第7話
戦地へ向かう隊列の後方が、やけに騒がしかった。
笑い声が混じっている。肩を叩く音がする。誰かが冗談を言って、周囲が応じている。
セレナには、それが不思議だった。
死ぬ前の覚悟を決めているのだろうか。
それとも、いつも通りを装っているだけなのだろうか。
どちらでもいいはずだった。前に立つ人間が気にすることではない。そう分かっているのに、耳に入る音だけが、頭の奥で反響する。
後ろは大丈夫だ。
百人力だ。
誰かがそう言っていた気がする。
言葉としては聞こえた。意味も理解できる。それでも、内容が胸に落ちない。音だけが流れていく。
不安があることに、セレナは気づいていた。
何年ぶりだろう。
こんな不安は。
戦地はいつも死と隣り合わせだった。それでも、ここまで胸が重くなることはなかった。理由は分かっている。今回は、一人で立つと分かっている場所だからだ。
生きて帰れない。
それでも行かなければ街が滅ぶ。
英雄として選ばれた戦地だ。成果が出ることは分かっている。成果が出る前提で選ばれている。それでも、その成果は自分の命と引き換えだ。
セレナは前を向いたまま、何も言わなかった。
周囲の声が遠のく。
覚悟を決めたつもりだった。
それでも、不安は消えない。
少し離れた後衛用の馬車の中は、静かだった。
薬箱も器具も揺れないよう固定されている。準備は万全だ。今さら確認することは何もない。
それなのに、レオンは落ち着かなかった。
最初に、なんと言おうか。
ただいま、はちゃんと言いたい。
敬語で言うべきだろうか。
いや、それはよそよそしいだろうか。
向こうから抱きついてきたりするだろうか。
また無茶をしたと怒られるだろうか。
考えているうちに、指先が勝手に動いていた。
小さく治癒魔法を灯す。
すぐに消す。
出力を抑え、形だけを保つ。
意味はない。今すぐ使うわけでもない。それでも、もう一度。同じことを繰り返す。
自分がそわそわしているのだと、レオンはようやく気づいた。
落ち着くために、増強魔法に切り替える。
前を強くしすぎない。
後衛として支える程度に留める。
出力を少しずつ変え、感覚だけを確かめる。
訓練というほど立派なものではない。
待ちきれない人間が、手を動かしてしまっているだけだ。
レオンは魔法を引き、膝の上で手を組んだ。
笑いそうになるのを、こらえる。
同じ部隊だ。
同じ戦地だ。
今度は、間に合う。
馬車は進む。
前では、セレナが一人で前を向いている。
後ろでは、レオンがその背中を支える準備を整えている。
救済は、もう揃っている。
ただ、それに気づける人間が、まだ揃っていないだけだった。
―――戦地に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
焦げた匂いがまだ残っている。土は踏み固められ、乾いているのに重い。遠くで金属がぶつかる音がして、それがこの場所の日常だと身体が理解した。
セレナは馬を降り、すぐに指示を出した。
「第五部隊は後衛天蓋の設営を優先してください。準備が整い次第、各隊と連携に入ります」
声は落ち着いていた。疲れも迷いも乗せない。隊員たちは一斉に動き出す。誰も立ち止まらない。セレナの指示があれば、それで十分だった。
セレナは一人で歩き出す。
指揮官への報告が先だ。今の戦況を把握し、戦線の穴を確認し、どこまで耐えられるかを共有する。それが隊長の役割だ。
天蓋の外れを抜け、簡易の指揮所へ向かう。
途中、他部隊の兵とすれ違う。視線が一瞬、セレナに向けられる。英雄を見る目だ。期待と安堵が混じった視線。
それを受け取らないように、セレナは前だけを見る。
報告の場では、地図が広げられていた。赤い印が増えている。削られた村。押し返した地点。持ちこたえている線。
指揮官が顔を上げる。
「第五部隊団長セレナ・ヴァレンティス。到着を確認した」
「到着しました。後衛天蓋の設営は進んでいます」
淡々と答える。声が揺れない。これが自分の仕事だ。
指揮官は短く頷いた。
「正直に言う。ここは厳しい。だが君が来た以上、勝ちは見える」
その言葉に、胸は動かなかった。
勝つことは分かっている。
街は守られる。
それ以上を考える理由は、もうなかった。
地図を見つめながら、セレナは必要な情報だけを拾う。敵の動き。補給の遅れ。負傷者の数。判断材料としての事実だけを頭に入れる。
誰も、生き残れるかどうかの話はしない。
ここでは、それを口にする必要がない。
「第五部隊は中央の崩れかけた線を支えます。前に出ます」
セレナが言うと、指揮官は一瞬だけ視線を伏せた。
「……頼む」
それだけだった。
報告は終わった。確認も済んだ。これ以上、この場にいる意味はない。
セレナは踵を返す。
歩きながら、胸の奥にある感覚を確かめる。
恐怖はない。
迷いもない。
あるのは、静かな重さだけだ。
自分は、ここを終わらせに来た。
それで役目は果たされる。
第五部隊の天蓋が見えてきた。
設営は順調だ。動線も整っている。後衛が機能すれば、前は立てる。頭ではそう理解している。
それでも、足取りは重い。
セレナはまだ知らない。
後ろが、すでに成立していることを。
一人で終わらせなくていいという前提が、もうここにあることを。
集合をかける前に、もう一度だけ息を整えた。
最後まで、役割を果たすために。
セレナは集合の号令をかけた。
隊員たちが並ぶ。
その顔を、一人一人、目に焼き付けようと思った。
これが最後になるかもしれないからだ。
右から順に視線を動かす。
知っている顔。
いつもの顔。
緊張している顔。
覚悟を決めた顔。
そして。
いるはずのない人間が、いた。
セレナの足が止まる。
呼吸が、一瞬だけ乱れた。
幻覚だろうか。
死ぬ前に見るものだろうか。
そんなことを考えながら、ゆっくりと歩いた。走らない。近づく。確かめる。
レオンの胸元に、そっと人差し指を伸ばす。
つつく。
感触があった。
鎧の硬さ。
その下にある体温。
レオンは、きょとんとした顔でセレナを見下ろしていた。
「……どうしましたか」
間の抜けた声だった。
その声を聞いた瞬間、セレナの中で何かが崩れた。
担当医の名前が、読めなかったこと。
涙でにじんでいた文字。
英雄だから、誰かが付くとは聞いていたこと。
全部が、ひとつにつながる。
「……まさか」
声が震える。
「レオン。お前が」
言葉が、そこで詰まった。
レオンは一拍置いて、姿勢を正した。
そして、いつもの穏やかな声で言った。
「ただいま、セレナ」
その瞬間だった。
セレナは、考える前に動いていた。
腕を伸ばし、レオンに抱きつく。力いっぱいだ。鎧越しでも構わない。周囲の目も気にしない。
レオンは驚いたように一瞬固まったが、すぐに静かに受け止めた。
「……お帰りなさい、ではありませんか」
「うるさい」
声が、詰まる。
「……来るなって、思ってた」
「それは困ります」
レオンは少しだけ笑った。
「担当医が不在では、あなたが無茶をしますから」
セレナの肩が震えた。
死にに来たのではない。
一人で背負うために選ばれたのではない。
ここは、本気で立て直して勝つための戦地だ。
レオンがいる。
後ろが成立している。
セレナは顔を上げた。目は赤い。涙も止まっていない。それでも、視界ははっきりしていた。
「……約束どおりだな」
「はい」
レオンは静かに頷く。
「戻ってきました。あなたの担当医として」
セレナは深く息を吸った。
胸の奥に張り付いていた重さが、音を立てて崩れていく。
「……生きて、帰るぞ」
「もちろんです」
レオンはそう言って、少しだけ前に出た。
「そのために、私はここにいます」
隊員たちが、息を呑んでその光景を見ていた。
誰も口を挟まない。
誰も邪魔をしない。
第五部隊は、今この瞬間、本当の意味で揃った。
地獄は、終わりではなかった。
ここからが、反転だ。
簡易指揮所に地図が広げられた。
粗い布の上に石で押さえられた地図には、敵の進行線と味方の配置が書き込まれている。赤く塗られた地点が多い。押されている証拠だ。
第五部隊の主要な面々が集まっていた。
セレナは地図の前に立つ。全員の視線が自然と集まる。言葉を待たせない。
「中央が最も薄い。ここが崩れれば街まで一気に持っていかれる」
指で示す。
「第五部隊はここに入る。前に出る。押し返す」
反論は出ない。誰もが分かっている。ここが地獄だということも、逃げ場がないことも。
そのとき、レオンが一歩前に出た。
「私の配置ですが」
セレナが視線を向ける。
「後衛天蓋には入りません」
場の空気が一瞬だけ止まる。
レオンは落ち着いた声で続けた。
「最前線後衛に立ちます。前が受ける負荷を直接見ながら、増強魔法を最大で回します。同時に治癒魔法も維持します」
指揮官の一人が口を開きかけたが、レオンは視線を逸らさない。
「判断と指示も、私が引き受けます。前衛が戦うための余白を作る。それが一番効率がいい」
理屈は明確だった。危険も分かっている。それでも、迷いはない。
セレナは少しだけ考えた。
そして、短く言った。
「任せた」
それだけだった。
誰も何も言わない。異論も確認もない。第五部隊は、その一言で動ける。
レオンは小さく頷いた。
「では、成立させます」
言葉に力はない。けれど、確信があった。
セレナは地図を畳み、剣に手を置く。
生きて帰ることは考えない。
終わらせるために立つ。
けれど今は、一人ではない。
「第五部隊、配置につけ」
号令が響く。
前が動き、後ろが続く。
戦地が、ようやく戦場になる。
セレナは前を向いた。
後ろが成立している。
それだけで、十分だった。
セレナは深く息を吸った。
胸の奥にあった重さが、もう違う形に変わっているのが分かる。消えたわけではない。だが、押し潰す重さではなく、前に進むための重さだった。
後ろが成立している。
しかも、ただ守る後ろではない。
勝つために押し出してくる後ろだ。
レオンがいる。
それだけで、考えるべきことが変わった。
どう死ぬかではない。
どう勝つか。
どう生き残るか。
選べる。
セレナは剣を握り直した。力は入れすぎない。指先の感覚を確かめる。身体は、まだ戦える。
「第五部隊」
声が、はっきりと戦地に通る。
「これは守る戦いじゃない。取り返す戦いだ」
誰も迷わない。誰も視線を逸らさない。
前が動き、後ろが支える。
判断は一人に集まらない。
無理をする必要もない。
生きて帰るための布陣が、ここにある。
セレナは前を向いた。
今回は、違う。
勝って、帰る。
そのために、英雄は並んで立っている。
第五部隊は、静かに戦場へ踏み出した。




