第40話 奢り
「……で、本当に何もないんですか?」
レオンは少し距離を取るようにソファの端に腰を下ろした。
その正面で、セレナはいつもの位置にどさっと寝転がり、片足をソファの外に投げ出す。ぶらぶら、ぶらぶら。揺れが大きい。
「ないない。今日の私はとても健全」
「“とても健全”って言う人ほど信用できないんですが」
「ひどいわね。英雄を疑うの?」
「英雄は疑いません。英雄が急に機嫌が良くなる現象を警戒しているだけです」
セレナはぷっと吹き出した。
「なによそれ。観測対象みたいな言い方」
「実際、僕の大事な観測対象ですから」
「失礼ねえ。私はいつもこんな感じよ?」
「いつもは、ここまで足を振り回していません」
「今日は特別にサービスよ。揺れ幅増量中」
「……家具が壊れない程度でお願いします」
「大丈夫よ、壊れる前にあなたが直すでしょ?」
「前提がひどい」
そう言いながらも、レオンの声はどこか柔らかかった。
セレナは天井を見たまま、何でもないことを思い出したように言う。
「ねえレオン重要案件があるんだけど」
「はい」
レオンの背筋が、重要案件という言葉を聞いて伸びる。
「今日ね、パン屋さんの前を通ったら、新しい焼き菓子が出てたの」
「……それは重要案件ですか?」
「重要よ。だって見た目が四角だった」
「味の情報が一切ないんですが」
「そこがいいのよ。四角なのに甘そうって、ちょっとずるくない?」
「形状にずるさを求めないでください」
「今度一緒に買いに行きましょう」
「はいはい、楽しみですね」
あまりにも自然な返事に、セレナは満足そうに足をさらにぶらぶらさせる。
「ね、今日のあなたちょっと大人しいわよ」
「……そうでしょうか」
「そうよ。いつもなら『セレナ、それは栄養が偏ります』とか言うくせに」
「今日は、偏るほどの話題が出ていないだけです」
「えー。私の四角い焼き菓子論、深かったと思うけど?」
「深さの方向が違います」
セレナはくすくす笑った。
「ま、いいわ。今日はね、こうやってだらだら話す日なの」
「……そういう日も、悪くありませんね」
「でしょ?」
足の揺れが、少しだけ落ち着く。
何も決めない。
何も詰めない。
ただ、部屋に同じ時間が流れている。
レオンはそれを確認するように、そっと息を吐いた。
「……夕飯、どうします?」
「考えてない!」
「即答ですね」
「だって今日は“考えない日”だもの」
「了解しました。では、考えない方向で考えます」
「それ意味ある?」
「僕なりには」
セレナはまた笑う。
その笑い声が、部屋の中で軽く跳ねた。
とりあえず――本当に、解決したらしい。
ソファに座り直したレオンは、改めてセレナの様子を観察してから、ようやく肩の力を抜いた。
声の張りも、足のぶらぶらも、笑い方も、全部いつも通りだ。いや、いつも以上に軽い。
「……よかったです」
思わず漏れたその一言に、セレナがぴくっと反応する。
「なによ急に」
「いえ。なんとなく」
「なんとなくって便利な言葉よね」
そう言いながらも、セレナはご機嫌そうに片足を振り続けている。
そして、唐突に指を一本立てた。
「いい? これ大事なことだから言っとくわね」
「はい」
「悩みがあるときは、必ずお互い相談すること!」
勢いよく宣言され、レオンは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……急ですね」
「急だけど重要!」
「理由を聞いても?」
「聞くことが大事だからよ!」
胸を張って言い切るセレナに、レオンは小さく息を吐いてから頷いた。
「わかりました。以後、徹底します」
「よろしい!」
満足そうにうなずいたあと、セレナは天井を見上げる。
少しだけ間があった。
そして、まるで思い出したように、軽い調子で聞いてくる。
「ねえレオン」
「はい」
「……私との将来の夢、楽しみにしてる?」
あまりにも自然な問いかけだった。
レオンは少し考える素振りをしてから、いつも通りの口調で答える。
「まあ。そのために全力で努力していますので」
すると、セレナの口元がにやっと上がった。
「まあ当たり前よね」
片足の揺れが、さらに大きくなる。
「親友兼相棒の私たちの将来だものね!」
声の明るさが一段階上がる。
セレナはものすごくご機嫌だった。
レオンはその様子を見て、ほんの少しだけ笑った。
「……安心しました」
「安心?」
セレナが首をかしげる。
「なんか重そうな顔して入ってきたものね、家に」
「ああ……」
セレナはぱちんと手を打つ。
「そっか! 心配してたのね!」
立ち上がりそうな勢いで身を乗り出す。
「大丈夫よ! 私はちゃんとレオンと一緒に将来の夢を追ってるわよ!」
「……」
「そんなこと心配しなくていいの! 一緒の方向を向いて、一緒の夢を追ってるんだから!」
言い切る声に、迷いはなかった。
レオンは一瞬だけ言葉を探して、それから静かに答える。
「ああ……それなら、よかったです」
「でしょ?」
セレナはふふん、と満足そうに鼻を鳴らす。
なぜかセレナは、レオンが自分と同じ悩みを持っていたんだ、と勘違いを始めた。
自分の悩みとレオンの悩み?が同じだと勘違いしているセレナは、さらに気分が良くなった。
ソファの上で、いつもの姿勢。
いつもの距離。
いつもの空気。
レオンはそれを確認するように、もう一度だけ息を吐いた。
「今日は外食いくわよ!」
宣言は唐突だった。
ソファに腰を下ろしかけていたレオンが、思わず動きを止める。
「重く悩んでたレオンに、私が今日は奢ってあげるの!」
「……え?」
「だから! 奢り!」
「え、あ、いえ……」
「遠慮禁止! 団長命令!」
勢いだけで押し切られ、レオンは苦笑する。
「……ありがとうございます」
その返事を聞いた瞬間、セレナは満足そうにうなずいた。
「よろしい! じゃあ準備しなきゃ!」
そう言って、さっさと自分の部屋へ消えていく。
――切り替えが早い。
レオンはその背中を見送りながら、先ほどまで胸に溜まっていた重さが、もうほとんど残っていないことに気づいた。
向かったのは、結局いつものレストランだった。
特別高級というわけでもなく、かといって安っぽくもない。
家族連れや仕事帰りの人が多く、いつ行っても同じ匂いと同じ音がある場所。
席に案内されると、セレナは慣れた動作でメニューを開く。
「さて問題です」
「なんでしょう」
「私は何を頼むでしょうか」
「……肉料理ですか?」
「即答やめなさい!」
笑いながらも、結局セレナは肉料理を選ぶ。
「ほら当たってるじゃないですか」
「当たったけど! 当てられると悔しいの!」
レオンはスープと軽めの主菜を頼んだ。
「少なめですね」
「あとで足りなければ追加しますので」
「ほんと仕事みたいな食べ方するわね」
料理が来るまでの間、他愛ない話が続く。
「そういえばさ、今日街で変な靴見たのよ」
「変な靴、ですか」
「つま先だけやたら尖ってて、絶対つまずくやつ」
「流行でしょうか」
「だったら流行ってほしくないわね」
料理が運ばれてくる。
セレナは一口食べて、満足そうに頷いた。
「うん、安定の味」
「それ、褒めてますか?」
「最高の褒め言葉よ。安心して食べられるってことだもの」
レオンもスープを口にする。
「……確かに」
一瞬だけ沈黙が落ちるが、それは気まずいものではない。
「ねえレオン」
「はい」
「こういう日が続くといいわね」
さらっと言われたその言葉に、レオンは少し考えてから答える。
「ええ。悪くないと思います」
セレナはにっと笑った。
「でしょ? だから今日は奢りなの!」
理由はよくわからないが、勢いだけは十分だ。
食事が終わる頃には、外はすっかり夜の気配になっていた。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして! また悩んだら連れてくるから覚悟しなさい!」
「そのときは、今度は僕が払います」
「それはそのとき考える!」
そんな会話を交わしながら、二人はいつもの道を並んで帰る。
特別な出来事はない。
けれど、何も問題のない夜だった。
――それで十分だった。
※あとがき
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