第28話 異様な光景
最前線が、見えてきた。
土は荒れ、空気は重く、遠くで金属音が絶え間なく響いている。
矢が飛び、怒号が混じり、地面には倒れたまま動かない影がある。
第五部隊の中に、自然と沈黙が広がった。
誰も口にしない。
だが、全員が同じことを考えている。
――生きて帰れる保証は、ない。
セレナも、レオンも、それは同じだった。
覚悟はある。
だが、恐怖が消えるわけではない。
だからこそ、立ち止まらない。
「――増強、入れます」
レオンの声が、後方から飛ぶ。
次の瞬間。
世界が、変わった。
鎧の重さが、消える。
足が地面を蹴る感覚が、異様に軽い。
視界が澄み、音が整理され、
自分の呼吸すら、はっきりと分かる。
疲労が、溜まらない。
走れる。
どこまでも。
「……行けるぞ」
誰かが呟く。
第五部隊は、一斉に走り出した。
それでも、万能ではない。
矢は飛ぶ。
当たれば、死ぬ。
剣も、魔法も、油断すれば致命になる。
恐怖は、確かにあった。
だが。
やらなければならないという覚悟が、
その恐怖を上回っていた。
我々は、受ける。
押される場所へ入り、
崩れかけた場所を、肩代わりする。
流動的に動きながら、
とにかく――受け続ける。
それが、第五部隊の役割。
レオンも、そう考えていた。
前線の奥に、敵の姿がはっきりと見え始める。
その瞬間だった。
「――《重圧転写》」
聞いたことのない魔法名。
部隊の何人かが、一瞬だけ視線を走らせる。
戸惑い。
だが、すぐにレオンの声が重なる。
「気にするな。進め」
短く、迷いのない指示。
第五部隊は、死を覚悟したまま、
恐怖を振り切るように雄叫びを上げて突入した。
……そして。
おかしい、と思った。
敵が、立ち上がらない。
膝をついたままの者。
地面に伏せ、身動きが取れない者。
剣を振ろうとして、途中で止まる。
逃げようとして、前に進めない。
「……?」
困惑が走る。
だが、止まる暇はない。
治癒魔法が、同時に展開される。
増強、弱体、治癒。
三つの魔法が、並列で回り始める。
第五部隊は、敵を斬る。
抵抗は、ない。
それは、戦いというより――
訓練場の人型標的を切り払う感覚に近かった。
動かない。
反撃してこない。
ただ、倒れる。
兵たちは戸惑いながらも、刃を振るう。
セレナでさえ、一瞬、判断が遅れた。
「……躊躇うな!」
団長としての怒号が飛ぶ。
「叩け! 今だ!」
その声で、全員が我に返る。
レオンも、内心では戸惑っていた。
――ここまで効くとは、思っていなかった。
増強魔法の反転という発想。
魔力消費は少なく、範囲は広い。
まるで、そこ一帯が
敵だけが動けなくなる場になったかのようだった。
だが、止めない。
止める理由が、ない。
「……増強、慣れてきたと思うので」
レオンの声が、冷静に響く。
「少し、強めます」
次の瞬間。
第五部隊の動きが、さらに変わる。
力が溢れる。
速度が上がる。
セレナに至っては、
個の戦力という枠を越え始めていた。
受け止めるはずだった戦線が、
押し返す。
削る。
薙ぎ払う。
それはもう、防衛ではなかった。
流動的に蹂躙する戦線だった。
第五部隊が進んだ場所から、敵の姿が消えていく。
押し返す必要はなかった。
耐える必要もなかった。
進めば、終わる。
受け止めるはずだった戦線は、
いつの間にか――薙ぎ払う帯へと変わっていた。
流れながら、削り、崩し、踏み越えていく。
誰も立て直せない。
誰も追いつけない。
第五部隊は止まらない。
恐怖は、確かにあった。
生きて帰れる保証も、最初はなかった。
それでも。
今、この瞬間だけは。
剣は迷わず振るわれ、
足は止まらず、
誰一人、倒れないという確信に変わっていた。
レオンの魔法が支え、
セレナの剣が道を切り拓く。
第五部隊は、戦線中央を貫いていった。
そこにあったのは、
覚悟の末に得た――圧倒的な力だけだった。
魔法通信が、レオンの意識に割り込んだ。
短い。
切迫している。
――南側、損耗が激しい。
持たない。
レオンは即座に判断する。
「第五部隊、南へ寄せます」
声は落ち着いていた。
迷いはない。
セレナは振り返らない。
「了解」
それだけで十分だった。
第五部隊は向きを変える。
流れるように、戦線そのものがずれる。
受け止める帯が、
そのまま移動する破壊の帯になる。
増強と弱体が、並列で回る。
足が止まらない。
敵が立てない。
ただ、進む。
南側に近づくにつれ、空気が変わった。
そこにいた兵士たちの顔は、
疲労と恐怖で固まっていた。
剣を握る手は震え、
後退の判断を、いつ下すかだけを考えている目。
――もう、持たない。
そういう顔だった。
そのとき。
戦線の向こうから、異様な速度で何かが来る。
敵が、倒れていく。
いや、動けなくなっていく。
立ち上がろうとして、失敗する。
逃げようとして、地面に縫い止められる。
そして。
一人の女が、先頭に立っていた。
剣を振る。
速い。
目で追うのが、やっとだった。
踏み込み、斬り、抜ける。
無駄がない。
いや、それ以上に――
止まらない。
「……第五部隊だ」
誰かが呟く。
続けて、別の声。
「叙勲されたって噂の……」
正直、期待はしていなかった。
来てくれれば、撤退の時間を稼いでくれる。
それくらいで十分だと思っていた。
だって、相手は人間だ。
英雄と呼ばれていても、
この戦線を一人でひっくり返せるはずがない。
――そのはずだった。
目の前の光景は、違った。
敵は、抵抗していない。
いや、できていない。
まるで、訓練場の標的を相手にしているかのように、
一方的に斬られていく。
女団長の背後で、部隊が動く。
誰も倒れない。
誰も止まらない。
増強魔法だと、頭では分かる。
だが。
ここまで到達するものなのか。
そう思わずにはいられなかった。
気づけば、南側の戦線は押し返されていた。
いつの間にか、恐怖は消えている。
代わりに胸に広がったのは、
説明のいらない感覚だった。
――助かった。
――救われた。
これが、第五部隊。
それ以上でも、それ以下でもない。
南側の兵士たちは、剣を握り直す。
背筋が伸びる。
もう、絶望はない。
そこにあるのは、
来てくれたという事実と、
大丈夫だという確信だけだった。
戦線は、再び動き出す。
第五部隊を中心に。
希望という言葉を、
口にする必要もないまま。
第五部隊が通過した戦線は、完全に静まり返っていた。
敵の姿はない。
抵抗の痕跡も、反撃の兆しもない。
そこにはただ、
制圧された線だけが残っている。
あまりにも整然としていて、
かえって異様だった。
兵士たちは、思わず足を止める。
倒れた敵の数ではない。
血の量でもない。
――戻ってこない。
それが、はっきり分かる光景だった。
レオンは淡々と、魔力の流れを確認している。
セレナも、剣を下ろしたまま、周囲を見渡している。
息は乱れていない。
達成感も、興奮もない。
やるべきことを、やっただけ。
その二人の落ち着きが、
周囲の兵士たちには、なおさら異様に映った。
そのときだった。
魔法通信が、同時に入る。
短く、しかしはっきりとした報告。
――北側戦線、敵部隊が撤退開始。
――組織的撤退を確認。追撃不要。
一瞬、周囲がざわめく。
北が、下がった。
それは、この戦線全体が
崩れたことを意味していた。
セレナは、すぐに判断する。
剣を上げ、声を張った。
「第五部隊――止まれ」
その号令に、全員が即座に応じる。
誰も理由を聞かない。
誰も前に出ない。
その言葉の意味を、
セレナ自身が一番よく分かっていた。
これは、追撃をやめる合図ではない。
これ以上、斬る必要がないという宣言だ。
敵は、もう戻らない。
戦線は、ここで終わった。
一夜で、
完全なる撤退と、完全なる制圧が成し遂げられた。
誰かが、静かに息を吐く。
誰かが、剣を鞘に収める。
そして、ようやく気づく。
――終わった。
第五部隊は、その場に留まる。
勝利を叫ばず、
誇ることもなく。
ただ、静かに立っている。
その背中を見て、
周囲の兵士たちは、ようやく理解する。
この戦線を終わらせたのは、
偶然でも、運でもない。
第五部隊が、来たからだ。
夜は、まだ続いている。
だが、この戦線において、
戦いは、もう終わっていた。
※あとがき
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