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第6話 滲み

 部屋に戻ったセレナは、灯りをつけなかった。


 つける余裕が、なかった。


 勲章を外し、机の上に置く。金属が木に触れる、短い音。式典用の外套を脱ぎ、壁にかける。動作は正確で、無駄がない。拍手も、称賛も、もうここには届かない。


 寝台に腰を下ろした瞬間、身体の奥で張りつめていた糸が、音もなく切れた。


 倒れ込むように横になり、天井を見る。呼吸は整っている。乱れていない。今日も判断は正しかった。前線は保たれた。誰も責めなかった。むしろ、褒められた。


 それでも、目の奥が熱くなる。


 枕に顔を伏せる。声は出さない。式のあと、何度も名前を呼ばれた。そのたびに、笑って、頷いて、立ち続けた。今ここで声を出したら、戻れなくなる気がした。


 肩が、小さく揺れる。


 涙が落ちる。布に吸われる感触だけが、はっきり分かる。拭わない。止めようともしない。ただ、呼吸を保つ。


 ——まだ、立てる。


 そう思わなければならないことには、触れない。


 机の上に、紙がある。


 式の場で渡された書類の束。その一番上にあった、次の戦地への依頼書だ。すでに、ぐしゃぐしゃになっている。折れた跡。波打つ紙。乾ききらない染み。


 インクがにじみ、文字の輪郭が滲んでいる。


 セレナは、視線を向けて、すぐに逸らした。


 読む時間は、あったはずだ。

 読む機会も、あったはずだ。


 だが、式のあとの呼び止め。握手。労いの言葉。次の判断。次の確認。次の「あなたなら」。

 その間に、紙は濡れ、戻され、机に置かれたままになった。


 開かれていないのではない。

 すでに触れられ、濡れて、読む前に置かれただけだ。


 セレナは仰向けになり、天井を見る。


 涙は、いつの間にか止まっている。止まったことが、逆につらい。


 勲章は、机の上で光っていない。灯りがないからだ。

 光らせる気力も、なかった。


 夜は、何も答えない。

―――――――――――――

 同じ夜。


 別の場所で、レオンは机に向かっていた。


 書類の山を前にしても、動きは軽い。順に並べ替え、必要なものと不要なものを分ける。署名欄を確認し、処理済みの印をつける。


 一枚の紙に、目が留まる。


 第五部隊。

 配属。

 担当医。

 後衛。


 レオンは、そこをもう一度見て、息を吐いた。


 ——戻れる。


 同じ部隊に。

 前線に。

 今度は、最初から後ろにいる。


 残りの書類を整える。余計な動きはない。迷いもない。戦地の名を見れば、天蓋の位置が浮かぶ。動線が見える。前が、動ける。


 彼女は、立てる。


 ひとりで背負わせない。


 レオンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 久しぶりに、未来を想像している自分に気づく。


「……ただいま、ですね。」


 小さく呟き、また書類に戻る。


 同じ夜の下で、

 片方は勲章の重さに沈み、

 もう片方は未来を整えている。


 まだ、誰も気づいていない。


 救いが、すでに用意されていることに。


――――――


 その戦地の名前を見た瞬間、セレナは理解した。


 これは、一人で行けば必ず死ぬ場所だ。


 判断の問題ではない。

 技量の問題でもない。

 英雄かどうかですら、関係がない。


 ただ、生き残る前提で組まれていない。


 街を守るための配置であり、退路を残すための戦線ではなかった。

 時間を稼ぐ。犠牲を引き受ける。

 それだけの役割。


 机の上の依頼書は、相変わらず滲んでいる。


 戦闘員の名は読める。

 第五部隊の顔が浮かぶ。

 皆、慣れた配置だ。

 皆、覚悟もできている。


 後衛の欄だけが、白い。


 そこに名前があることは、分かっている。

 英雄として認められた以上、英雄の担当医が前線まで同行する。

 制度として、そうなっている。


 けれど。


 この戦地は、一人なら死ぬ。

 二人でも、運が悪ければ死ぬ。


 生きて帰る想定は、最初からない。


 セレナは椅子に深く腰を下ろした。


 不思議と、震えはなかった。

 息も乱れていない。


 頭の中だけが、静かだった。


 英雄と呼ばれるようになってからも、よく生き延びたと思う。


 最初は、ただ剣を振っていただけだった。

 次に、判断を任されるようになった。

 いつの間にか、名前で呼ばれなくなった。

 役職で呼ばれるようになった。


 それでも、ここまで来た。


 もう十分だ。

 そう思えば、楽になるはずだった。


 なのに。


 便箋を前にした途端、指が止まった。


 遺書を書くための紙だ。

 書かなければならない。

 書くことが、責任だ。


 分かっている。

 分かっているのに。


 視界が歪む。


 文字が見えなくなる。


 ぽたぽたと、涙が落ちる。

 止めようとすると、余計に溢れる。


 死にたくない。


 胸の奥から、はっきりと声がした。


 行きたくない。

 怖い。

 戻りたい。


 こんな場所で終わりたくない。


 まだ、やりたいことがある。

 まだ、言っていない言葉がある。


 それなのに。


 行かなければ、街が滅ぶ。


 守るべきものが、そこにある。

 逃げれば、責任が別の誰かに落ちる。

 その誰かは、もっと早く死ぬ。


 選択肢は、最初からなかった。


 英雄であることが、逃げ道を消している。


 セレナは、唇を噛んだ。


 泣きながら、筆を取る。


 字が歪む。

 それでも書く。


 書かなければならない。


 



 ―――英雄最高医へ。


 この戦地は、たぶん戻れません。


 分かっていて選びました。

 逃げられなかったのではありません。

 逃げませんでした。


 怖いです。

 本当は、行きたくありません。


 でも、ここを引き受けなければ、

 街がひとつ消えます。


 それが嫌でした。


 あなたが後ろにいるなら、

 私はもっと生き延びられたと思います。


 だから、これは私の判断です。


 もし、これが最後でも、

 あなたの判断は間違っていません。


 それだけは、伝えたかった。


 それと。


 ごめんなさい。


 生きて帰れなかったら、

 それは私が弱かったからです。


 それでも。


 本当は、

 死にたくありません。


 帰りたいです。

 

 最後に、よかったら私のお墓にただいまってそれだけ言ってください。



 ――――最後の一行を書いたところで、筆が落ちた。


 嗚咽が漏れた。

 押さえきれない。


 肩を抱き、身体を丸める。

 声を殺そうとして、失敗する。


 英雄としての顔は、ここにはない。

 誰にも見られていない夜だけが、それを許している。


 しばらくして、セレナは便箋を折った。


 封はしない。

 封をする気力がなかった。


 引き出しに入れる。

 閉める。


 立ち上がる。


 涙は、まだ止まらない。

 それでも、立てる。


 二日後、戦地へ向かう。


 生きて帰れるとは、思っていない。


 それでも、行く。


 それが、英雄だからではない。


 そうしないと、

 誰かが確実に死ぬからだ。


 部屋を出るとき、

 セレナは一度だけ振り返った。


 机の上の、滲んだ依頼書を見る。


 読めない名前が、そこにある。


 それが、救いだと知るには、

 まだ、少し時間が必要だった。


 朝は来た。


 それだけは、確かだった。


 セレナは目を開け、天井を見て、すぐに理解した。

 生きている。

 まだ、生きている。


 その事実が、胸に重く落ちた。


 起き上がる。

 身体は動く。

 動いてしまう。


 昨日の涙は乾いている。

 枕の染みも、もう冷たい。

 泣いた痕跡だけが、部屋に残っている。


 準備を始める時間だった。


 次の戦地へ向かうための準備。

 生きて帰るためではない。

 最後まで持たせるための準備だ。


 剣を手に取る。


 刃こぼれを確認する。

 研ぐ。

 音が一定になるまで、同じ動きを繰り返す。


 集中しているわけではない。

 考えないために、手を動かしている。


 ここが鈍れば、死ぬのが早くなる。

 ここを整えれば、死ぬまでの時間が伸びる。


 それだけの違い。


 防具を外し、布で拭く。

 血の跡は落ちきらない。

 落とさなくていい。


 次の戦地では、また同じ色になる。


 留め具を一つずつ確認する。

 壊れていない。

 まだ使える。


 使えるうちは、使う。

 使えなくなったら、その時だ。


 手袋をはめる。

 革の感触が、指に馴染む。


 この手で、何人斬ってきたか。

 この手で、何人を守れなかったか。


 数えない。

 数えたところで、何も変わらない。


 机に戻り、装備の配置を整える。

 すぐ取れる位置。

 倒れたときに邪魔にならない位置。


 全部、死ぬ瞬間を想定した配置だった。


 セレナは気づいている。

 自分が、生き延びる前提で動いていないことに。


 それでも、手は止まらない。


 止めたら、崩れる。


 昼が近づく。

 部屋に差し込む光が、武具に反射する。


 勲章が、机の端で光った。


 一瞬だけ、視線がそちらに向く。


 英雄。

 認められた証。


 それがあるから、選ばれた。

 それがあるから、逃げられなかった。


 セレナは、そっと勲章を裏返した。


 見ない。


 今は、見てはいけない。


 鞄を開け、中身を確認する。

 最低限の補給。

 予備の刃。

 応急処置用の道具。


 どれも、生き延びるためのものではない。

 倒れる直前まで動くためのものだ。


 息を吸う。

 吐く。


 胸の奥が、ひどく静かだった。


 怖くないわけじゃない。

 むしろ、ずっと怖い。


 死にたくない。

 行きたくない。


 その気持ちは、昨日よりもはっきりしている。


 それでも、準備は終わっていく。


 終わらせてしまう自分が、何よりも残酷だと分かっている。


 夕方、すべてが整った。


 武具は完璧だ。

 配置も問題ない。


 生きて帰れない戦地に行くための準備としては、

 これ以上ないほど、完璧だった。


 セレナは椅子に座り、しばらく動かなかった。


 涙は、もう出ない。


 代わりに、胸の奥に硬い塊がある。


 それを抱えたまま、立ち上がる。


 明日も、準備を続ける。

 出発まで、まだ時間がある。


 死ぬその瞬間まで、

 あがくための時間が。


 それが与えられていること自体が、

 この地獄の形だった。


 セレナは部屋を出る。


 扉を閉める。


 その背中には、

 もう逃げ道はなかった。


※あとがき

ここまで読んでくださってありがとうございます。

もし何か残るものがあれば、★★★★★で執筆の励みになります。

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