第46話 雨の日①
窓の外は、色がはっきりしなかった。
雲が低く、重なっている。
夕方なのに、もう夜みたいだ。
それを見て、セレナが言う。
「ねえ、なんか……すごく曇ってない?」
レオンも隣に来て、外を見る。
「ですね」
「これは……降りますね」
「やっぱり?」
「高確率で」
セレナは、ちょっと楽しそうに笑った。
「明日、予定なくて正解だったわね」
「ええ」
「出かける気分じゃなくなりますし」
「雨の日に外出るの、嫌いでしょ」
「嫌いというより……濡れるのが面倒です」
「即答じゃない」
セレナは肩を揺らして笑う。
一拍置いて、急に言う。
「じゃあ今日は――」
指を一本立てて、
「レオンの部屋!」
言い切りだった。
「わかりましたぁ……」
レオンは、盛大にあくびをしながら返事をする。
「もうちょっと、元気な返事ないの?」
「今のが精一杯です」
「だめだめ。はい、もう一回」
「……わかりました」
「声ちっさ」
二人で、並んで廊下を歩く。
レオンの部屋に入ると、セレナは迷わずベッドに向かった。
「いつも通り、私ここね」
壁側に潜り込む。
「はいはい」
レオンも反対側に入る。
「ねえ」
「はい」
「明日、雨だったらさ」
一瞬、間。
「一日中だらだらしていい?」
「……むしろ、それ以外の選択肢がありますか」
「ないわよね」
満足そうな声。
「じゃあ決定」
布団を引き寄せて、
「おやすみー」
言った瞬間、呼吸が変わる。
早い。
レオンは、少しだけ笑った。
どこでもすぐ眠れる。
戦場で必要な能力だ。
……少し、羨ましい。
レオンも目を閉じる。
起きるのは苦手だが、
眠るのは得意だ。
隣の寝息が、すぐそこにある。
外では、まだ雨は降っていない。
でもきっと、
明日は雨だ。
それでいい。
二人は、静かに眠りに落ちた。
目を覚ました瞬間、音がした。
ぽつ、ぽつ、と屋根を叩くやわらかい音。
間に、間に、間がある。
セレナは天井を見たまま、しばらくその音を聞いていた。
「……雨だ」
小さく言って、隣を見る。
レオンは、布団を半分肩まで引き上げたまま、まだ夢の途中にいる顔をしていた。
寝息は浅い。起きてもいないし、完全に眠ってもいない。
セレナは肘で、軽くつつく。
「レオン。雨」
「……」
反応は、ない。
もう一度。
「雨だよ」
「……はい」
返事だけが返ってきた。
目は開いていない。
「起きてる?」
「……起きています」
「その声、起きてないでしょ」
「起きています……半分」
セレナは思わず笑った。
「半分は起きてるって言わないの」
「……では、四分の一で」
「減ってるし」
雨音が、少し強くなる。
セレナは布団の中で身を起こして、窓の方を見る。
「昨日言ってた通りね。ほら、ちゃんと降ってる」
「……ほんとですね」
今度は、さっきより少しはっきりした声だった。
「雨の日は、眠いです」
「それ、いつもじゃない?」
「……雨の日は、特に、です」
目を開けないまま、レオンが布団の中で体勢を変える。
「もうちょっと寝たいです」
「えー」
セレナはすぐに不満の声を出す。
「おなかすいたんだけど」
「……どれくらいでしょうか」
「それはこっちが聞きたい」
少し考える間。
「……五分」
「その五分、信用したこと一回もない」
「今日は、がんばります」
「昨日もそれ言ってた」
レオンは、何も言い返さない。
もう一度、布団に顔をうずめる。
セレナは、少し迷ってから肩をすくめた。
「……まあいいか」
小さくため息。
「五分ね。ちゃんと起こすから」
「ありがとうございます……」
語尾が消えるころには、もう寝息に変わっていた。
「……はや」
セレナは一人で言って、ベッドを抜ける。
足音を立てないように気をつけながら洗面へ向かう。
雨音は、家の中でもはっきり聞こえた。
顔を洗う。
冷たい水が、目を覚ます。
歯を磨きながら、鏡越しに自分を見る。
「今日は……外、出ない日だな」
独り言。
着替えを選ぶ時間も、少しゆっくりだった。
今日は一日、家にいそうだ。
なら、これだ。
ショートパンツに、半袖。
寝間着に近いけれど、一番気に入っている部屋着。
袖を通して、少し伸びをする。
リビングに戻ると、雨音がさっきよりも揃って聞こえた。
一定のリズム。
「……いい音」
時計を見る。
「……あ、もう五分経ってる」
セレナは、ベッドの方へ戻った。
布団の中は、さっきと同じだった。
レオンは、同じ顔で寝ている。
「……レオン」
声を落として呼ぶ。
「五分、経ちましたー」
「……」
反応は、ない。
セレナは腰に手を当てた。
「……ほんと、才能よね」
少し近づいて、布団の端をつまむ。
「起きて。雨だよ」
「……雨、ですか」
ようやく、片目が開く。
「さっき言ったでしょ」
「……もう一度、確認しました」
「確認じゃなくて、現実」
セレナは笑って、布団を少しだけめくった。
「おなかすいた」
「……わかりました」
そう言って、レオンはようやく上体を起こす。
髪が少し跳ねている。
「雨の日の朝ごはん、何がいいですか」
「んー……」
セレナは少し考えてから言った。
「温かいの」
「……了解です」
ゆっくり立ち上がるレオンを見て、セレナは満足そうに頷いた。
「ほら、起きた」
「……起こされました」
「五分守ったでしょ」
「……はい」
雨音は、まだ続いている。
外に出ない朝。
何も決めなくていい日。
それだけで、十分だった。
洗面所の方で、水の音が止んだ。
少しして、足音。
レオンが出てきて、もう部屋着に着替えている。
柔らかい色のシャツに、動きやすそうなズボン。
「……あ」
セレナはそれを見て言った。
「今日はちゃんと起きてる」
「はい。もう完全にです」
「さっきまで半分だったのに」
「料理の前では、完全に起きます」
そう言って、レオンはキッチンに立つ。
包丁とまな板を出す音が、雨音に重なる。
「今日は……」
冷蔵棚を見て、少し考えてから。
「卵と野菜で、温かいスープにします。パンも焼きますね」
「いいわね」
セレナは椅子に座ったまま、肘をつく。
「雨の日は、ああいうのが一番」
鍋に火が入る音。
湯気が、少しずつ立ち始める。
レオンは手を動かしながら、ふと外を見る。
「……雨の音、いいですね」
「でしょ」
セレナはすぐに返す。
「なにもしなくていいって感じがする」
「そうですね」
野菜を切りながら、レオンが言う。
「今日、何も予定がなくて、本当によかったです」
「奇跡よ」
「そこまでですか」
「だって、放っておくとすぐ誰かに呼ばれるじゃない」
「……否定はできません」
セレナはくすっと笑った。
しばらくして、ふと思い出したように聞く。
「そういえばさ」
「はい」
「この机、なんで四人用なの?」
レオンは一瞬、包丁を止めた。
「ああ」
少しだけ困ったような顔。
「それが、一番店主のおすすめだったそうです」
「一人暮らしなのに?」
「はい」
「大きすぎない?」
セレナはテーブルを見渡す。
「これ、六人用くらいあるわよ。椅子が四つしかないだけで」
「……言われてみると」
「言われなくても大きい」
レオンは少し考えてから言った。
「でも、広い方が、落ち着くと言われました」
「誰に」
「店主に」
「その人、絶対ひとりじゃ使ってないでしょ」
「……かもしれません」
鍋をかき混ぜて、火を弱める。
「できました」
スープの皿と、焼いたパンを運んでくる。
湯気が、ふわっと広がる。
「おいしそう」
セレナは素直に言って、手を合わせる。
「いただきます」
「どうぞ」
一口。
「……おいしい」
「よかったです」
レオンは自分の分を食べながら、少し考える。
「塩、もう少し控えてもよかったかもしれません」
「十分よ」
「でも、雨の日なので」
「雨と塩の関係は?」
「……気分です」
「出た」
セレナは笑いながら、もう一口食べる。
「レオン、ほんと料理上手くなったわよね」
「そうでしょうか」
「うん。完全に趣味の域」
レオンは少しだけ視線を逸らした。
「……食べてもらえるので」
「私?」
「はい」
「それ理由なの?」
「大きいです」
セレナは一瞬きょとんとしてから、少しだけ口元を緩めた。
「……なかなか、いい理由ね」
「ありがとうございます」
食卓には、雨音と、食器の小さな音だけがある。
「家事もさ」
セレナが言う。
「だいたいできちゃうでしょ」
「まあ……」
「洗濯と掃除は私の担当だけど」
「役割分担ですから」
「でも結局、手伝ってくれるじゃない」
「放っておくと、大変そうなので」
「それ、優しさって言うのよ」
「……そうでしょうか」
セレナは笑って、パンをちぎる。
「まあいいわ。今日も平和ってことで」
「はい」
雨は、まだ静かに降っている。
外に出ない朝。
予定のない時間。
二人で食べる、温かい朝ごはんだった。
朝食が終わって、雨はまだ降っていた。
食器を片づける音がして、レオンがキッチンに立つ。
セレナは、いつものソファに身体を預けて、足を前に投げ出している。
ぶらぶらと揺らしながら、天井を見ていた。
「そういえばさ」
何でもない調子で、セレナが言う。
「今月の給金、見た?」
「見ました」
皿を拭きながら、レオンが答える。
「……少なかったですね」
「でしょ」
セレナは体を起こす。
「びっくりするくらい少ないんだけど」
「前線にいた頃と比べると、かなり」
「英雄扱い、どこ行ったのかしら」
「待機兵ですから」
「それにしたってよ」
ソファの背にもたれかかって、腕を組む。
「どれだけ私たちが働いてきたと思ってるのかしら、管理局」
「評価は……書類上のものですから」
「書類で人は救えないのに」
「……ええ」
セレナはふっと息を吐く。
「しかも、あなたも同じ金額なんでしょ?」
「はい。完全に同額でした」
「英雄最高医と、前線指揮官が、同じ」
「公平ではあります」
「納得はできないわね」
二人とも、しばらく雨音を聞く。
「まあ」
セレナは肩をすくめた。
「お金使わないから、困らないけど」
「それは、そうですね」
レオンは食器棚に皿を戻す。
「……そういえば」
セレナが、少しだけ声のトーンを変えた。
「貯金って、どれくらいあるの?」
レオンの動きが、一瞬止まる。
「……今まで、話題になりませんでしたね」
「うん」
足をぶらぶらさせながら言う。
「なんとなく、聞きづらかっただけ」
「確かに」
「教え合う?」
軽い調子。
でも、目はちゃんとレオンを見ている。
「……では」
レオンは少し考えてから言った。
「僕からにしましょうか」
「どうぞ」
「数字で言うと、驚かせてしまうと思います」
「前置き長い」
レオンは息を整えて、淡々と口にした。
「普通の方が、人生を三周できるくらい、です」
一拍。
「……は?」
セレナは目を瞬かせた。
「三周?」
「はい」
「人生を?」
「はい」
セレナは、ソファからずり落ちそうになる。
「ちょっと待って」
「待ちます」
「最高英雄医って、そんなにもらってるものなの?」
「前線での期間と、成果評価と……」
「いやいや」
頭を抱える。
「おかしいでしょ。
そもそも、この家よ。この立地」
「王都の一等地ですね」
「住んでる時点で異常よ」
セレナは、今度は言いにくそうに視線を逸らした。
「……じゃあ、次は私ね」
「はい」
「前線だから、そんなに多くないわよ」
「ええ」
「英雄って言っても、現場だから」
前置きが続く。
「あと、私、別に昇進とか興味なかったし」
「存じています」
「それでね」
一度、息を吸う。
「働かなくても……」
少し間。
「四十年くらいは、この生活続けられる」
レオンは、素直に驚いた。
「……十分すぎますね」
「でしょ?」
セレナは、急に明るくなる。
「でも、あなたとわたしでそんなにあるなら」
にっと笑う。
「私たちは安心ね!」
※あとがき
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