第4話 おかえり――
天蓋の中は、静かだった。
いや、正確には――
騒がしさが、もう必要ない静けさだった。
担架はない。
血の匂いも薄い。
衛生兵たちは、道具を片付けながら笑っている。
誰かが、水を配っている。
誰かが、肩を叩き合っている。
勝った後の空気だった。
セレナは、その中に一歩踏み込んで、少しだけ戸惑った。
ここは、後衛だ。
ついさっきまで、命が流れ込んできていた場所だ。
それがもう、終わっている。
視線を走らせて――
すぐに、見つけた。
中央から少し外れた場所。
輪にも入らず、
誰とも話さず、
ただ立っている白衣。
浮いていた。
勝利の空気の中で、
ひとりだけ、場に馴染んでいない。
――レオン。
考えるより先に、足が動いた。
声が、出た。
「レオン!」
距離が詰まる。
そのまま、勢いで――
抱きついた。
「おかえり」
間を置かずに、続ける。
「遅いわよ」
胸に顔を押しつけて、息を吸う。
「……やっと戻ってきたのね」
言葉が、勝手に零れる。
「ほんとに」
腕に力が入る。
「やっと」
胸の奥に溜めていたものが、全部、声になりそうだった。
レオンは、動かない。
抱き返さない。
でも、引き剥がしもしない。
少しだけ、困ったように息を吐く。
「……セレナ」
その呼び方で、さらに安心してしまう。
「何よ」
顔を上げずに言う。
「久しぶりなんだから、それくらい――」
「戻ってきたわけじゃないんです」
その言い方が、引っかかった。
セレナは顔を上げる。
「……は?」
レオンは、視線を逸らしたまま言う。
「今回は、判断として前線に出ただけで」
言葉を選んでいる。
いつもの、少し回りくどい言い方。
「戻る、という意味では――」
セレナは、思わず笑った。
「もう」
肩を軽く叩く。
「そういうときはね」
顔を覗き込む。
「ただいま、って言うの」
冗談めかして。
でも、本気で。
「変な言い回ししなくていいのよ」
レオンは、言葉に詰まる。
「いや……」
困ったように眉を寄せる。
「それは……」
そこで、空気が変わった。
足音。
布靴の、乾いた音。
二人の横に、人影が立つ。
「確認を」
感情のない声。
振り向くと、制度側の人間だった。
汚れていない服。
戦場に似合わない、整った身なり。
書類を胸に抱えている。
「英雄最高医様に――」
その言葉が、途中で止まる。
視線が、セレナとレオンの距離に落ちたからだ。
一瞬の沈黙。
セレナは、まだ知らない。
この瞬間が、
自分の勘違いを、
ゆっくりと現実に引き戻していく入口だということを。
レオンが、配置換えとして自分のもとに戻ってきたのだと、
セレナは疑うことすらしていなかった。
今は、ただ。
「ただいま」を、
聞けると思っていた。
それだけだった。
「……今回の一時的なご助力、ありがとうございました」
制度側の人間は、感情の起伏のない声でそう言った。
礼儀としては正しい。
言葉の形としても、何一つ間違っていない。
――だからこそ。
セレナの中で、何かが音を立てて崩れた。
「……は?」
声が、思ったより低く出た。
聞き間違いだと思った。
意味を取り違えたのだと思った。
だから、もう一度聞こうとした。
「……一時的、って」
制度の人間は、淡々と続ける。
「本件において、英雄最高医殿の判断と処置は――」
「ちょっと待って」
セレナの声が、空気を切った。
一歩、前に出る。
「何を言ってるの?」
視線が、真っ直ぐ制度側を射抜く。
「一時的?」
言葉を噛み砕くように、もう一度。
「ここにいるじゃない」
指が、レオンを指した。
「生きてる」
「立ってる」
「今も、ここに」
息が荒くなる。
「戻ってきたんでしょう?」
言葉が、早くなる。
「戻ってきて、助けて、勝って」
「それで、今ここにいる」
「それの、どこが一時的なの?」
制度側は、表情を変えない。
「一時的な判断として、第五部隊に立たれただけです」
その一言で、セレナの中の怒りが形を持った。
「判断?」
笑いそうになる。
でも、笑えない。
「何それ」
「判断で戻ってきた? 助力?」
声が震える。
「人をなんだと思ってるの」
「物みたいに」
「使ったら返す、みたいな言い方して」
一歩、さらに詰め寄る。
「違うでしょう」
「この人は」
また、レオンを見る。
今度は、はっきりと。
「ここで命を救って」
「戦況をひっくり返して」
「私を、生き返らせて」
言葉が詰まる。
でも、止まらない。
「それで……それで、今ここに立ってるの」
「それを、一時的って言うの?」
制度側の人間は、視線を逸らさない。
「英雄最高医殿は、恒常的な配置ではありません」
その言葉が、刃になった。
セレナの胸に、まっすぐ突き刺さる。
「……配置?」
声が、低く落ちる。
「配置って、何」
「この人は、ここにいる」
「生きてる」
「戻ってきた」
「それで、いいじゃない」
言葉が、ほとんど叫びになる。
「何が足りないの」
「何が、間違ってるの」
「あなたたちよ」
指先が震える。
「間違ってるのは」
「あなたたちのほうじゃない」
一瞬、天蓋の中が静まり返る。
誰も、口を挟まない。
制度側の人間は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「感情的になられても、事実は変わりません」
その瞬間。
セレナは、完全に理解できなくなった。
言葉が、意味を結ばない。
事実?
変わらない?
目の前にいる人間より、何が事実だというのか。
「……レオン」
初めて、後ろを振り返る。
縋るように。
「戻ってきたんでしょう?」
声が、少しだけ弱くなる。
「違う、なんて言わないで」
「ねえ」
レオンは、答えない。
視線を落とし、静かに息を整えている。
その沈黙が。
何よりも、残酷だった。
セレナは、そのとき初めて気づく。
自分が、
喜びだけで走ってきたことに。
考えが、
未来を先取りしすぎていたことに。
この再会が、
刃になる可能性を、
何一つ想像していなかったことに。
胸の奥で、何かが冷えていく。
それでも、まだ。
この時点では。
その刃が、
どれほど深く、遅れて刺さるものかを、
セレナは知らなかった。
セレナは、天蓋を飛び出した。
誰かに止められることもなかった。
止める声も、伸びる手も、もう耳に入らなかった。
外の空気が冷たい。
それが、やけに現実的で――
胸の奥が、急に耐えきれなくなる。
数歩、走って。
それ以上、足が動かなくなった。
膝をつく。
砂利が膝に当たる感触があるのに、どうでもよかった。
涙が、落ちる。
一滴じゃない。
止めようとしても、止まらない。
さっきまでの涙とは、違った。
嬉しさで溢れたものじゃない。
期待が叶ったから零れたものでもない。
重たくて、
遅れてきて、
胸の奥に溜まり続けていたものが、
ようやく外に出てきただけの涙だった。
「……っ」
声を出そうとすると、喉が詰まる。
息が、うまく吸えない。
――ばかみたい。
そう思っても、止まらない。
足音がした。
走る音じゃない。
急いではいるけれど、乱れていない足音。
分かってしまう。
セレナは顔を上げない。
近くで、足音が止まる。
少しの沈黙のあと、声。
「……すみません」
その一言で、何かが弾けた。
セレナは立ち上がり、振り返って――
レオンの服を、掴んだ。
白衣じゃない。
その下の服。
指が震える。
「謝るくらいなら……!」
声が裏返る。
「戻ってくればいいじゃない!」
掴む力が強くなる。
「なんで、謝るのよ」
「なんで、そんな顔で言うの」
涙が、止まらない。
「戻るって言えばいいだけでしょう!」
胸を叩くように、掴む。
「戻るって」
「今度こそ戻るって」
「それだけで……」
言葉が、続かない。
「……離さないから」
子供みたいな声になった。
「戻るって言うまで、離さない」
自分でも分かっている。
理屈じゃない。
格好も悪い。
隊長が言うことじゃない。
でも、止まらなかった。
「この三年……」
声が、急に小さくなる。
「……何があったか」
視線が落ちる。
「どんな気持ちで……」
唇が震える。
「……待ってたか」
喉が鳴る。
「レオンなんかに、分かるはずない」
弱々しい声だった。
怒鳴る力も、もう残っていない。
「朝起きて」
「今日こそ戻ってくるかもしれないって思って」
「戦場に出て」
「帰ってきて」
「……何もなくて」
指の力が、少し緩む。
「それを、毎日」
「三年よ」
笑いそうになって、失敗する。
「……長いわよ」
「すごく」
涙が、また落ちる。
「また戻ってくるかもしれないから」
「恥ずかしくない自分でいなきゃって」
「ちゃんと強くならなきゃって」
「隊長になって」
「英雄って呼ばれて」
「それで……」
声が掠れる。
「それで、また期待して」
首を振る。
「無理よ」
はっきり言う。
「もう、無理」
「これ以上、期待して頑張れなんて」
「そんなの……」
レオンの服を掴み直す。
レオンは、何かを言いかけて、やめた。
「私には、できない」
沈黙。
レオンは、逃げない。
手を振り払わない。
ただ、静かに聞いている。
それが、余計につらい。
「なんで、そんなに静かなのよ」
声に、苛立ちが滲む。
「何か言いなさいよ」
「いつもみたいに」
「正しいこと、言えばいいじゃない」
睨み上げる。
「私は、正しくないって?」
「待った私が、間違ってたって?」
レオンは、ゆっくりと息を吸った。
そして、低い声で言う。
「間違っていません」
即答だった。
セレナは、言葉に詰まる。
「……じゃあ、なんで」
声が、掠れる。
「なんで、戻らないの」
レオンは、視線を逸らさない。
「戻る、という形を」
一拍。
「選べない理由が、あります」
その言い方が、
答えであり、答えでないことが分かってしまう。
セレナは、笑った。
泣きながら。
「ずるい」
「ほんとに」
「……ずるい人」
掴んでいた手が、少しだけ下がる。
でも、離れない。
この時点でも、まだ。
セレナは知らない。
この言葉たちが、
この夜が、
あとになって、何度も自分を切りつける刃になることを。
今はただ、
泣いて、掴んで、
離れられないでいるだけだった。
※あとがき
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