第3話 おかえり
最初に戻ったのは、音だった。
遠い。
水の底から聞いているような、歪んだ響き。
誰かが叫んでいる。
名前のような気もするし、ただの雑音のような気もする。
身体は重かった。
指一本、動かせる気がしない。
息を吸おうとして、胸がうまく膨らまない。
肺があるはずの場所に、別のものが詰まっている感覚。
ああ、これは駄目だな、と他人事のように思った。
意識が、ゆっくり沈んでいく。
その途中で、光が見えた。
強くない。
眩しくもない。
ただ、やけに落ち着く色だった。
次に、声。
「……大丈夫ですよ」
低い。
騒がしくない。
余計な感情が混じっていない。
聞き覚えがありすぎて、逆におかしい。
これは夢だ、とすぐに分かった。
だって、そんなはずがない。
目を開けようとして、まぶたが動かない。
それでも、気配だけははっきり分かる。
近くに誰かがいる。
慌てていない。
急いでいるのに、落ち着いている。
「今、止めます」
淡々とした声。
次の瞬間、胸の奥にあった圧が少しだけ抜けた。
息が、わずかに入る。
おかしい。
夢にしては、感覚が生々しい。
痛みがある。
重さがある。
冷たい器具が、皮膚に触れる感触まである。
これは本当に夢なのか。
そう考えたところで、また声がした。
「無理に起きなくていいです」
その言い方で、笑いそうになった。
ああ、やっぱり夢だ。
こんなふうに言うのは、あの人しかいない。
次の瞬間、胸の奥が強く引かれる。
痛みではない。
何かが、正しい位置に戻る感覚。
心臓が、どくんと打った。
一拍。
もう一拍。
はっきりした鼓動。
呼吸が、一気に楽になる。
空気が、肺に入る。
そこで、意識が浮上した。
まぶたが、重いまま持ち上がる。
白い布。
天蓋の内側。
火の光が、静かに揺れている。
そして。
視界の端に、見慣れすぎた顔があった。
白衣。
乱れていない髪。
真剣なのに、どこか淡々とした表情。
セレナは、しばらくその顔を見つめた。
焦点が合わない。
でも、見間違えるほど曖昧でもない。
「……」
声を出そうとして、喉が鳴る。
もう一度、息を吸う。
「……あれ」
ようやく、言葉になった。
首を動かそうとすると、軽く押さえられる。
「動かないでください」
その声音で、確信した。
夢だ。
こんなに都合のいい幻覚があるわけがない。
セレナは、少しだけ笑った。
涙が滲む。
「……私、死んだ?」
声は弱い。
でも、冗談のつもりだった。
次に聞こえた返事で、世界が現実に引き戻される。
「何を寝ぼけてるんですか」
いつも通りの調子。
呆れも、取り乱しもない。
まるで、訓練後に声をかけられたみたいに。
「生きてますよ」
その一言で、全部が崩れた。
夢じゃない。
死んでもいない。
ここは天蓋で。
この人は、本当にここにいて。
胸が、ぎゅっと縮む。
理由を考える前に、身体が動いた。
喉が鳴る。
声が、勝手に出た。
「……おかえり」
掠れていた。
でも、確かに言った。
次の瞬間、腕に力が入る。
思っていたより、身体は動いた。
反射だった。
考えなかった。
確かめなかった。
ただ、抱きしめた。
白衣の感触。
布越しに伝わる体温。
そこにいるという重さ。
幻覚にしては、あまりに現実的すぎる。
「……おかえり」
もう一度、言う。
今度は、少しだけはっきり。
胸元に顔を埋めると、息が乱れた。
熱が上がる。
涙が、止まらない。
「……間に合った」
何が、とは言わない。
でも、全部だった。
生きていたこと。
立っていたこと。
待っていた時間。
それらが、ここで繋がった気がした。
腕に、わずかな抵抗がある。
引き剥がされるほど強くはない。
ただ、距離を測るような動き。
「……セレナ」
名前を呼ばれて、さらに力が入った。
「ちょっと」
声が震える。
「今だけでいいから」
言葉が、途切れ途切れになる。
「今だけ……」
続きが出てこない。
泣いているせいなのか、
それとも、言葉にすると壊れそうだったのか。
しばらく、何も言えなかった。
ただ、抱きしめたまま。
胸の上下を、確かめるように。
レオンは、大きくは動かない。
抱き返しもしない。
でも、突き放しもしない。
その距離が、あまりにも彼らしかった。
「……生きてます」
低い声。
淡々としている。
けれど、はっきりしている。
「ちゃんと」
その一言で、力が抜けた。
腕が緩む。
名残惜しさを残したまま、ゆっくり離れる。
視界が滲んで、よく見えない。
「……夢じゃないよね」
確認するように、呟く。
レオンは、少しだけ視線を外す。
「夢なら」
短く言って、言葉を切る。
そして、続けた。
「こんなに、手間はかかりません」
それを聞いて、笑ってしまった。
涙が落ちる。
声が、震える。
「……相変わらず」
胸の奥が、熱い。
生きている。
触れている。
こうして話している。
それだけで、十分だった。
セレナは、ゆっくり目を閉じる。
今度は、沈まない。
逃げない。
腕を伸ばせば、まだそこにいると分かる場所で。
安心して、意識を預けた。
身体を起こすと、まだ重さは残っていた。
痛みもある。
息も完全じゃない。
それでも、立てると分かった瞬間、セレナは剣を探していた。
「……行く」
声は低い。
迷いはない。
誰かが止めようとする気配があったが、構わなかった。
視線の先で、レオンがこちらを見る。
何も言わない。
止めもしない。
それが答えだった。
セレナは剣を掴み、天蓋を出る。
夜気が、肺に刺さる。
冷たい。
でも、頭は冴えていた。
最前線へ戻る途中、胸の奥が落ち着かない。
鼓動が、速い。
分かっている。
戦場で、こんな感情は邪魔だ。
浮かれてはいけない。
期待してはいけない。
それでも。
抑えきれなかった。
生きている。
あの人がいる。
それだけで、世界が違って見える。
「……勝つから」
誰に向けた言葉でもない。
でも、確かに言った。
前線に戻ると、すぐに分かった。
空気が、違う。
兵の動きが、速い。
判断が、軽い。
無理をしていないのに、前に出られている。
戻ってきている。
負傷して下げたはずの兵が、列に戻っている。
息が整い、剣を構え直している。
ありえない速度だった。
補給は増えていない。
指揮も変えていない。
なのに。
線が、崩れない。
セレナは、前を見ながら確信した。
ああ。
やっぱり。
胸の奥が、熱くなる。
嬉しい。
怖い。
でも、それ以上に。
安心してしまっている自分に、苦笑する。
斬り結びながら、敵の動きを見る。
迷いがある。
踏み込みが、浅い。
押し切れると思っていた流れが、止められている。
それは戦術じゃない。
時間だ。
削れるはずだった時間が、削れない。
戻らないはずの命が、戻っている。
だから、崩せない。
だから、下がる。
敵が、下がり始めた。
号令はない。
でも、全員が理解する。
これは退却だ。
追撃の判断は、一瞬で済ませた。
「追うな」
声を張る。
「線を維持しろ」
欲張らない。
崩さない。
敵は、完全に背を向けた。
戦場から、緊張が抜けていく。
その瞬間。
胸の奥で、何かが一気にほどけた。
足が、少し震える。
剣を収める。
深く息を吐く。
勝った。
守った。
そして。
戻ってきている。
次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
第五部隊の隊長としての立場も、
英雄としての役割も、
一瞬で後ろに押しやられる。
後衛。
天蓋の方角。
考える前に、走り出していた。
何を言うかなんて、決めていない。
でも、頭の中は騒がしい。
もう一度、おかえりって言う。
今度は、ちゃんと。
冗談じゃなく。
担当医は、もちろんレオンにする。
当たり前だ。
三年間のことも話す。
立ち続けたこと。
怖かったこと。
腹が立ったこと。
全部、愚痴ってやる。
逃げたって言ってやる。
それでも待ってたって言ってやる。
息が切れる。
鎧が重い。
それでも、止まらない。
天蓋が見える。
火の明かりが、まだ揺れている。
そこにいる。
いるはずだ。
セレナは、最後の力で走った。
胸いっぱいに、言葉を詰め込みながら。
今度こそ。
ちゃんと、言うために。
おかえり、と。
天蓋の灯りが、すぐそこに見えていた。
火はまだ落ちていない。
治療が続いている証だ。
胸が、自然と高鳴る。
言葉が、頭の中で何度も並び替えられる。
もう一度、おかえり。
今度は、ちゃんと顔を見て。
担当医は、あなたにお願いする。
他の誰でもなく。
戦場が回らなくなったこと。
立ち続けるしかなかったこと。
寂しかったことも、
全部、笑いながら愚痴る。
それができると思っていた。
それが、当然の未来だと信じていた。
足を止める理由は、何もなかった。
天蓋の入口が、目前に迫る。
呼吸を整える暇もなく、走り込もうとした、その瞬間。
セレナは、まだ知らなかった。
この高鳴りが。
この確信が。
この喜びが。
後になって、
自分の胸を深く抉ることになると。
あの言葉が、
あの期待が、
やがて鋭い刃に変わることを。
今は、まだ。
何も疑っていなかった。
ただ。
生きていてくれたことが、
ここにいてくれたことが、
すべてだと思っていた。
その思いのまま、
セレナは天蓋へ駆け込んだ。
配置が一時的なものかもしれない、などという考えは、
最初から、セレナの中になかった。
レオンは戻ってきた。
それも偶然でも、代替でもなく、
自分の後衛として。
そう信じることに、疑問を挟む余地はなかった。
今は、まだ。
何も疑っていなかった。
※あとがき
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