表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/63

第50話 上質な封筒

 朝は、どんよりと曇っていた。


 まだ早い時間だ。

 窓の外は白く濁っていて、空と雲の境目が分からない。


 セレナは、いつも通り朝の準備を終える。

 鎧ではなく、軽い服装。

 髪も、後ろで簡単にまとめただけだ。


 寝室を覗くと、レオンはまだ眠っている。

 仰向けで、きれいな寝方。


 起こすほどの理由はない。

 今日は、何もない日だ。


 そう思った、そのとき。


 ちりん、ちりん、と呼び鈴が鳴った。


 少し高い音。

 朝の空気に、やけに響く。


 セレナは、何も考えずに玄関へ向かう。


「はーい」


 いつもと同じ声だった。


 扉を開けると、そこに立っていたのは管理局員だった。

 制服はきちんとしているが、表情は淡々としている。


 ああ、とセレナは思う。


 今は待機兵だ。

 どうせ、大した用事じゃない。


「どうしましたか?」


 自然に出た言葉だった。


「通達です」


 管理局員は、そう言って封筒を差し出す。


 白ではない。

 少し厚みがあって、紙質が違う。


 しかも、二通。


「……二人分?」


「はい」


 短い返事。


 差し出された封筒には、管理局の印。

 押し方も、はっきりしている。


 その瞬間、

 背筋が、すっと冷えた。


 理由は分からない。

 ただ、封筒の質だ。


 直感的に分かる。

 これは、軽い通達じゃない。


 待機兵だ。

 使いどころのない、困った兵士。

 今さら、何を?


 式典への招待状ではない。

 あんなものに、こんな紙は使わない。


 嫌な感覚が、胸の奥に広がる。


「……分かりました」


 声は、まだ平静だった。


 封筒を受け取り、扉を閉める。


 玄関の外の気配が消えてから、

 ようやく息を吐いた。


 リビングに戻り、机の上に封筒を置く。


 二通。

 レオン宛と、セレナ宛。


 並べられたそれは、

 朝の光を吸って、やけに重く見えた。


 さっきまで、何もなかったはずの部屋が、

 少しだけ違って感じられる。


 まだ、開けていない。

 中身も知らない。


 それでも、

 もう戻れない気がした。


 レオンは、まだ眠っている。


 その静かな呼吸が、

 今だけ、遠く感じられた。


 もちろん、一緒に確認しようとは思った。


 二人で並んで、封を切る。

 それが自然だし、これまでもそうしてきた。


 そう分かっているのに、

 胸の奥の動悸が、なかなか収まらない。


 息を吸っても、肺の上のほうで止まる。

 吐こうとすると、少し引っかかる。


 嫌な予感だけが、薄く、しかし確かに貼りついていた。


 まだ、何も決まったわけじゃない。

 中身も見ていない。

 文字一つ、読んでいない。


 それなのに。


 机の上の封筒が、

 この部屋に属していないように見えた。


 原因は、はっきりしている。

 紙質だ。


 厚み。

 縁の処理。

 光の受け方。


 普段の通達に使われるものとは、明らかに違う。

 式典の招待状とも違う。


 ここで開かれる前提のものじゃない。


 場違いな上質さが、

 逆に、強く違和感を主張していた。


 セレナは、しばらくその場から動かなかった。


 触れもしない。

 目も逸らさない。


 ただ、

 机と封筒と、自分との距離を測る。


 部屋の空気が、少しだけ重くなる。

 温度が下がったわけじゃない。

 音が消えたわけでもない。


 なのに、

 さっきまでと同じ部屋には思えなかった。


 曇り空からの光が、

 机の上で止まっている。


 封筒は、まだ閉じられたまま。




 とりあえず、レオンを起こそうと思って立ち上がる。


 そうしないといけないのは分かっていた。

 分かっているのに、足が一瞬、止まった。


 起こしてしまったら、

 この朝が、今までの朝と同じではなくなる気がした。


 そんな理由で躊躇するのは、馬鹿らしい。

 でも、胸の奥がわずかに縮む。


 ほかに選択肢はない。


「……レオン」


 声を抑えたつもりだったが、

 思ったより、はっきり出た。


「起きて」


 少し間があって、寝息が動く。


「……おはようございます」


 まだ眠ったままの声だった。


 セレナは何も言わずに、立ったまま待つ。


 レオンが目を開ける。

 その瞬間、セレナの表情を見て、瞬きが止まる。


「……どうしましたか」


 声の調子が、変わった。


「管理局から」


 それだけ言う。


「通達が来た」


「……直接、ですか」


「うん」


 レオンは、もう完全に目が覚めている。


 どうでもいい通達は、郵便受けに入れられる。

 直接手渡されるものは、理由がある。


 緊急性か、

 あるいは、重さ。


 レオンは、何も言わずに起き上がる。


 二人でリビングへ行く。

 机の上の封筒は、さっきと同じ位置にある。


 レオンは、近づいて、

 指先で、そっと紙に触れた。


 撫でるように。


 すぐに、手を止める。


「……紙が」


 それ以上、言わない。


 セレナの横に腰を下ろす。

 二人の間に、封筒がある。


 しばらく、沈黙。


 時計の音が、やけに大きく感じられる。


「……開けましょうか」


 レオンが言う。


 声は低く、平坦だった。


「うん」


 セレナは、それだけ返す。


 二人で、封を切る。


 音は、ほとんどしなかった。

 紙が裂けるというより、

 境目がほどける感じだった。


 中に入っていたのは、

 やはり上質な紙だった。


 白すぎない白。

 厚みがあって、よく整えられた縁。


 文字は、きれいに揃っている。

 癖のない、管理局の書式。


 内容は、まだ読んでいない。


 それでも、

 部屋の空気が、わずかに変わった。


 二人とも、

 紙から目を離さないまま、動かない。


 朝は、まだ終わっていない。


 でも、

 戻る感じは、もうしなかった。




 文面は、整いすぎていた。


 要点は、すぐに分かった。

 難しい言葉は使われていない。

 余計な感情も、当然ない。


 《双耀王冠勲章そうようおうかんくんしょう》を授与された両名に対し、

 新設される部隊の指揮を依頼する。


 団長。

 セレナ・ヴァレンティス。


 副団長。

 レオン・グラハム。


 そこまで読んだところで、

 胸の奥が、静かに沈んだ。


 それ以外の行は、ほとんど同じだった。

 言葉の選び方も、句読点の位置も。


 違うのは、名前と役職だけ。


 新部隊は第八部隊。

 精鋭をもって編成される。


 特に戦況の悪化した戦線において、

 戦線の維持を主目的とする。


 二人の実績と、

 今後への期待を鑑みて。


 期待。


 その文字が、紙の上でやけに冷たく見えた。


 読んでいるあいだ、

 部屋の音が遠くなる。


 深いところへ、

 何段も、何段も、降りていくような感覚。


 ああ、とセレナは思う。


 やっぱり、こうなんだ。


 きっと、また同じだ。

 血と泥と、逃げ場のない場所。


 戻らないつもりでいた。

 戻らなくていいと思える時間が、確かにあった。


 平和な朝があって、

 くだらない話があって、

 少し先のことを考えられる余裕があって。


 手を伸ばせば、

 届きそうなところまで来ていた。


 それが、

 紙一枚で、零れ落ちる。


 落ちるというより、

 足元が消える。


 希望があったからこそ、

 深さが分かってしまう。


 深い。

 思ったよりも、ずっと。


 セレナは、息を吐いた。

 でも、音は出なかった。


「……そっちのも、見せて」


 声は低い。


 レオンは、黙って文書を差し出す。


 受け取りながら、

 自分の文書をレオンに渡す。


 交換する意味はない。

 書かれていることは、分かっている。


 それでも、

 確認せずにはいられなかった。


 レオンは、セレナの文書を読む。


 一行ずつ、

 丁寧に、

 視線を落とす。


 役職が違うだけ。

 あとは、すべて同じ。


 その事実が、

 何よりもはっきりしていた。


 ――選ばれている。


 二人まとめて。

 一つの駒として。


 レオンは、紙から目を離す。


 言葉を選ぶ時間が、あった。

 でも、選びすぎなかった。


「……夢」


 一拍。


「遠くなってしまいましたね」


 声は、静かだった。


 慰めるつもりでも、

 皮肉のつもりでもない。


 ただ、そう見えた。


 セレナは、何も言わない。


 レオンは、文書を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 拒否はできる。

 それは事実だ。


 制度上も、文面上も、

 どこにも「強制」という言葉はない。


 行かないと答えても、

 公式には非難されない。


 処罰もない。

 責任も、形式上は問われない。


 それを、レオンは分かっている。


 分かっているからこそ、

 紙の重さが、よりはっきりと伝わってくる。


 問題は、

 拒否したあとに、何が起きるかだ。


 起きる「かもしれない」こと。


 戦況が悪化している戦線。

 維持が必要な場所。


 そこに、本来送られるはずだった部隊が、

 送られなくなる。


 代わりが、すぐに用意されるとは限らない。


 空白ができる。

 判断が遅れる。


 その結果、

 街が消えるかもしれない。


 村が、地図からなくなるかもしれない。


 それを、

 レオンは見てきた。


 偶然じゃない。

 一度や二度じゃない。


 誰かが「行かない」と決めたあとに、

 何が起きたかを。


 だから、

 これは脅しじゃない。


 選択肢は、確かにある。

 でも、選ばなくていい。


 ――選ばなくても、責められない。


 それでも。


 知ってしまった側には、

 行かないという選択肢が、

 実質的に存在しない。


 レオンは、ゆっくりと息を吐く。


 セレナのほうを見る。


 彼女も、同じ場所を見ている。

 文書ではなく、

 その先。


 行かなかった場合の、

 景色。


 レオンは、言葉を探す。


 軽くしない。

 重くもしすぎない。


「……夢」


 小さく、言ってから、


「遠くなってしまいましたね」


 それは、嘆きじゃなかった。

 諦めでもない。


 事実の確認だった。


 セレナは、答えない。


 否定もしない。


 肯定もしない。


 沈黙のまま、

 机の上の紙に、手を置く。


 その仕草が、

 もう答えだった。


 選ばなくていい。

 責められもしない。


 それでも、

 行くしかない。


 知ってしまっているから。


 それが、

 二人の立っている場所だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ