第5話 叙勲
叙勲 ―― セレナ・ヴァレンティス
拍手は、途切れなかった。
名前を呼ばれ、前に出て、
正装の胸元に勲章が留められる。
金属が触れた瞬間、
セレナは息を吸い損ねた。
重い。
思っていたより、はるかに。
拍手は祝福だ。
歓声は称賛だ。
英雄としての当然の扱いだ。
――そう、頭では分かっている。
だが、胸の奥が拒絶している。
この重さは、
勝った証じゃない。
期待だ。
次も勝て。
次も覆せ。
次も前に立て。
この勲章は、
「ここまでやった」ではなく、
「これからもやれ」と言っている。
逃げるな、と。
セレナは、微笑んだ。
それができる自分に、もう慣れていた。
剣を握るより先に、
この表情を身につけてしまった。
――英雄の顔。
でも、胸の内側では、
何度も同じ言葉が反復されている。
違う。
これは、私ひとりの功績じゃない。
あの戦況を押し返したのは、
私の剣じゃない。
私の指揮でもない。
後ろが、成立していたからだ。
戻れると分かっていたから、踏み込めた。
切られないと分かっていたから、判断を速められた。
失敗しても、終わらないと分かっていたから、前に立てた。
――レオン・グラハムが、いたから。
その事実だけが、
胸の奥で冷たく、動かない。
なのに。
この場に、その名前はない。
呼ばれない。
刻まれない。
分けられない。
すべてが、
セレナ・ヴァレンティスのものとして処理される。
それが、何より苦しい。
自分は、そんな力を持っていない。
分かっている。
すべてをひっくり返すような判断力も、
戦況を単独で制御する胆力も、
誰も死なせない強さも。
ない。
それなのに、
この勲章は言う。
「あなたにはある」
「あなたがそれを担え」
「次も、同じことをしろ」
逃げ場は、どこにもない。
否定すれば、
助かった命すら裏切ることになる。
断れば、
前に立ってきた自分を否定することになる。
受け取れば、
――ひとりで背負うしかない。
胸が、苦しい。
呼吸はできているのに、
肺の奥に空気が届かない。
この重さを、誰とも分けられない。
それが、英雄という立場だと、
分かってしまっている。
拍手が、再び大きくなる。
称賛の声が、重なる。
その一つ一つが、
背中に積み上がっていく。
期待。
責任。
次の戦場。
そして、ふと。
――もし。
もし、いつか。
本当に、あの人が戻ってきたら。
この勲章を見て、
「よくやりましたね」と言ってくれるだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、
セレナは、はっきりと自分を嫌悪した。
まだ、期待している。
まだ、どこかで頼っている。
この重さを、
「いつか評価してもらえるもの」に変えようとしている。
そんな自分が、
英雄を名乗っていることが、
どうしようもなく、醜い。
逃げたい。
でも、逃げられない。
倒れたい。
でも、倒れることすら許されない。
立っていることが、
選択ではなく、刑になっている。
セレナ・ヴァレンティスは、
勲章を胸に受けたまま、
静かに理解した。
――これは、祝福じゃない。
これは、
「前に立ち続けろ」という、
終わらない命令だ。
そして。
この地獄を、
誰も、理解してくれない。
それこそが、
英雄であることの、
いちばん深い罰だった。
――そのときだった。
「セレナ・ヴァレンティス殿」
呼び止める声。
柔らかい。
丁寧で、祝意を含んだ声。
振り返る前から分かっていた。
これは、休めという声じゃない。
「次の戦線について、ご相談があります」
相談、という言葉が使われるとき、
断れる余地はない。
案内される先は、式場の裏。
人の少ない廊下。
拍手の余韻が、遠ざかっていく。
地図が広げられる。
赤い線。
青い線。
そして、今にも破れそうな境界。
「ここです」
指が置かれた場所を見た瞬間、
セレナの中で、はっきりとした拒絶が生まれた。
――無理だ。
口には出さない。
出せない。
だが、理解は一瞬だった。
「今回、押されていた戦況を完全に覆した功績を鑑みて」
その言葉が、胸を締め付ける。
「あなたなら、可能だと判断しました」
違う。
それは、私じゃない。
喉の奥で、声にならない言葉が渦を巻く。
私が覆したんじゃない。
私が一人でやったんじゃない。
後ろがあったから、前に出られただけだ。
戻れる場所があったから、判断を速められただけだ。
あの戦場には、
――レオンがいた。
それだけで、世界の難易度が違っていた。
「こちらは、より複雑な局面になります」
淡々と説明が続く。
「即断が必要です」
「損耗を恐れない判断も求められます」
「全体を見て、切る覚悟が要る」
分かっている。
分かってしまっている。
これは、
“英雄としての次の試験”だ。
失敗すれば、
期待に応えられなかった英雄になる。
成功すれば、
さらに大きな責任が積み上がる。
どちらに転んでも、
戻れない。
セレナは、静かに息を吸った。
ここで断れば、どうなるか。
戦況は悪化し、
誰かが代わりに前に立ち、
そして、もっと多くが死ぬ。
それを、知っている。
英雄と呼ばれる立場に立ってしまった以上、
「できない」は免罪符にならない。
頭では、完全に理解していた。
――これは無理だ。
――レオンがいない。
――あの判断は、私一人では成立しない。
理解している。
誰よりも、自分が分かっている。
なのに。
「……承知しました」
その言葉が、口から出た。
自分でも驚くほど、
滑らかだった。
声は震えていない。
表情も崩れていない。
周囲が、安堵する。
「やはり」
「さすがだ」
「期待に応えてくれると思っていました」
その一つ一つが、
胸の奥に沈んでいく。
違う。
違うのに。
誰も、聞いてくれない。
レオンがいない、という事実を。
後ろが成立していない、という現実を。
誰もが見ているのは、
勲章と肩書きだけだ。
セレナは、地図から視線を外した。
廊下の壁が、やけに近い。
胸の奥が、じわじわと痛む。
――分かっている。
これは、逃げではない。
責任を引き受けた行為だ。
でも。
心のどこかで、
はっきりとした恐怖が、形を持っている。
この戦場で、
誰かを切らなければならない瞬間が来たとき。
戻れるという確信がないまま、
前に立たなければならないとき。
そのとき、
自分は、正しい判断ができるのか。
レオンのいない世界で。
英雄最高医のいない戦場で。
セレナ・ヴァレンティスは、
勲章の重さを胸に感じながら、
ゆっくりと理解していった。
――これは、選んだ地獄じゃない。
選ばされた地獄だ。
それでも、
立ってしまった以上、
もう、降りることは許されない。
ああ、そうか。
セレナは、ようやく分かった。
そこが――
自分の墓場なのだと。
誰かに殺される場所ではない。
剣で斬られる場所でもない。
期待の中で、静かに埋められる場所。
レオンが戻ってくると信じていた三年間。
信じて、期待して、
それでも期待することをやめなかった三年間。
やめなかった、というより。
やめ方を知らなかった。
朝、目を覚ますたびに思った。
今日は戻ってくるかもしれない。
今日こそ、知らせがあるかもしれない。
それを希望だとは思わなかった。
ただの前提だった。
息を吸うように、
当たり前のこととして、
頭のどこかに置いていた。
――レオンは、いつか必ず自分の後ろに戻ってくる。
それを、疑う理由がなかった。
戦場に出るたび、
無意識に後ろを計算していた。
――戻れる。
――間に合う。
その感覚がないと、
一歩も前に出られなかった。
だから、必死に再現した。
レオンがいた頃の距離感。
判断の速さ。
切り捨てなくていいという確信。
存在しない後ろを、何度も思い描いて。
それでも、レオンは戻ってこなかった。
一日も。
一度も。
裏切られたわけじゃない。
拒絶されたわけでもない。
ただ、
何も起きなかった。
それが、いちばんきつかった。
怒る理由もない。
恨む言葉もない。
絶望するきっかけすらない。
ただ、
期待だけが、宙に浮いたまま腐っていく。
気づけば、
期待すること自体に、
ひどく疲れていた。
期待しなければ、
失望もしないと知っていた。
でも、
期待を捨てた瞬間、
前に立つ理由が消えることも分かっていた。
頑張る理由も、
耐える意味も、
英雄でいる必然性も。
――ああ。
なら。
ここが終わりなのだ。
この次の戦場。
今回任された、あの場所。
皆が「当然」と言う配置。
皆が「ふさわしい」と言う役割。
そこが、
自分の墓場なのだ。
不思議と、恐怖はなかった。
死ぬことが怖いわけじゃない。
傷つくことが嫌なわけでもない。
ただ、
もう、踏み出す理由が残っていない。
レオンがいない戦場で、
一人で全部を背負わされて、
期待だけを正しさとして押しつけられて。
それで、もし死ぬのなら。
それは、
逃げではない気がした。
むしろ、
やっと役割を終えられる場所に思えた。
ふと、考えてしまう。
レオンは、どう思うだろう。
自分が戦死した報告を聞いたとき。
紙の上で、
「戦死」と処理された名前を見たとき。
少しは、後悔するだろうか。
私の後ろに戻ればよかった。
判断医として。
英雄最高医として。
――戻るべきだったと。
ほんの一瞬でも、
胸が痛むだろうか。
三年間。
毎日、戻らない後ろを信じ続けた人間がいたことを。
どれだけ、
空振りの判断をし続けながら、
それでも前に立っていたかを。
そう考えている自分に気づいた瞬間、
胸の奥が、すっと冷えた。
ああ。
私はもう、
助かろうとしていない。
生きたいとも、
死にたいとも、
ちゃんと思えていない。
ただ、
これ以上、期待に応える力が残っていない。
気づいたときには、
トイレの個室にいた。
いつ、ここまで歩いてきたのかも覚えていない。
扉を閉め、
鍵をかけ、
壁に背中を預けた瞬間。
膝から、
音もなく力が抜けた。
崩れるように座り込む。
声を殺す余裕もなかった。
抑える意味も、もうなかった。
涙が、止まらない。
勲章が、胸元で冷たく光っている。
誇りの証。
英雄の証明。
期待の象徴。
その表面に、
ぽた、と雫が落ちる。
ひとつ。
ふたつ。
光が、歪む。
涙に濡れた勲章は、
祝福の色を失って、
ただの重たい金属に見えた。
――こんなもののために。
そう思いかけて、
言葉を噛み殺す。
違う。
これは、
ご褒美なんかじゃない。
罰だ。
期待に応えてしまった者への、
静かで、逃げ場のない刑罰。
英雄として立ち続けてしまった者への、
終わらない延命処置。
セレナ・ヴァレンティスは、
個室の中で顔を覆いながら、
誰にも聞かれない声で泣いた。
英雄でもなく。
隊長でもなく。
ただ、
戻らない背中を待ち続けて、
期待に削り取られた一人の人間として。
それでも。
ふと、思ってしまった。
次の戦場。
どう考えても、無理な場所。
判断も、補給も、後ろもない。
一人で任されるには、あまりにも重い。
そこで、もし。
もし自分が戦死したら。
その報告が、
遺言のように、
レオンのもとに届いたら。
彼は、どんな顔をするだろう。
判断医としての顔ではなく。
英雄最高医としてでもなく。
ただ、
一人の人間として。
――悔しがってくれるだろうか。
戻ればよかったと。
あのとき、後ろに残るべきだったと。
ほんの一瞬でも、
胸の奥を掻きむしられるような後悔を、
してくれるだろうか。
そう考えたとき。
胸の奥に張り付いていた重さが、
ほんのわずかだけ、緩んだ気がした。
救われたいわけじゃない。
許されたいわけでもない。
ただ、
自分が立ち続けてきた三年間が、
無音のまま消えないでほしかっただけだ。
悔しさとして。
後悔として。
名前のない感情として。
誰か一人の中に、
ちゃんと残ってほしかった。
それだけで、
なぜか、少しだけ。
少しだけ、
気持ちが楽になる気がした。
セレナ・ヴァレンティスは、
涙で濡れた勲章を握りしめながら、
初めて、そんなことを願ってしまった自分を。
――もう、否定しなかった。
※あとがき
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