第26話 馬車の中
馬車は一定の揺れを刻みながら進んでいた。
車輪が石畳を噛む音は規則正しく、外の風景もまだ王都の延長にあった。人の気配も、建物の影も残っている。
だからだろう。
中は、思ったほど張りつめていなかった。
先頭の馬車には、レオンとセレナしかいない。
誰に聞かせるでもなく、誰に気を遣うでもない。
通達を受け取った夜ほど重くもなく、準備の最中ほど切羽詰まってもいなかった。
その静けさが、逆に不自然だった。
セレナが、ふっと息を吐く。
「あー……」
声に力はない。
独り言に近かった。
「どこに向かってるんだろうな、私たち」
レオンは一瞬、問いの意味を取り違えそうになる。
「……ヴァルド西戦線、じゃないんですか?」
冗談でもなく、ただの確認だった。
セレナは、小さく笑った。
「違うよ」
視線は前方、布越しの景色に向けたまま。
「私たちの、人生」
馬車の揺れが、言葉の余韻を引き延ばす。
「……人生、ですか」
レオンは、すぐに答えられなかった。
考えるというより、引きずり出される感覚に近い。
幸せな方向に向かっている、と言えるのだろうか。
その問いが、頭の中に落ちる。
名誉。
叙勲。
英雄という肩書き。
それらは、かつて必要だった。
セレナのもとへ行くために。
同じ戦場に立つ資格を得るために。
だが今は違う。
すでに同じ部隊にいる。
同じ馬車に乗っている。
同じ方向を見ている。
個人としての戦果は、もう要らない。
誇られる必要も、名を残す必要もない。
——それでも。
戦果がなければ、守れない。
街も、人も、帰る場所も。
それを、知ってしまっている。
必要なのは名誉ではない。
だが、結果は要る。
勝たなければ、意味がない。
そう考えた瞬間だった。
胸の奥で、何かが静かに閉じた。
出口のない箱に、二人で入れられたような感覚。
歴史を思い出す。
最後まで生き残った英雄は、ほとんどいない。
使命を抱え、戦場へ向かい続けた者ほど、帰る場所を失っていく。
守るために前に出る。
前に出続ける限り、戻る理由が消えていく。
——自分たちは、どこで終わるのか。
そんな考えが浮かび、慌てて打ち消そうとしたときだった。
セレナが、こちらを見る。
その視線は鋭くない。
だが、逃げ場がなかった。
「……ねえ」
少しだけ、口調が変わる。
「私が言いたいこと、わかった?」
レオンは、目を伏せる。
ごまかす言葉は浮かばなかった。
「……はい」
短く、確かに。
セレナは、それ以上何も言わなかった。
確認は、それで足りたのだろう。
馬車は進む。
まだ、人の生活が見える場所を。
まだ、戻ろうと思えば戻れる距離を。
二人とも、それを分かっていた。
そして、戻らないことも。
静かなまま、
何かが決定的に固定されたまま、
馬車は、王都を離れていった。
しばらく、馬車の音だけが続いた。
セレナが、前を向いたまま言う。
「みんなさ。名誉とか、うらやましいって言うよね」
声は低く、淡々としている。
「勲章だって、ほしいって。英雄って呼ばれるの、誇らしいだろうって」
少し間が空く。
「でも私はさ」
視線は動かない。
「お前との、普通の日常がほしい」
その言い方は、願いというより結論に近かった。
馬車が小さく揺れる。
「……ヒーローに憧れてさ。勇者ごっこしてる子供たちを見ると」
ほんのわずか、声がかすれる。
「前は、笑えたんだよ」
思い出すように。
「かわいいな、とか。ああいう時代もあったな、とか」
そして、ぽつりと。
「いつからだっけな。笑えなくなったの」
レオンは何も言わなかった。
答えを知っている気がしたからだ。
セレナは、少しだけ間を置いてから、こちらを見た。
「……ひとつ、キツい質問していい?」
逃げ道のない前置きだった。
「はい。どうぞ」
レオンは、自然に答えていた。
セレナは、言葉を選ばなかった。
「私たちの最後ってさ。どうなると思う?」
馬車の音が、一瞬遠くなる。
「どうやって。どこで、死ぬと思う?」
思っていたよりも、ずっと直球だった。
レオンは、わずかに息を詰める。
だが、目を逸らさなかった。
今だからこそ、出た問いなのだと分かっていた。
「……確率的には」
慎重に、だが逃げずに。
「戦死だと思います」
即答ではなかった。
けれど、曖昧にもしていない。
セレナは、ふっと笑う。
「確率的、ね」
肩をすくめる。
「ほんと、レオンらしい回答」
そして、間を置かずに言った。
「それ、嫌だ」
短いが、はっきりしていた。
「私はさ。戦場では、死にたくない」
言い切る。
「英雄の役目だとか、そう言われても」
少しだけ、声に熱が混じる。
「なんとなく戦う役目を降りるまで、生き切って」
言葉が、少しずつ具体になっていく。
「それで」
一拍。
「レオンと、笑って暮らしたい」
セレナは、息を吸ってから、少し強く言った。
「それが――夢!」
言った直後、きょとんとしたように目を瞬かせる。
「……夢、って言葉使ったの」
自分で驚いたように。
「子供のころ以来かも」
ぽつりと落とす。
レオンは、思わず苦笑した。
その苦笑には、諦めも、照れも、全部混じっていた。
「……僕も」
穏やかに言う。
「その夢に、賛成です」
セレナは、少しだけ目を細める。
「じゃあさ」
声が、少し柔らぐ。
「その夢に向かって努力する、っていうのを」
「二人で決めよう」
前を見る。
「夢があるとさ。人生、少し楽になると思うんだ」
レオンは、迷わなかった。
「分かりました」
静かに、確かに。
「その夢を実現するための努力をします」
一拍置いて、
「……叶えましょう」
馬車は進む。
二人は気づいていなかった。
今語っている“夢”が、
普通の人なら、何も考えずに手にしている日常だということに。
それを夢として掲げなければならない場所に、
自分たちが立っているということにも。
ただ、今は。
同じ方向を見て、
同じ言葉を交わしたことだけが、
確かだった。
※あとがき
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