ。
敵は理解した。
この第五部隊は、現実の戦場の理屈で相手にしていい存在ではない。
英雄が並んで立つ戦場に、勝ち目はない。
【敵側・後日談】
あの戦いは、記録に残らなかった。
正確には、残せなかった。
報告書に書ける言葉がなかったからだ。
数が合わない。損耗が説明できない。敗因が特定できない。
勝つはずの戦だった。
条件は揃っていた。
地形も、兵数も、読みも。
それでも、負けた。
最初は英雄が一人いたのだと思われた。
前線を押し潰す女がいた。剣を振るたび、こちらの列が消えた。
だが、それだけでは説明がつかない。
斬っても倒れない兵。
包囲しても崩れない陣。
疲れない判断。
切れない連携。
後ろに何かがいた。
姿は見えなかった。
名前も分からなかった。
ただ、戦場そのものが壊れなかった。
逃げ延びた者たちは、酒場で口を閉ざした。
語ると、笑われると知っていたからだ。
それでも、夜が深くなると、誰かが言う。
あれは人間の戦いじゃない。
英雄が一人いる戦場じゃない。
英雄が並んで立っていた。
前に立つ者が、すべてを押し返し。
後ろに立つ者が、すべてを成立させていた。
名は、後から知った。
第五部隊。
そして、英雄最高医。
その名を聞いたとき、誰もが納得した。
ああ、だから勝てなかったのだと。
以後、その戦場は避けられるようになった。
命令が出ても、足が止まる。
地図を見ただけで、空気が重くなる。
兵たちは言う。
あそこは、もう戦場じゃない。
英雄が並んで立った場所だ。
勝敗を競う場所ではない。
近づいた者が、現実を失う場所だ。
※あとがき
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