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第27話 期待と戦略

 馬車が止まり、軋む音を立てて扉が開いた。


 乾いた土の匂いが流れ込んでくる。

 王都とは違う、血と鉄と焦げた布の匂いが混じった空気だった。


 レオンが先に降りる。

 続いて、セレナ。


 ここに来た瞬間、二人の目から、迷いの色は消えていた。

 感情が消えたわけではない。ただ、選択が終わっているという目だった。


 仮設テントが連なる陣地は、最低限の秩序だけを保っている。

 兵の動きは忙しなく、声は短く、誰も立ち止まらない。


 セレナはそのまま、団長としての顔で歩き出す。


「到着報告を入れる。レオンは一度待機」


「了解です」


 レオンは頷き、テントの外で立ち止まった。


 セレナは仮設テントの中へ入る。

 中にはすでに、前線の参謀、各部隊の連絡将校が集まっていた。


 地図が広げられている。

 布の上に石と木片で示された陣形は、ひと目で分かるほど、歪んでいた。


「――戦況報告」


 参謀の声は、感情を排したものだった。


「敵の圧は予想以上です。南側が持ちこたえているのは、ほぼ偶然。補給線は三割削られ、前線の疲労は限界に近い」


 別の者が続ける。


「このまま押されれば、五日以内に後退線の再設定が必要になります。撤退も、選択肢として検討段階です」


 誰も驚かない。

 この場にいる者は全員、最悪を想定して集められている。


 セレナは地図を見下ろしたまま、静かに言った。


「……ここにいる全員、共通認識として確認する」


 視線が集まる。


「押し返せなければ、撤退。

 撤退が間に合わなければ、この戦線は崩れる」


 否定はなかった。


 その上で、セレナは一歩前に出る。


「その前に、一つ提案がある」


 短い沈黙。


「第五部隊を、戦線中央に再配置する」


 小さなどよめきが起きる。


 中央は、最も圧が集中している場所だった。

 消耗も激しく、持ちこたえるだけで精一杯の地点。


「理由は?」


 参謀が即座に問う。


 セレナは迷わなかった。


「切り札があるからだ」


 そして、はっきりと言った。


「レオンを呼ぶ」


 外にいた伝令が走る。


 しばらくして、レオンがテントに入ってきた。


 状況は一目で分かった。

 広げられた地図、石の配置、参謀たちの表情。


 すでに追い詰められている陣だ。


「呼ばれましたか」


 レオンは、余計な挨拶をしない。


 セレナは言う。


「この戦線、正面から押し返すのは無理。

 でも、崩さずに“形を変える”ことはできるかもしれない」


 レオンは地図に近づく。


 数秒、何も言わずに眺めた。


 その沈黙が、場の空気を変えた。


「……敵の主力は、こちらの消耗を前提に圧をかけています」


 淡々とした声。


「補給線を叩くより、前線を削り切る判断ですね」


 参謀の一人が眉を上げる。


「それが分かって、どうする?」


 レオンは指を伸ばし、石を一つ動かした。


「前線を“保たせる”必要はありません」


 空気が張りつめる。


「保たせるから、削られる。

 ここは、一度“薄くする”」


 別の石を動かす。


「第五部隊を中央に置く。ただし、防衛ではなく、流動拠点として」


 セレナが口を挟む。


「回復と増強を、定点にしない?」


「はい」


 レオンは頷く。


「中央で受け、即座に戻す。

 戦線を点ではなく、帯として維持します」


 参謀が息を呑む。


「それだと、第五部隊への負荷が――」


「最大になります」


 即答だった。


「ですが、他の部隊の消耗は抑えられる。

 結果として、全体の戦線寿命が延びます」


 地図の上で、線が引き直されていく。


 撤退線。

 支援線。

 再配置。


 数分後、沈黙。


 参謀が低く言った。


「……合理的だ。

 理屈が通っている」


 別の者が続ける。


「いや、それ以上だ。

 この配置なら、崩れた場合も被害を限定できる」


 視線が、レオンに集まる。


「最高英雄医殿は……」


 参謀は言葉を選び、


「知略にも秀でておられる」


 レオンは否定しなかった。


 セレナが地図を見下ろし、結論を出す。


「この案で行く」


 短く、はっきりと。


「第五部隊が中心を引き受ける。

 持ちこたえ、流し、立て直す」


 誰も異議を唱えなかった。


 それが、今この戦線で取れる、最善だったから。


 会議が終わり、人が散っていく。


 残ったのは、セレナとレオン。


 地図の上には、まだ消せない線が残っていた。


 セレナは一度だけ、深く息を吸った。


「……引き受けることになる」


「分かっています」


 レオンは、いつも通りの声で答えた。


 それで十分だった。




 第五部隊の仮設テント前に、人が集められた。


 整列は早かった。

 誰かが急かしたわけではない。

 呼ばれた理由を、全員が理解していたからだ。


 装備の音が止み、私語が消える。


 セレナは一歩前に出る。

 団長としての立ち位置だった。


 その横に、レオンが立つ。

 いつもより、少しだけ後ろ。


 セレナは、全員の顔を一度だけ見渡した。


 数を数える必要はなかった。

 全員、いる。


「配置を伝える」


 それだけ言って、間を置く。


 誰も動かない。


「第五部隊は、戦線中央に入る」


 ざわめきは起きなかった。

 息を詰める音だけが、いくつか聞こえた。


 中央。

 今、この戦線で一番圧がかかっている場所。


 誰かが質問する気配はあったが、口には出なかった。


 セレナは続ける。


「役割は、防衛じゃない。固定もしない」


 短く、区切る。


「受けて、戻す。立て直す。

 戦線を持たせるための中心になる」


 誰も顔を逸らさない。


 すでに理解している者の目だった。


「楽な配置じゃない」


 その言葉だけは、はっきりと言った。


「撤退の判断が出る可能性もある。

 その場合、最後まで動くのは私たちになる」


 それでも、誰も後ろを向かない。


 セレナは一度だけ、拳を軽く握った。


「今ここで、配置を拒否する選択はある」


 声は落ち着いている。


「帰ってもいい。

  誰も責めない」


 数秒、時間を置く。


 十を数える必要はなかった。


 誰一人、動かない。


 視線が、揃って前を向いたままだった。


 セレナは、ゆっくり息を吐く。


「……ありがとう」


 それ以上は言わなかった。


 レオンが一歩前に出る。


 声は低く、よく通った。


「支援は、最前線の後衛で行います」


 ざわつきが、ほんの一瞬だけ走る。


「回復も、増強も、引き延ばしません。

 必要なところに、必要なだけ入れます」


 淡々と。


「無理はさせません。

 無理をする前に、引き戻します」


 それは約束ではなかった。

 方針だった。


 兵の一人が、短く言う。


「了解しました」


 それを合図に、いくつもの声が続く。


「了解」

「了解しました」

「問題ありません」


 声は揃っていない。

 けれど、迷いもなかった。


 セレナは最後に言った。


「生きて帰る」


 命令ではない。

 目標でもない。


 ただの、確認だった。


 誰かが小さく頷いた。

 誰かが、装備を締め直した。


 第五部隊は、配置を受け入れた。


 それが何を意味するかを、

 全員が分かったまま。



 第五部隊は、戦線中央へ向けて動き出す準備を整えていた。


 陣形は固定しない。

 防衛線を一本引くこともしない。


 今回の役割は、点ではなく帯だった。


 押される場所へ流れ、崩れかけた箇所へ入り、

 負担が集中する位置に、常に立ち続ける。


 受けて、受けて、受け続ける。

 押し返すためではなく、全体が崩れないために。


 その判断を下すのは、後方に立つレオンだ。


 最前線に近い後衛。

 視界と報告、魔力の流れをまとめ、

 全体の動きを一つに束ねる位置。


 セレナは部隊の前に立つ。


 いつもの団長の顔だった。

 迷いのない、現場の顔。


「聞け」


 短く、通る声。


「今回、私たちは戦線を固定しない」


 兵たちは頷く。

 すでに説明は受けている。


「押されている場所に入る。

 耐えきれなくなったところを、肩代わりする」


 拳を握る。


「楽な場所には立たない。

 安全な位置にもいない」


 一拍。


「その代わり――」


 声が、少しだけ強くなる。


「私たちが来た場所は、持つ」


 誰かが、息を飲んだ。


「第五部隊が来た、と思わせろ」


 セレナは、前線の向こうを見ている。


「第五部隊が来たから、ここは大丈夫だと。

 そう思わせる働きを、私たちは期待されている」


 言い切る。


「だったら、それ以上をやる」


 声が、はっきりと上がった。


「私たちが来たことを、

 前線全体に――確信させる」


 剣を握る音。

 防具が鳴る。


「覚悟を決めろ」


 セレナは、部隊を見渡す。


「今回は、きれいな戦いじゃない。

 褒められる動きでもない」


 それでも。


「それを引き受けるために、私たちはここにいる」


 最後に、短く言った。


「行くぞ。第五部隊」


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、声が上がる。


 揃ってはいない。

 整ってもいない。


 だが、腹の底から出た声だった。


 吠えるような、応えるような、

 もう戻らないと決めた者たちの声。


 第五部隊は歩き出す。


 最前線中央へ。


 押し返すためではない。

 崩れさせないために。


 負担を引き受ける帯として、

 戦線の中へ、静かに、確実に入っていった。

※あとがき

ここまで読んでくださってありがとうございます。

もし何か残るものがあれば、★★★★★で執筆の励みになります。

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