第45話 親友と相棒の意味
朝は、静かだった。
薄い光が、カーテンの向こうで止まっている。
まだ、朝として名乗るには少し早い時間。
セレナは、目を開けて、隣を見た。
レオンは、相変わらず動かない。
布団の中で、きちんと仰向け。
呼吸も、昨日の夜と同じだ。
今日は、寝かせておく日じゃない。
セレナは、少しだけ身を起こして、レオンの手を取った。
そのまま、ためらいなく引く。
「起きて」
反応はない。
もう一度。
今度は、力を入れる。
布団ごとではなく、ちゃんと人間として引っ張る。
肩と腕と、重さ。
「……」
それでも、目は閉じたままだった。
セレナは、思わず笑った。
声は出さずに、息だけが揺れる。
昔も、こんなことをしていた。
戦地で。
仮眠明けで。
何度も。
そのまま、引きずる。
廊下を抜けて、リビングまで。
床に下ろしても、まだ起きない。
「才能かも」
ぽつりと呟いてから、少し大きな声で言う。
「起きて、朝よ!」
ようやく、まぶたが動いた。
「……おはようございます」
声は、きちんと丁寧だった。
体は床のまま、目だけ開いている。
「……僕、昨日はリビングで寝たんですか?」
セレナは、腰に手を当てた。
「ここまで引っ張ってきたの」
「……ベッドで起こせばよくないですか」
「なんとなく」
即答だった。
レオンは、数秒考えてから、少しだけ口元を緩める。
「なんとなくで、引きずられてきたんですね」
「そう」
「……昔みたいです」
その言葉で、セレナの胸が、わずかに揺れた。
ああ、と心の中で思う。
覚えてるんだ。
同じことを。
同じ朝を。
「レオン」
「はい」
「今日、指導の日でしょ」
一瞬で、目がはっきり開いた。
「あ」
短い声。
「……そうでした」
体を起こす。
さっきまで床だったとは思えない動き。
二人で洗面に向かう。
並んで顔を洗って、歯を磨く。
鏡越しに視線が合って、すぐ外れる。
それで十分だった。
着替えも、特別なことはない。
いつもの服。
いつもの手順。
家を出る準備をしていると、
セレナも、もう外用の格好になっていた。
レオンは、それを見て、何も言わない。
訓練の指導に、セレナが付く必要はない。
衛生兵の訓練だからだ。指導員としてはレオンが指名されている。
でも、付いてくること自体が、もう当たり前になっている。
指摘する理由も、
止める理由も、なかった。
二人で行動するのが当たり前だからだ。
二人で扉を開ける。
朝の空気が、静かに流れ込む。
並んで歩き出す。
王都の訓練場へ向かう道。
特別な話はしない。
でも、歩幅は揃っている。
訓練場へ向かう道は、朝のうちだけ少し静かだ。
石畳の上を歩く音が、二人分だけ続いている。
風も弱く、人の気配もまだ薄い。
少し歩いたところで、セレナが何でもない調子で言った。
「ねえ」
「はい」
「私さ」
一拍。
「なんで剣術の指導員として呼ばれないんだろう」
立ち止まるほどの話でもない。
疑問としては、至極まっとうだった。
レオンは、歩きながら答えを探すふりをした。
本当は、理由を知っている。
セレナは、指導が絶望的に下手だ。
「こうで、こうやって、ぶんで、ぐんだっ!」
身振りだけは大きい。
言葉は、ほとんど抽象。
訓練兵は、いつも困った顔をする。
何をどうすればいいのか分からない。
その様子を見て、セレナは言う。
「そんなんじゃ、戦場で生き残れないわよ」
間違ったことは言っていない。
ただ、伝わっていない。
管理局も、訓練兵も、そのことをよく知っている。
だから、呼ばれない。
理由は、それだけだ。
でも、それをそのまま言う選択肢は、最初からなかった。
「……なんででしょうね」
レオンは、少し考える素振りを見せる。
「英雄という格があるから、じゃないですか」
セレナが、横を見る。
「格?」
「はい」
「……ああ」
納得したように、声が少し弾んだ。
「そうよね」
歩きながら、うんうんと頷く。
「私くらいになるとさ」
自然と胸を張る。
「もう、英雄になるくらいの人を指導する立場になっちゃうものね」
レオンは、何も言わない。
「訓練兵を教えるような段階じゃない、ってことか」
自分で結論を出して、満足そうに笑う。
「なるほどねえ」
レオンは、内心で静かに息を吐いた。
機嫌を取っているわけじゃない。
持ち上げているつもりもない。
ただ、
落ち込む顔を見たくないだけだった。
セレナは、ふいに言う。
「でもさ」
「はい」
「本当に私が教えたら」
一拍。
「たぶん、全員死ぬわよ」
レオンは、反射的に答えた。
「否定はしません」
「でしょ?」
笑いながら、軽く肘でつついてくる。
「レオンがいるから、私が今の戦い方できてるのよ」
「それは……」
少し考えてから。
「役割分担ですね」
「そうそう」
歩幅が、自然と揃う。
訓練場の外壁が、見えてきた。
いつもの会話。
いつものやり取り。
大した意味はない。
でも、続いている。
訓練場に着くころには、もう人の気配が満ちていた。
朝の空気の中で、木の音がする。
人形を運ぶ音。
道具を並べる音。
まだ声は低く、動きも落ち着いている。
衛生兵たちは、黙々と準備を進めていた。
誰かに急かされているわけでもない。
ただ、今日やるべきことを分かっている、という動きだった。
その様子を見て、セレナが言う。
「朝早くから、ご苦労様ね。ほんと」
軽い調子だったが、向けられた視線は真っ直ぐだった。
近くにいた衛生兵が、少し背筋を伸ばす。
レオンは、その横で静かに言う。
「……僕らにも、こういう時代がありましたね」
セレナは、訓練用の人形を見ながら答えた。
「私は、あっという間に前線だったわ」
懐かしむというより、事実の確認に近い。
「確かに、そうですね」
レオンは頷く。
「最年少で、あなたも英雄最高医になったじゃない」
セレナは、思い出すように続ける。
「判断が早いとか、魔法の才能がどうとか」
レオンは、少しだけ苦笑した。
「お互い、訓練兵の時代は短かったかもしれませんね」
「そうね」
それ以上は、言わない。
だからこそ、今ここにいる衛生兵たちの動きが、よく目に入る。
準備の途中で、セレナが立ち止まった。
いつもなら、少し離れた場所で剣を振っている時間だ。
感覚を忘れないために。
体を鈍らせないために。
でも、今日は違った。
セレナは、ずっとレオンの近くにいる。
レオンは、ふと気づく。
剣が、ない。
腰にも、背中にも。
いつもの位置に、重さがない。
誰かと木剣で打ち合うのだろうか、と考えかけたところで、
セレナが言った。
「私も、この訓練を見守るわ」
レオンは、視線を向ける。
「元団長として」
セレナは、淡々と続ける。
「こういう訓練を見ておくのも大事だと思うし」
「戦場での、本当の判断が生きると思うの」
余計な力は入っていない。
言葉も、飾られていない。
理にかなっていた。
「……お願いします」
レオンは、すぐに答えた。
それを聞いていた衛生兵たちが、揃って敬礼する。
「よろしくお願いします!」
声は揃っているが、硬すぎない。
誰もが、セレナを知っている。
噂でも、肩書きでもなく、
前線に立っていた人間として。
セレナは、軽く手を上げた。
「そんなに固くならなくていいわよ」
少しだけ、口元が緩む。
「今日は、ちゃんと見てるだけだから」
その一言で、空気が少し和らいだ。
訓練場には、朝の光が差し込んでいる。
土の匂いと、木の匂い。
生きている音だけがある。
レオンは、配置を確認しながら思う。
こういう時間は、久しぶりだ。
前に出ない。
判断を急がない。
ただ、ここに立っている。
隣には、セレナがいる。
剣を持たず、
何も振り回さず、
それでも、そこに立っている。
訓練が始まると、空気が変わった。
「判断が遅れています。次は、三拍早く」
レオンの声が、静かに飛ぶ。
叱責ではない。否定でもない。
間違えた衛生兵が身構える前に、続く。
「今の位置なら、ここまでで十分です。無理に前へ出なくていい」
相手の動きに合わせて、言葉が置かれる。
誰も置き去りにしない指示だった。
セレナは、その様子を少し離れた場所から見ている。
剣を持たない日のレオンは、どこか違う。
前線に立っていた頃よりも、声が低く、動きが少ない。
それでも、場は確実に回っている。
訓練の合間、ひとりの衛生兵が、恐る恐る近づいてきた。
「あの……レオン様」
レオンが振り返る。
「今日、このあと……もしよろしければ、一緒に食事でも」
言い終わる前に、空気が張り詰めた。
「お前」
低く、鋭い声。
セレナだった。
「訓練という言葉の意味が分からないのか」
全員の視線が集まる。
「今がどういう場か、分かっているのか」
「そんな言葉を、そんな態度で口にする場所じゃない」
一歩、前に出る。
「恥を知れ」
短く、はっきり。
衛生兵は、言葉を失って下がった。
レオンは、少しだけ眉を動かす。
そこまで言わなくても、と思う。
でも、セレナが言っていた。
――戦場を想定する。
それを思い出して、何も言わなかった。
休憩の合図がかかる。
張り詰めていた空気が、少し緩む。
そのときだった。
別の衛生兵が、レオンの前に立つ。
「あの……」
声が震えている。
「ずっと、レオン様のことを尊敬していて」
「これは、完全に私の気持ちになってしまうのですが……」
そこまでだった。
「貴様」
セレナの声が、訓練場に響く。
「休憩時間に、色恋の話をするのか」
一歩も引かない。
「戦場だったらどうする」
「休憩時間ですら、体を休めることに集中しなければならない」
「気を散らす余裕が、どこにある」
衛生兵は、完全に固まった。
「……以上だ」
セレナは、そう言い切ると、レオンの腕を掴む。
「来い」
「え?」
「皆は勝手に休んでいろ」
「お前には、別のやることがある」
有無を言わせない調子だった。
訓練場の端まで引っ張られながら、レオンが言う。
「……やること、特にありませんが」
セレナは、振り返らない。
「ある」
「何ですか」
「私に、増強魔法と治癒魔法を同時にかけろ」
歩きながら、言い切る。
「鈍るからな」
レオンは、少し考える。
確かに、理屈としては正しい。
並列詠唱は、使わなければ落ちる。
「……分かりました」
セレナは、ようやく立ち止まった。
「最初から、そう言えばいい」
レオンは、詠唱に入る。
魔力が重なり、セレナの体に馴染む。
セレナは、肩を回した。
「うん」
「悪くない」
それから、何でもないように言う。
「……見張ってないと、落ち着かないから」
レオンは、聞こえなかったふりをした。
訓練場の向こうで、衛生兵たちが勝手に休んでいる。
こちらでは、二人だけの訓練が始まっていた。
理由は、誰も言わない。
でも、目的は一つだった。
今日も、隣にいる。
結局、訓練が終わるまで、
レオンに私情で話しかけることができた衛生兵は、一人もいなかった。
理由は、明白だった。
セレナが、そこにいる。
少し近づこうとしただけで、視線が飛ぶ。
声をかけようと息を吸っただけで、気配を察される。
訓練の合間に、
「あの……」
と切り出しかけた衛生兵に、
「今は休憩じゃないわよね?」
と、何でもない声で止める。
別の衛生兵が、
「次の配置について――」
と、明らかに業務の話を装って近づくと、
「それ、今聞く必要ある?」
と、間髪入れずに遮る。
内容がどうであれ、
タイミングがどうであれ、
レオンの近くに立つ理由が見えた瞬間に、止められた。
鉄壁だった。
誰も怒鳴られたわけではない。
誰も叱責されたわけでもない。
ただ、
近づけない。
訓練場の空気は、どこか妙に整っていた。
レオンは、そのことに気づいていないふりをしていた。
気づいていない、というより、
気づいても、何も言わなかった。
訓練の終わりを告げる合図が鳴る。
レオンが前に出る。
「……以上です」
少し間を置いて、
「皆さん、お疲れさまでした」
「よくできていましたよ」
声は穏やかで、嘘がない。
衛生兵たちの表情が、わずかに緩む。
その直後。
「――後片付け」
セレナが、短く言った。
「人形と道具、元の位置に戻すように」
「訓練は終わりでも、仕事は終わりじゃないわ」
誰も反論しない。
返事は揃っている。
セレナは、それを確認すると、
何の前触れもなく、レオンの腕を掴んだ。
「行くわよ」
「え?」
「終わったでしょ」
そのまま、引っ張る。
訓練場を後にしながら、レオンが言う。
「……もう少し、みなさんから質問があるかと思っていましたが」
「ない」
即答だった。
「今日は、十分」
「そうですか」
「そう」
数歩歩いてから、少しだけ声の調子が変わる。
「……変な話、されたら困るでしょ」
レオンは、足を止めかけて、やめた。
「困る、というほどでは」
「困るの」
被せる。
「私が」
一拍。
それ以上は、言わない。
レオンは、何も返さなかった。
否定も、肯定も。
ただ、引かれるままに歩く。
腕を掴む力は、強くない。
でも、離す気もなかった。
訓練場の喧騒が、少しずつ遠ざかる。
並んで歩く背中は、いつも通りだ。
けれど、
その距離だけは、
ほんの少しだけ、近かった。
家へ戻る道は、昼に近づいていた。
訓練場の喧騒が遠ざかるにつれて、足音だけが残る。
石畳の感触が、さっきより柔らかい。
少し歩いたところで、セレナが言った。
「ねえ、レオン」
「はい」
返事はいつも通りだ。
「将来の夢」
一拍。
「ちゃんと考えてる?」
歩きながら、横を見る。
責める視線ではない。
ただ、逃がさない目だった。
「考えています」
「どこまで?」
「形と、順番と、時間軸までです」
セレナは、少しだけ眉を上げる。
「本気?」
「ええ」
「曖昧な“いつか”じゃない?」
「違います」
即答だった。
セレナは、腕を組んだまま続ける。
「じゃあさ」
「“親友”とか、“相棒”とか」
何でもない言葉みたいに。
「それがどういう意味か、分かって使ってる?」
レオンは、少し考えてから答える。
「逃げ場ではない、という意味だと思っています」
「ほう」
「楽な言葉でもありません」
「責任が増えるだけです」
セレナは、歩きながら小さく笑った。
「重いわね」
「自覚しています」
「じゃあ」
間を詰める。
「それを背負ったまま、夢を叶える難しさも分かってる?」
「はい」
「途中で、何度も止まるわよ」
「承知しています」
「失うものもある」
「ありますね」
「それでも?」
少しだけ、声が低くなる。
「それでも、行く?」
レオンは、歩みを止めない。
「行きます」
短く、揺れない。
セレナは、何も言わずに数歩進んでから、
ふっと肩の力を抜いた。
「……よし」
急に、声が明るくなる。
「合格」
「何のですか」
「今の回答」
振り返って、にやっと笑う。
「今日はね」
一拍置いて、宣言する。
「私のおごりで、外食よ!」
レオンは、目を瞬かせた。
「急ですね」
「いいでしょ」
「ちゃんと分かってるって確認できたし」
歩き出しながら、続ける。
「それに、今日は頑張った日なんだから」
「誰が、ですか」
「私」
迷いのない言い切り。
「……では、ご馳走になります」
「当然」
並んで歩く距離が、また自然に揃う。
特別な約束はしない。
将来の話も、これ以上はしない。
ただ、
今日は一緒にご飯を食べる。
セレナは一日ご機嫌だった。
※あとがき
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