第38話 一人で生きていく覚悟
頭の中が、ずっと散らかったままだった。
整理しようとすると、余計に絡まる。
考えないようにすると、逆に浮かび上がる。
セレナは朝から、落ち着かなかった。
剣を整えても、
書類に目を通しても、
どこかで意識が滑る。
——考えすぎ。
そう言い聞かせて、息を整える。
今日は衛生兵の救助訓練の指導だ。
第六部隊向けだが、英雄最高医レオンが中心になる。
セレナは団長として、同行するだけ。
いつも通りの仕事。
いつも通りの配置。
そのはずだった。
訓練場は、昼前からざわついていた。
担架の準備、治療器具の確認、模擬負傷者の配置。
若い衛生兵たちの声が交錯する。
レオンは、いつも通り落ち着いていた。
指示は簡潔で、声は穏やか。
それだけで場が整う。
セレナは少し離れた位置から全体を見る。
誰がどこにいて、どんな動きをしているか。
——それは、団長としての癖だ。
だから、分かってしまった。
第六部隊の時と同じような視線。
距離の取り方。
声をかけるタイミング。
——ああ。
今度は、第3部隊の衛生兵だ。
名前も、所属も、だいたい知っている。
真面目で、優秀で、現場評価も高い。
年齢も、レオンと近い。
セレナは、無意識に呼吸を浅くしていた。
訓練の合間、
水分補給の時間。
その衛生兵が、少し緊張した様子でレオンに近づく。
「英雄最高医殿……少し、お時間よろしいでしょうか」
「はい。何でしょう」
声は、いつも通りだ。
セレナは、視線を外した。
聞かない。
聞かないつもりだった。
でも、耳は塞げない。
「……将来的に、そういう……結婚、とか」
一瞬、空気が止まる。
訓練場のざわめきが、遠くなる。
セレナの背中が、こわばった。
レオンは、少し考える間を置いた。
それは、誠実さから来る癖だと知っている。
「そういう未来も……面白いものだとは思います」
淡々とした声。
否定でも、肯定でもない。
「人生の選択肢として、ですね」
それだけ。
それ以上は、言わなかった。
衛生兵は、少し安心したように、少し残念そうに、
それでも深く頭を下げて、その場を離れた。
——それだけのやり取り。
何も、決まっていない。
何も、約束されていない。
分かっている。
分かっているのに。
セレナの胸の奥が、急に冷えた。
——ああ。
そうか。
私。
頭の中で、言葉にならない声が落ちていく。
私は、一人なんだ。
親友として。
相棒として。
隣に立つ未来を、
当たり前のように想像していた。
でも。
それは、
私が勝手に思っていただけで。
レオンの未来には、
ちゃんと「別の誰か」が入り得る。
それが、普通で。
自然で。
正しい。
——私は。
その未来に、
含まれていない。
訓練は続いている。
号令がかかり、担架が動き、声が飛ぶ。
セレナは、ふらりと一歩下がった。
「……少し、失礼」
誰にともなく言って、
訓練場の端を抜ける。
足が、重い。
トイレの扉を閉めた瞬間、
張りつめていたものが、切れた。
個室に入るなり、
壁に手をつく。
息が、うまく吸えない。
——おかしい。
戦場でも、
もっとひどい状況はあった。
でも。
胸の奥が、
ぎゅっと潰される。
「……なんで」
声が、かすれる。
なんで、私は。
ずっと。
一生そばにいるって、
何の確認もなく、
当然のように思っていたんだろう。
親友だから?
相棒だから?
そんな保証、
どこにもなかった。
涙が、落ちる。
止めようとすると、余計に溢れる。
「……ばかみたい」
自分に向けて、吐き捨てる。
英雄として。
団長として。
判断してきた。
割り切ってきた。
なのに。
一番大事なところで、
何も考えていなかった。
レオンの人生が、
自分とは別に進む可能性を。
——それを想像する勇気が、なかった。
トイレの中は、静かだ。
外では、訓練が続いている。
世界は、何も変わっていない。
変わったのは、
セレナの中だけだった。
涙を拭っても、
胸の奥の冷たさは消えない。
——私は。
結局。
一人で生きていく人間なんだ。
そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
声を殺して、
セレナは、泣き続けた。
水で顔を洗い、何度か深呼吸をしてから、セレナは鏡を見た。
目は赤い。
けれど、致命的ではない。
——大丈夫。
そう判断して、口角を少しだけ上げる。
団長としての、いつもの顔。
外に出ると、訓練場の音が一気に戻ってくる。
号令、足音、担架が地面を擦る音。
人の声。
なのに。
どこか遠い。
耳には届いているのに、
頭の中に入ってこない。
セレナは歩きながら、
自分の中で何かが固まっていくのを感じていた。
——私は、一人で生きていく。
さっき、そう思った。
思ってしまった。
そして、人間は一度そう思い込むと、
それを前提にして世界を組み立て始める。
——一人なら。
——一人なんだから。
そういう考えが、勝手に増えていく。
訓練場に戻ると、レオンがこちらに気づいて声をかけてきた。
「もう大丈夫ですか」
「ええ。問題ないわ」
声は、驚くほど普通だった。
自分でも、少し怖くなるくらい。
レオンは、それ以上踏み込まない。
いつも通りだ。
——それが、今はつらい。
「心配されない」という事実が、
一人で生きる前提を補強してしまう。
セレナは指示を出す。
団長として、必要なことを、必要なだけ。
誰も異変に気づかない。
それが、
正しい。
正しいはずなのに。
胸の奥で、じわじわと痛みが増していく。
——期待しなければ、傷つかない。
——最初から一人だと思えば、失わない。
そんな考えが、
慰めのように見えて、
実際は自分を追い詰めていく。
音が、さらに遠くなる。
剣が地面に当たる音も、
誰かの笑い声も、
まるで水の中にいるみたいに、鈍い。
戦場でのつらさとは、まるで違う。
戦場の苦しさは、
外から殴られる痛みだ。
でも、これは違う。
これは、
自分で自分を閉じ込めていく感覚。
ふと、思い出す。
レオンが戻ってくるか分からなかった、あの三年間。
待つとも決めていないのに、
待ってしまっていた時間。
期待してはいけないと思いながら、
どこかで信じてしまっていた時間。
あの時と、よく似ている。
——戻ってこないかもしれない。
——それでも、待ってしまう。
そして、
待つ自分が一番みじめだと分かっているのに、やめられない。
今度は、もっとはっきりしている。
待つ理由が、ない。
約束も、言葉も、何もない。
それなのに、
胸の奥が、勝手に痛む。
「……集中して」
自分に言い聞かせる。
団長として。
英雄として。
私は、
一人で立てる。
一人で、判断できる。
一人で、生きていける。
そう思えば思うほど、
胸の奥が冷えていく。
——これが、正解なんだ。
そうやって決めつけた瞬間、
世界が一段、遠くなった。
訓練が終わるころ、
セレナはいつも通りの顔で、いつも通りに号令をかけていた。
誰も気づかない。
誰にも、分からない。
それが、
今のセレナにとって、
一番きついことだった。
訓練が終わり、撤収の指示が出る。
セレナは最後まで団長としての役割を全うした。
声は安定していて、判断も迷いがない。
誰の目にも、いつも通りだ。
片づけが一段落したところで、
レオンが自然に隣に来る。
「そろそろ戻りましょうか」
それだけ。
特別な意味も、強調もない。
ただの、いつもの一言。
「……ええ」
答えた瞬間、
胸の奥で、何かがほどけた。
ほんの一瞬。
気づかれない程度に。
——ああ。
一緒に帰るんだ。
それだけで、
張りつめていたものが、少し緩む。
歩き出すと、足取りが軽くなった気がした。
音が、少しだけ近くなる。
遠かった世界が、戻ってくる。
——ばか。
すぐに、そう思う。
こんな一言で。
ただ一緒に帰る、それだけで。
さっきまで、
「一人で生きていく」と決めたはずなのに。
少し救われてしまった自分が、
情けなくて、腹立たしい。
期待しないと決めた。
もう、一人だと思うと決めた。
それなのに。
たった一言で、
心が勝手に反応してしまう。
セレナは、視線を前に向けたまま、口を開く。
「……団員の動き、悪くなかったわね」
「ええ。特に第3部隊の衛生兵は成長していました」
「そうね」
普通の会話。
仕事の話。
それができてしまう自分が、
余計につらい。
——期待するな。
——一人だ。
心の中で、何度も言い聞かせる。
でも、隣を歩く気配が消えない限り、
その言葉は、どこか空回りしていた。
帰路の途中、
夕方の光が街を染める。
人の声。
馬車の音。
日常の匂い。
セレナは、ふっと息を吐いた。
救われてしまった。
それが、
何よりも、悔しかった。
——でも。
今日は、
その感情を押し殺すだけで、精一杯だ。
セレナは何も言わず、
レオンの隣を歩き続けた。
救われたことを、
誰にも知られないように。
※あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし何か残るものがあれば、★★★★★で執筆の励みになります。




