第62話 お願い
第八部隊は、和気あいあいと帰路についていた。
戦場を離れたあとの歩き方は、誰もが少し軽い。
剣を肩に担ぎ、鎧を鳴らしながら、あちこちで笑い声が上がっている。
「見ただろ、あのときの敵の顔!」
「中央突破、早すぎて意味わかんなかったよな!」
「俺、あとで酒奢ってもらうからな!」
勝ったあとの話は、たいていどうでもいい。
だからこそ、楽しい。
セレナとレオンは、少し離れたところを歩いていた。
立場上、団員たちの空気を壊したくなかった。
それだけの理由だ。
「……快勝だったな」
セレナが言う。
声には、ほんの少しだけ笑いが混じっている。
「ええ。訓練通りに動けましたし」
「中央を任せてもらえた意味も、ちゃんと出せました」
「あなたのせいね」
「副団長」
「それは、団長の指揮がよかったからです」
軽口だった。
いつも通りの、なんでもないやり取り。
「それにしても」
「後衛まで潰しに行く判断、早すぎじゃない?」
「遅れたら、被害が増えると思ったので」
「ほんと、そういうところ……」
セレナは言いかけて、やめた。
代わりに、短く息を吐く。
その瞬間だった。
弓が、しなった。
音はなかった。
気配もなかった。
茂みの影から放たれた一本の矢が、防具の隙間を正確に縫い、レオンの脇腹から胸元へと深く突き刺さる。
衝撃は、遅れてきた。
レオンは、倒れた。
その場で、確信する。
――致命傷だ。
息が、うまく入らない。
肺が、血で満たされていく感覚がある。
「……レオン?」
セレナの声が、近い。
だが、どこか遠い。
意味が、追いつかない。
「なに……?」
「どういうこと……?」
視線が、必死に周囲を探る。
「どこから……?」
「いや……やめて……」
レオンの口が、動いている。
セレナは、反射的に膝をつき、顔を近づけた。
「……ごめん」
「セレナ」
声は、ほとんど空気だった。
「僕……死んじゃいます」
言葉が、落ちる。
セレナの世界が、そこで止まった。
「治癒……!」
「治癒魔法を、かけろ!!」
叫びは、命令だった。
「……魔力が、ありません」
レオンは、そう言った。
そのときだった。
背後から、気配。
茂みを割って現れた残存兵が、躊躇なく剣を突き立てる。
セレナの背中に、深く。
痛みは、なかった。
ただ、力が抜ける。
第八部隊が駆け寄り、残存兵を処理する音が聞こえる。
だが、それはもう、どうでもよかった。
セレナは、レオンの上に落ちた。
音はなかった。
ただ、衝撃だけが遅れて来る。
胸が、つぶれる。
呼吸が、戻らない。
背中の内側で、何かが裂けている。
熱が広がり、同時に、体が冷えていく。
これは――致命傷だ。
頭では、もう理解していた。
体だけが、まだそれを受け入れていない。
「……ねえ……」
声が、自分のものに聞こえなかった。
喉が開かない。空気が入らない。
「……レオン……」
返事はない。
それでも、名前を呼ぶ。
「遺書に……」
吸おうとした息が、咳になる。
肺の奥で、泡立つ音がした。
「……好きだって……」
口角を上げようとする。
顔が、歪むだけだった。
「孤児院の……」
「初恋のときから……」
視界が、細かく割れる。
像が重なって、定まらない。
「ずっと……あなたのこと……」
言葉の途中で、喉が閉じる。
空気が、もう足りない。
「私も……」
「……もう……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……死ぬ」
確認だった。
受容だった。
「……ごめん……」
涙が流れている感覚はある。
でも、顔の筋肉が動かない。
「幸せに……生きてって……」
声が裏返る前に、崩れる。
「……言って……くれたのに……」
沈黙。
その間にも、血が増えている。
レオンの下から、温かいものが広がる。
自分の腹の下にも、同じ感触がある。
「……ねえ……」
返事はない。
「……レオン……」
もう、聞こえていないと分かっている。
それでも、言葉を投げる。
「……キス……してみたい……」
やけに具体的な願いだった。
生きているときには、避け続けてきたこと。
「……最後の……お願い……」
息を吸う。
吸えない。
「……何度も……人生最後って……言ってきたけど……」
喉が、鳴るだけ。
「……これは……本当に……最後……」
レオンの首が、ほんのわずかに動く。
それで、生きていると分かる。
それが、残酷だった。
「あ……」
声が、抜け落ちる。
「……首……」
「……動かない……」
笑おうとして、失敗する。
「……ごめん……」
「……キス……無理かも……」
その瞬間。
レオンの手が、動いた。
骨ばった指が、セレナの後頭部に触れる。
力はない。
それでも、必死だった。
数センチ。
それ以上、上がらない。
唇が、触れる。
柔らかさより先に、味が来る。
血の味。鉄の味。
生温かい。
まだ、生きている。
それだけが、分かる。
それだけで、十分に残酷だった。
涙が、止まらない。
でも、もう拭えない。
「……じゃあ……」
レオンの声は、声にならなかった。
空気が震えただけだ。
「……僕も……」
間。
息をするたび、胸が沈む。
「……人生最後の……お願い……」
言葉が、削れていく。
「……結婚……してください……」
セレナは、答えようとした。
でも、声帯が動かない。
舌も、思うように動かない。
ただ、口が開いた。
それだけだった。
遠くで、第八部隊の叫び声が聞こえる。
誰かが名前を呼んでいる。
でも、それはもう意味を持たない。
音として、遠ざかっていくだけだ。
二人は、重なったまま、動かなくなる。
血は、最後まで止まらなかった。
体温は、確実に奪われていく。
ぬくもりは、共有されたまま、消えていく。
救いは、どこにもなかった。
――勝利の夜は、
あまりにも静かだった。




