第37話 将来、そして地獄
扉の向こうで、声がした。
玄関先。
靴音がひとつ、少しだけ近づいて、止まる。
セレナは、廊下の途中で足を止めた。
声の主が誰かは、すぐに分かった。
「……突然すみません、英雄最高医」
若い女の声。
はきはきしているが、どこか緊張が混じっている。
第六部隊の衛生兵だ。
何度か顔を合わせたことがある。真面目で、仕事ができて、評判もいい。
「何かありましたか」
レオンの声は、いつも通り落ち着いている。
セレナは、そのまま動けなくなった。
聞くつもりはなかった。
でも、戻る音を立てるのも、扉を開けるのも、なぜかできなかった。
「……あの」
一拍。
「私、ずっと……英雄最高医のことを尊敬しています」
その言葉に、胸の奥がひやりとする。
尊敬。
よく聞く言葉だ。
ここからどう続くかも、知っている。
「戦場でも、後方でも、判断が正確で……
命を扱う人として、あんな医師を初めて見ました」
セレナは、無意識に拳を握っていた。
これは、断れないやつだ。
誠実に返さなきゃいけないやつだ。
「……それだけじゃありません」
声が、少しだけ震える。
「個人的な感情です。
もし、ご迷惑でなければ……」
そこで、言葉が切れた。
セレナの頭に、別の音が重なる。
——もし。
——もし、レオンが結婚したら。
——この家はどうなる?
——一緒に過ごす日常は?
——田舎で診療所をやるって、あの話は?
唐突に、すべてが「仮定」になる。
今まで当たり前だったものが、
ほんの一言で終わってしまうかもしれない気がして。
セレナは、壁に背中を預けた。
息が浅くなる。
聞きたくない。
でも、耳が離れない。
これは、戦場じゃない。
剣も、魔法も、判断もいらない。
それなのに。
こんなにも、怖い。
セレナは、その場を離れた。
最後まで、聞かなかった。
聞けなかった。
足音を殺して、廊下を戻る。
背中に、玄関の空気がまだ張り付いている気がした。
胸が、どくん、と鳴る。
息を吸うと、少し苦しい。
——落ち着け。
そう思っても、心臓は言うことを聞かない。
どく、どく、と速い。
部屋に戻る前に、深く一度、息を吐いた。
いつも通り。
何も聞いてない。
そういう顔を作る。
少しして、玄関の扉が閉まる音がした。
「おかえりなさい」
セレナは、ソファに座ったまま言った。
声は、たぶん普通だ。
「ただいま戻りました」
レオンは、いつも通りの調子だった。
外套を外し、机に置く。
——大丈夫。
そう思った瞬間だった。
「第六部隊の衛生兵の方が、少し相談があって」
胸が、また鳴る。
今度は、さっきより強く。
「ふうん」
セレナは、足をぶらぶらさせた。
いつもの癖。
いつもの動き。
「モテるのね、レオン」
冗談のつもりだった。
軽く。
からかうみたいに。
レオンは、少し考えてから言った。
「どうなんでしょう。
最近、そういう話は増えたかもしれません」
——増えた。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「立場もありますし、年齢的にも……
そういう時期なのかもしれませんね」
どくん。
音が、耳の内側で鳴った気がした。
セレナは笑った。
ちゃんと笑えたと思う。
「へえ。大変ねえ」
「いえ、大変というほどでも」
レオンは悪気なく続ける。
「将来の話をされることもありますし、
責任ある立場として、きちんと考えないといけないなと」
——将来。
その言葉が、胸に落ちる。
息が、少し浅くなる。
空気が足りない。
「……そう」
声が、わずかに遅れた。
でも、気づかれてはいない。
「レオンも、そういうこと考える年だものね」
自分で言っておいて、胸が痛んだ。
「はい」
即答だった。
その一言で、
何かが、きし、と音を立てた気がした。
壊れる音。
でも、まだ形は保っている。
セレナは、足をぶらぶらさせるのをやめた。
両手を、ぎゅっと握る。
——大丈夫。
——私は、いつも通り。
そう言い聞かせる。
「私は別に気にしてないわよ」
先に言った。
逃げ道を、自分で作るみたいに。
「そうですか」
レオンは、ほっとしたように言う。
「セレナがどう思うかは、気になっていたので」
その言葉で、
胸の奥が、ひび割れた。
気になっていた。
でも、止める理由にはならない。
セレナは、笑ったまま、天井を見る。
「私は団長よ。部下の幸せを喜ばないと」
正しい言葉。
立派な言葉。
でも。
心臓は、まだ速いままだ。
どく、どく、と鳴り続けている。
壊れそうな音を、
誰にも聞かれないようにしながら。
「ちょっと、部屋に行くわね」
セレナはそう言って立ち上がった。
声は、いつも通りだった。
「はい。無理なさらず」
背後から聞こえたレオンの声に、振り返らない。
振り返ったら、顔が崩れる気がした。
扉を閉める。
鍵は、かけなかった。
そのまま、背中を扉に預ける。
——はあ。
息が、うまく吸えない。
胸が、苦しい。
やっと、顔が歪む。
眉が下がり、口元が震える。
さっきまで作っていた表情が、音もなく落ちた。
同い年だ。
私も、レオンも。
同じ年で、
同じだけ時間が流れていて、
同じだけ「そういう時期」だ。
頭では、わかっている。
でも。
私は、浮ついた話なんて一つもない。
誰かに想われる話も、
誰かに将来を匂わせられる話も。
いつも、戦場だった。
いつも、判断だった。
いつも、背負う側だった。
床に、ゆっくり座り込む。
膝を抱える。
「……安心した、って」
小さく、声が漏れる。
レオンは、そう言った。
私がどう思うか気になっていた、と。
そして、安心した、と。
——何に?
私が反対しないことに?
私が何も言わないことに?
それとも——
「もう、決めてる……?」
声が、震える。
誰かとの将来を。
結婚相手を。
もう、決めている?
私の知らないところで。
私が入れない場所で。
胸が、どくん、と強く鳴る。
さっきより、はっきり。
耳の奥で響く。
息が浅くなる。
手が、少し震える。
——違う。
——考えすぎ。
そう言い聞かせるのに、
頭が追いつかない。
もし。
もし、レオンが誰かを選んだら。
この家は?
この距離は?
あの夢は?
田舎で、診療所をやる話。
二人で、静かに暮らす話。
——終わる?
胸の奥で、何かがきしむ。
壊れそうな音。
でも、まだ壊れていない。
だから余計に、苦しい。
「……私、なに期待してたんだろ」
答えは、出ない。
ただ、焦りだけが残る。
選ばれる側になれなかった不安。
置いていかれる予感。
何も言えない自分への苛立ち。
セレナは、額を膝に押しつけた。
息を、整えようとする。
——落ち着け。
——私は、団長。
——私は、平気。
何度も、繰り返す。
でも、心臓はまだ速い。
どく、どく、と。
一人になって、
やっと出てきた本当の音だった。
——恥ずかしい。
その言葉が、胸に落ちた。
なんで、考えなかったんだろう。
なんで、レオンの将来が
別の方向に進む可能性を、最初から考えもしなかったんだろう。
床に座ったまま、セレナは動けない。
自分がしてきたことが、ひとつずつ浮かんでくる。
将来の話。
夢の話。
田舎で診療所をやるって話。
——全部。
自分の都合だった。
「……最低」
声が、かすれる。
レオンがどうしたいか。
誰と生きたいか。
どんな人生を選びたいか。
ちゃんと、聞いたことがあっただろうか。
なかった。
安心した、と言われて。
正しい判断だ、と言われて。
それだけで、勝手に——
「一緒にいる前提で……」
喉が詰まる。
息が、止まりそうになる。
私は、
自分の夢を語っていただけだ。
レオンの人生を、
勝手に横に並べて、
勝手に未来を描いて、
勝手に安心していた。
——何様なんだ。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
涙が、落ちる。
止まらない。
ぽた、ぽた、と床に落ちていく。
「……なに、やってるのよ」
嗚咽が混じる。
団長として。
判断する側として。
背負う側として。
ずっと、
間違えないように生きてきたつもりだった。
でも。
この一番大事なところで、
私は何も見ていなかった。
ただ、
「一緒にいてくれる」と信じて、
「離れない」と思い込んで、
「当たり前」みたいに扱って。
涙が、あふれる。
拭っても、拭っても、
止まらない。
肩が、小さく震える。
「……壊れる」
ぽつりと、こぼれる。
期待を背負うのが怖い。
役割が重いのが嫌。
同じ地獄に戻るのが怖い。
——それよりも。
今は、
失うかもしれないという考えが、
一番怖かった。
レオンが、
別の誰かの人生を選ぶこと。
それが、
正しくて、自然で、
何も悪くないことだという事実が、
胸を裂く。
「……私は」
声にならない。
自分が、
こんなにも弱くて、
こんなにも独りよがりで、
こんなにも臆病だったこと。
知られたくなかった。
でも、
もう、隠せない。
涙に濡れた視界の中で、
セレナは膝を抱えたまま、
小さく丸くなった。
——これが、私の地獄なのかも。
戦場じゃない。
命のやり取りでもない。
誰にも見えない場所で、
誰にも責められないまま、
自分で自分を壊していくのが最悪だった。
——違う。
悪いのは、レオンじゃない。
床に落ちたまま、セレナはゆっくりと息を吸う。
でも、胸は少しも楽にならない。
悪いのは——
「……私だ」
声が、震えた。
親友として。
相棒として。
隣に立つ人間として。
離れる未来を、一度も想像しなかった。
それが、どれほど傲慢なことだったのか。
今になって、ようやく分かる。
レオンは「一緒にいる」と言ったことはない。
「ずっと隣にいる」と約束したこともない。
それなのに。
同じ家に帰って。
同じソファに座って。
同じ夢を語って。
——それだけで。
勝手に、
未来まで共有している気になっていた。
「……最低だわ」
額を膝に押し付ける。
相棒なら。
親友なら。
離れる可能性も、受け入れる覚悟を持つべきだった。
それをしなかった。
怖かったからだ。
失うのが。
変わるのが。
今の形が崩れるのが。
だから、
見ないふりをした。
レオンの人生が、
自分とは別の方向に進む可能性を。
「……考えないで」
無意識に、
都合のいい未来だけを選び取っていた。
それは、
親友のすることじゃない。
相棒の態度でもない。
ただの——
甘えだ。
胸が、ずきりと痛む。
自分が「選ばれる側」だと思っていたことに、
今さら気づいてしまう。
選ばれるかどうかなんて、
最初から分からないのに。
選ぶ権利は、
レオンにあるのに。
「……離れる未来を」
声が、喉で切れる。
「……想像もしなかった」
涙が、また落ちる。
これは、
戦場の地獄じゃない。
誰かに押し付けられた重圧でもない。
自分が作った、地獄。
信頼と安心の名を借りて、
相手の人生を自分の横に固定していた。
それに気づいてしまった今、
逃げ場はない。
セレナは、静かに目を閉じた。
壊れそうなのは、
不安のせいじゃない。
自分の未熟さを、
真正面から見てしまったからだった。
※あとがき
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