第24話 いつもの夜
その夜は、いつも通り始まった。
王都は静かで、灯りは規則正しく並び、窓の向こうからは生活の音がかすかに流れてくる。特別な出来事があった日の夜だとは、外からは分からない。
家の中も同じだった。
セレナは椅子に腰を下ろし、背もたれに体重を預けていた。姿勢は崩れているのに、どこか落ち着かない。視線は定まらず、天井でも床でもない場所を見ている。
レオンはテーブルの端に座り、湯の冷めかけたカップを手にしていた。飲むわけでもなく、置くわけでもなく、ただ持っている。
二人とも、ほとんど喋らない。
沈黙が気まずいわけではなかった。話題がないわけでもない。ただ、声に出す必要を感じていなかった。
次に行く戦場の名前は、もう頭の中にある。
――ヴァルド西戦線。
口にしていないのに、共有されている。確認もしない。念押しもしない。そういうものだと、二人とも分かっている。
準備を始める気にはならなかった。
剣も、防具も、書類も、何一つ触らない。焦りもない。恐怖も、はっきりとはしない。
ただ、気が抜けたような感覚だけがあった。
休暇の終わりだと理解しているのに、体がその実感に追いついてこない。やるべきことは分かっているのに、今夜は何も始まらない。
それでも、行くことは決まっている。
話し合ってはいない。決断もしていない。
けれど、二人の中では、もう動かない。
王都の夜は、今日も平和だった。
その平和の中で、二人はただ、ぼんやりと時間を過ごしていた。
何も準備をしないまま。
行くことだけを、知ったまま。
しばらく、何も音がしなかった。
セレナが、ぽつりと言う。
「……戦線に戻る通達が来た夜が、こんなに重く感じたの、初めて」
誰に向けた言葉でもない。答えを求めてもいない。ただ、落ちた。
少し間を置いて、続ける。
「普通の人の、普通の日常って……こんなに幸せなのかな」
言葉が、途中でほどける。
「それともさ。今までが、辛すぎて……だから、こんなに幸せに感じたのかな」
独り言だった。
レオンはすぐには返さなかった。
考える時間というより、言葉を探している様子だった。
「……そうかもしれません」
低い声で言う。
「でも、だからこそ」
少し間が空く。
「王都の……いえ、王都に限らず」
一語ずつ、慎重に。
「普通の日常を送っている人たちには……幸せというものを、ちゃんと噛みしめて、生きていてほしいと……願ってしまいます」
言葉が、重たい。
「きっと……」
息を整える。
「平和が当たり前の人にとっては、それが見えないかもしれませんが」
そこで一度、言葉が途切れる。
「……それでも」
絞り出すように続ける。
「それが見えないくらい、平和が日常であってほしいとも……願ってしまう自分も、いるんです」
小さく、困ったように笑う。
「……矛盾してますよね」
セレナは、その顔を見て、すぐに言った。
「その矛盾、とっても素敵だと思うよ」
即答だった。
レオンは一瞬、言葉に詰まる。
「……そうでしょうか」
困ったように、目を伏せる。
また、静かな時間が流れた。
外から、遠くの足音と、風の音だけが聞こえる。
セレナが、ぽつりと漏らす。
「……平和だね」
「そうですね」
レオンも、同じ調子で返す。
しばらくして、セレナがテーブルに置かれた新聞を指で叩いた。
「王都の新聞、読んでてさ」
視線は紙面に落ちたまま。
「私たちが前に完全制圧した戦線とか……そういう“勝った話”しか載ってないんだよね」
紙をめくる音。
「戦況が悪い場所のことは、どこにも載ってない」
レオンは、静かに頷く。
「……そういうものなんですよ」
淡々と。
「僕らが今から向かう、ヴァルド西戦線なんて……どこにも載っていません」
一拍置いて、
「きっと、管理局の人間しか知りません」
その言葉が、部屋に落ちる。
それは、説明ではなかった。
暗に、再確認だった。
戦況が悪い場所に向かうという事実を。
セレナは、少しだけ肩をすくめて笑う。
「なんか……いつもどおりになってきたね」
「……無理はしないでくださいね」
レオンの声は、変わらない。
「無理しなきゃ、やってけないに決まってるじゃん」
軽く言ってから、少し間を置く。
そして、続けた。
「でもさ」
視線を上げる。
「また次の戦場でも、レオンがいてくれる」
それだけで、十分だった。
「今までの戦場より……全然、辛くない」
一瞬、言葉を探す。
「戦況とかじゃなくて」
胸のあたりに、手を置く。
「……心が」
その先は、言わなかった。
言わなくても、二人とも分かっていた。
行くことは、もう決まっている。
この夜が、どれほど平和でも。
この幸せが、どれほど重くても。
二人は、ヴァルド西戦線へ向かう。
それを、否定しない自分たちを。
もう、知ってしまっているから。
しばらくして、セレナがまた口を開いた。
同じ話題に戻っていると分かっていても、止められなかった。
「あのさ」
レオンは顔を上げない。
「さっきも言ってたけど、普通に生きてる人たちって……平和なこと、意識してないよね」
「……そうですね」
「街が消えるかもしれない、とか。明日が来ないかもしれない、とか。そんなこと、考えもしない」
責める調子ではなかった。ただ、確認するように。
「それでも」
セレナは続ける。
「その人たちの明日が、ちゃんと来るかどうかは……私たちが行くかどうかに、かかってる」
レオンは、ゆっくりと息を吐いた。
「はい」
肯定だった。
「行かなければ、街が消える可能性があることを……僕たちは、知っています」
知っている、という言葉が重い。
「想像じゃなくて」
セレナが言う。
「実際に、見てきたから」
「ええ」
「だからさ」
セレナは、言葉を選びながら続ける。
「私たちは、平和のために戦いに行かなきゃいけない。でも、平和に生きてる人たちは、それを知らない」
「知らないほうが……いいんです」
レオンが言う。
即答だった。
「知らないで、普通に笑って、暮らしていてほしいです」
セレナは、少しだけ目を細める。
「でも、そのためにさ」
声が、わずかに低くなる。
「今、私たちは……地獄を背負わされてる」
レオンは否定しなかった。
「……はい」
「背負わされてる、って言い方、ずるいかな」
セレナは苦笑する。
「だって、拒否権はあるし。誰かに脅されてるわけでもない」
「それでも」
レオンが続ける。
「知らされてしまっています」
その一言で、すべてが繋がった。
「行かなければ、何が起きるかを」
「誰が、どうなるかを」
「それを……知っている自分たちが、行かない、という選択をしないことも」
セレナは、小さく息を吸う。
「ほんと、ひどい構造だよね」
笑っていない。
「平和を守るために、地獄を引き受ける人間が必要で」
「その地獄は、平和な人たちには、見えない」
「見えないほうが、正しいです」
「でも、私たちは……それを知ってる」
レオンは、静かに言った。
「だから、行きます」
決意ではない。確認でもない。
ただの事実。
「それを、納得してしまっている自分たちがいることも……分かっています」
セレナは、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……最悪だなー」
「はい」
レオンは、少しだけ笑った。
「最悪です」
その笑顔は、優しかった。
同時に、逃げ場がなかった。
外では、王都の夜が続いている。
誰も知らないまま。
何も疑わないまま。
二人は、その平和を壊さないために、
地獄へ行くことを、もう受け入れていた。
この夜が、どれほど静かでも。
どれほど幸せでも。
また同じ内容を繰り返して確認して話して、すこし無理をして笑ってを何度か繰り返して。
でも、
それでも、
そのどれもが、答えにはならなかった。
あとがき
作者のはやんえでぃです
挨拶する場面がないと思ったので、一度だけここらへんで挨拶させてください。
もともと賞に応募するために作った作品です。ネット小説用に行間や、表現を変えながら書かせていただいています。
書いているときは、
毎回、次の戦場で最後かもしれないと、レオンとセレナと同じ気持ちで書かせてもらっていました。
書きながら気持ちを滲ませています。
日常回を書いてるときは本当に楽しかったです。けれど今はもう戦場への通達が来てしまいました。
最後まで、悩みました。正直、平和な王都で二人が心を取り戻していく話でもいいんじゃないかと。
二人には幸せに笑っていてほしいと、僕自身そう考えてしまうくらい幸せを描けました楽しかったです。
けれどセレナとレオン、ふたりは知ってしまっている側だと夜にふと考えて悩んでこの話まで進みました。
幸せな生活を願っている自分がいるからこそ踏み出した一歩です。
今きっと、読者の目線で投稿させてもらっています。
正直今までの作家としての人生で、あまり描いている実感がなく作品を作ってきたのかもしれません。
最後まで出来上がっている作品ではありますが、
今作のレオンとセレナのふたりを書いてやっと物語が立ち上がってきている実感がずっと沸いていてだからこそ二人を描くのが一文字一文字すごく重たかったです。
こんなに長く書くつもりはありませんでした。なんとなく消化しきれない。作者としての気持ちをここで吐き出したかっただけかもしれません。




