第35話 ドレス選び
朝の光が、カーテンの隙間から部屋に落ちていた。
柔らかくて、静かで、戦場とはまるで別の朝。
セレナは先に目を覚ました。
――戻ってきたな。
そう思う。
体が重くない。耳鳴りもしない。
「起きた瞬間に次の判断をしなくていい朝」だ。
隣を見ると、案の定だった。
レオンは、まだ寝ている。
ベッドの半分を使って、きっちりと仰向け。
呼吸は深く、完全に力が抜けている。
戦場ではあれだけ冴えていたのに、日常に戻ると一気に朝が弱くなる。
「……ほんとに切り替え早いわね」
セレナは小さく笑う。
起こさない。
今日は起こさない。
今日は――
ドレスを買いに行く日だ。
しかも。
――レオンが、買ってくれる。
そう思った瞬間、口元が勝手に緩む。
セレナはそっとベッドを抜け出し、洗面所へ向かう。
顔を洗い、髪を整えながら、鏡の中の自分を見る。
「……ふふ」
理由もなく、機嫌がいい。
式典用のドレス。
英雄としての装い。
そういう建前は分かっているけど――
今は正直、それよりも、
「レオンが選ぶんだよね……」
その一点だけで、気持ちが浮いていた。
着替えは、いつもより少しだけ丁寧に。
それでも、気合を入れすぎない楽な服。
“選びに行く側”の装いだ。
部屋に戻ると、レオンはまだ寝ている。
全然起きない。
「……朝弱すぎでしょ」
文句を言いながらも、声は柔らかい。
セレナはベッドの端に腰を下ろし、しばらくレオンの寝顔を眺める。
本当に、何の警戒もない顔。
戦場では見せない顔だ。
「今日さ」
返事はないと分かっていて、セレナは小さく話しかける。
「ドレス、選んでもらうんだからね」
むにゃ、と寝返りを打つレオン。
それだけで、なんだか満足だった。
セレナは立ち上がり、部屋の中を少しうろうろする。
準備はもうできている。
あとは、本人が起きるだけ。
今日は、
英雄でも、団長でもない。
ただ、
誰かに選ばれる日だ。
セレナは窓の外の青空を見て、深く息を吸った。
「……起きたら、連れてってもらお」
その声には、隠しきれない“るんるん”が混じっていた。
レオンが目を覚ましたのは、部屋に朝の光がきちんと回ってからだった。
目を開けた瞬間、天井を見て一度だけ深く息を吐く。
「……おはようございます」
誰に言うでもなく呟いて、上体を起こす。
部屋の奥から、足音がした。
「やっと起きた」
セレナだった。すでに身支度は終えていて、いつもの落ち着いた格好だが、声の調子が明らかに軽い。
「おはようございます」
「昨日も今日も遅いわね」
「完全に日常に戻りました」
そう言ってレオンが苦笑すると、セレナは満足そうに頷く。
「いいことよ、それ。戦場じゃそんな顔してなかったもの」
責めるでもなく、からかうでもない。
ただ事実を確認するような言い方だった。
レオンはそれを聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じる。
「……機嫌がいいですね」
「わかる?」
「ええ。かなり」
「当然でしょ」
即答だった。
レオンはそれ以上何も言わず、洗面所へ向かう。
顔を洗い、髪を整え、服を選ぶ。
今日は街へ出る。
人目も多い。
――そう考えて、いつもより少しだけきちんとした服を選んだ。
シャツは張りのあるもの。
上着も、形の崩れないもの。
着替えを終えて部屋に戻ると、セレナがこちらを見て、ぴたりと動きを止めた。
「……ちょっと待って」
「はい?」
セレナはレオンを上から下まで一度見てから、眉をひそめる。
「なんでそんなにピシッとしてるのよ」
「外出用ですが」
「外出用って……」
一歩下がって、もう一度見る。
「それ、完全に“王都の正式な人”の格好じゃない」
「そうでしょうか」
「そうよ!」
声が一段上がった。
「それでドレス買いに行くの?」
「ええ」
「ええ、じゃない!」
セレナは自分の服を見下ろす。
動きやすさ重視。
いつもの楽な装い。
セレナは部屋の中をぐるぐる回り始める。
「もっとそれっぽい服あると思われるじゃない!
なのにこの格好で入ったらどう見ても――」
言葉を探して、
「――“選ばれる側”じゃなくて“付き添いの兵士”でしょ!」
セレナは部屋を少し歩き回ってから、腕を組む。
「ドレスを買いに行く“前”に着ていく服がないの!」
レオンは一拍置いてから、静かに頷いた。
「なるほど。先に服屋ですね」
「そういうこと!」
セレナは即答してから、少しだけ表情を緩める。
「まったく……張り切りすぎなのよ、あんた」
「準備不足よりは良いかと」
「その準備の方向が違うって言ってるの」
そう言いながらも、セレナの足取りは軽かった。
朝の空気は穏やかで、
二人の一日は、静かに動き出していた。
王都のメインストリートは昼時で、通りは人でにぎわっていた。
買い物袋を抱えた人、家族連れ、仕事の合間に立ち寄る兵や役人。
レオンは立ち止まり、通り沿いの服屋を指した。
「まずは、ここですね」
「ここは……普通の服屋ね」
「ええ。ちょうどいいと思います」
店構えは落ち着いていて、気取った様子はない。
王都ではよく見かける、ごく一般的な店だった。
中に入ると、店内にはすでに何組か客がいる。
視線を気にせず、長居もしやすい空気だ。
レオンは一通り棚を見てから、自然な調子で言った。
「ここで選ぶ服も、僕が用意します」
「……え?」
セレナが足を止める。
「いや、それはさすがに悪いわよ」
「問題ありません」
言い切りだった。
「今日一日、外を歩くことになりますし。
それに――」
少し言葉を選んでから続ける。
「人目のある場所に出るなら、きちんとした服の方が動きやすいでしょう」
「……理屈で押してくるわね」
セレナは肩をすくめたが、拒否はしなかった。
レオンはすでに服を選び始めている。
派手なものは避け、色味も抑えめ。
装飾より、形と素材を重視していた。
セレナは英雄として知られている。
それは、レオンも承知している。
だからこそ、目立たせる服ではなく、
立ち姿が自然に整うものを選ぶ。
「これと……こちらも」
店員に声をかけ、セレナを見る。
「試着してもらえますか」
「はいはい」
セレナは半ば流される形で試着室に向かった。
しばらくしてカーテンが開く。
「どう?」
セレナは簡単に一言だけ聞く。
レオンは全体を一度確認してから、頷いた。
「問題ありません。よく合っています」
「相変わらず即決ね」
「迷う必要がないので」
店員も納得した様子で、購入が決まった。
支払いを終え、外に出る。
「……これで、堂々とドレス屋に行けるわね」
「はい。準備完了です」
レオンの言葉に、セレナは小さく息を吐いた。
「次は本番ね」
そう言って、通りの先を見据える。
王都の昼は、まだ続いていた。
王都のメインストリートでも、ひときわ落ち着いた一角に、その店はあった。
看板は控えめだが、生地の質と仕立ての良さで知られている店だ。
「……ここ?」
セレナが立ち止まって聞く。
「ええ。式典用なら、ここが適切です」
店内は静かで、客層も限られていた。
貴族というより、役職を持つ者や、公式の場に出る必要のある人間が多い。
セレナが中に入った瞬間、いくつかの視線が自然と集まった。
――美しい英雄。
それは、セレナにつけられた評価のひとつだ。
戦果だけでなく、その立ち姿や振る舞いまで含めて、王都ではよく知られている。
レオンはその事実を、冷静に把握していた。
(……飾る必要はありませんね)
目立たせる必要はない。
豪華さで押す必要もない。
団長として、英雄として、
立っているだけで成立する人物なのだから。
レオンは、装飾の多いドレスを自然と視界から外していく。
フリルが重なるもの、宝石が散りばめられたもの――
どれも悪くはないが、セレナには合わない。
彼が足を止めたのは、奥の一角だった。
紺色のドレス。
深く、落ち着いた色合い。
生地は滑らかで、光を受けても主張しすぎない。
装飾は最小限。
線が美しく、立ち姿がそのまま出る仕立てだ。
「……これですね」
レオンは店員を呼び、セレナを見る。
「試着をお願いします」
「え、もう?」
「はい」
「即決ね」
「迷う理由がありません」
セレナは肩をすくめつつ、試着室へ向かった。
しばらくして、カーテンが静かに開く。
「……どう?」
セレナは鏡の前に立ち、全身を映す。
一瞬、店内が静まった。
紺色の生地が、セレナの輪郭を自然に引き立てている。
線は簡潔で、無駄がない。
だが、立ち姿には確かな存在感がある。
英雄として知られる理由が、そこにあった。
レオンは一度だけ全体を確認し、短く頷いた。
「とても似合っています」
「……本当?」
「ええ。団長として、最上級です」
セレナはもう一度、鏡を見る。
派手ではない。
だが、整っている。
自分が“きちんとした場”に立つ姿が、はっきり想像できる。
「……綺麗、かも」
思わず、そう呟いた。
自画自賛というより、確認に近い声だった。
「そうですね」
レオンは淡々と肯定する。
「余計な装飾がない分、セレナ自身が前に出ます」
「なるほどね……」
セレナは納得したように息を吐く。
「派手じゃないのに、ちゃんとしてる」
「式典向きです」
購入は、迷いなく決まった。
袋を受け取ったセレナは、一度だけドレスに視線を落とす。
「……悪くないわね」
「はい」
それ以上の言葉は必要なかった。
王都の店内に、静かな満足感だけが残っていた。
支払いを終え、店を出ると、王都のメインストリートの光が一気に戻ってきた。
昼の喧騒は変わらないのに、セレナの視界だけが少し違って見える。
袋を手に取ったところで、セレナがふと足を止めた。
「ねえ」
「はい?」
「……このドレス、着て歩いてみたい」
思いついたような言い方だった。
衝動に近い。
レオンは一瞬だけ間を置いてから、理解した。
(……気に入ってくれたんですね)
それは確認ではなく、事実だった。
「構いませんよ」
セレナはすぐに試着室へ戻り、着替えてくる。
着てきた服は丁寧に畳まれ、袋に入れられた。
それを、自然な流れでレオンが受け取る。
外に出たセレナは、先ほどよりも少しだけ動きが慎重だった。
ヒールの靴が、まだ足に馴染んでいない。
「……歩きにくい」
「無理しなくていいですよ」
そう言って、レオンは少し前に立ち、腕を差し出した。
支えるためだけの動作。
歩幅を合わせるための、実務的な判断。
だが、通りから見れば、どう見てもエスコートだった。
「……助かるわ」
セレナは迷いなく、その腕に軽く手を添える。
一歩、また一歩。
紺色のドレスが、王都の通りの中で静かに揺れる。
派手さはない。
だが、自然と視線を集める。
セレナは歩きながら、少しだけ周囲を見る。
行き交う人々。
普段と変わらない王都。
それなのに、感覚が違う。
(……こういうの、初めてかも)
式典の場でも、戦場でもない。
評価も、役割も、判断もない。
ただ、
きちんとした装いで、街を歩いているだけ。
セレナは隣を歩くレオンを見上げた。
落ち着いた表情。
いつもと変わらない。
「……ありがとう」
今日、何度目か分からない言葉だった。
「どういたしまして」
レオンは、特別な意味を持たせずに答える。
それが、セレナにはちょうどよかった。
王都のメインストリートを、二人は並んで歩く。
足取りはゆっくりで、急ぐ理由もない。
今日は、セレナにとって、すこし特別な日になった。
※あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし何か残るものがあれば、★★★★★で執筆の励みになります。




