第23話 平和
目を開けたとき、セレナは一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が違う。
正確には、見慣れてきたはずなのに、まだ「自分の部屋」とは言い切れない天井だ。
――ああ。
昨日は、ここで寝たんだ。
視線を横にやると、隣にレオンがいる。布団をしっかりかぶって、仰向けのまま動かない。寝息は静かで、深い。
レオンは、朝が弱い。
それは昔からだ。戦場では不思議と平気だったくせに、王都に戻ってからは、朝になるたびに少しだけ世界から遅れる。
セレナは起き上がり、布団の端に腰を下ろした。
いつもなら、このまま洗面所に向かう。起こさない。急ぐ理由はないし、無理に起こす必要もない。
――でも。
今日は、なぜか、そのまま立ち上がらなかった。
足を伸ばして、靴下のまま、布団の中のレオンを軽くつつく。
反応はない。
もう一度、同じくらいの強さで。
やっぱり、動かない。
セレナは小さく笑って、今度は少しだけ強めにつついた。
「……」
それでも起きない。
「ほんとに起きないんだ」
独り言のように呟いてから、今度は足を引っ込める。
肩を揺らしてみることにした。
軽く。起こすつもりはない。ただ、反応を見るだけ。
「レオン」
名前を呼びながら、もう一度。
少し間があって、布団の中で、わずかに動きがあった。
うっすらと、目が開く。
「……おはようございます」
声はまだ眠っている。焦点も合っていない。
「おはよう」
「朝って……来るの、なんでこんなに早いんでしょう」
セレナは思わず笑った。
「レオンの朝は、特別早く来ちゃうのかもね」
「それは困ります」
そう言いながらも、レオンはゆっくりと上体を起こした。髪が少し乱れているが、気にする様子はない。
二人で洗面所に向かう。
鏡の前に並び、いつも通り顔を洗って、歯を磨く。水の音が一定のリズムで響く。
特別なことは何もない。
ただ、朝をしているだけだ。
「今日の予定は」
歯磨きを終えたレオンが、口をすすぎながら聞く。
「ない」
「私もありません」
少し考えてから、セレナが付け足す。
「することも、特にないね」
「そうですね」
二人で洗面所を出て、リビングに戻る。
「どこか行く?」
「どうしましょう」
「今日は外食にしてみる?」
「いいですね。久しぶりです」
「じゃあ、それで」
それだけの会話で、今日が形になる。
大げさな理由もいらない。決めることが少ない日というだけだ。
セレナは上着を羽織りながら、ふとレオンを見る。
起きたばかりのレオンは、まだ少しぼんやりしている。けれど、手の動きだけは乱れない。湯の量、火の加減、器の置き方――全部、同じだ。
「同じ」が積み重なると、日常になる。
セレナはその日常を、ただ眺めていた。
その途中で。
扉が叩かれた。
控えめで、整った音だった。強くもない。急いでもいない。相手は自分の用件を知っていて、こちらが開けるのを待てる音。
セレナの手が止まる。
レオンが先に動いた。
「私が出ます」
扉の向こうには、王都管理局の職員が一人立っていた。制服はきちんと整えられている。表情に感情はない。礼儀だけがある。
「英雄最高医殿。第五部隊団長殿」
名を並べて呼ぶ。そこに重みはない。手続きの言い方だ。
「正式な通達になります」
封筒が差し出される。
厚みはない。重さもない。軽い。
レオンはそれを受け取り、卓の上に置いた。すぐには開かない。
「ありがとうございます」
職員はそれ以上何も言わず、一礼して去った。説明も、補足も、質問を促す気配もない。
扉が閉まる。
音は静かだった。
王都の朝を壊すような音ではない。
なのに、セレナの中で、何かが一段だけ落ちた。
落ちたのは感情じゃない。呼吸でもない。もっと浅い、体の底にある調整の感覚だ。
レオンが封を切る。
紙の擦れる音が、部屋の中でやけに目立った。
文面は簡潔だった。
状況説明。
次の事案。
参加は任意。
拒否の権利あり。
丁寧で、親切で、正しい言葉が並んでいる。
――選択肢は、確かにある。
セレナはそこを読み落とさなかった。拒否は可能と書かれている。任意と書かれている。命令ではない。
だからこそ、余計に分かってしまう。
これは、命令ではない。
命令なら、まだ楽だ。怒りにできる。反発にできる。戦場で何度もそうやって耐えてきた。
でもこれは、違う。
紙の上には「自由」がある。
ただ、セレナの中には――それを選ぶ形が、なかった。
拒否した自分を想像しようとして、できない。
拒否して守られるものがあるのではない。拒否した瞬間、何かが崩れるとか、責められるとか、そういう話でもない。
もっと単純だ。
拒否してしまったあと、自分はどこに立っているのか。
その位置が、想像できない。
手のひらが、わずかに冷えた。
レオンは紙を読み終えて、畳んだ。動きは静かで、正確だった。顔色も変わらない。声も落ち着いている。
けれど、セレナは分かる。
レオンの中でも、同じ調整が始まっている。
戦場に入る前の調整だ。
音が減る。
色が落ちる。
余計なものが削がれていく。
代わりに、判断だけが残る。
――誰を前に出すか。
――どこを切るか。
――間に合わないものを、どう扱うか。
そういう場所に、また立つ。
恐怖という言葉は、遅い。
嫌だという感情は、もっと遅い。
そんなものを挟まずに、体が先に知っている。
あの場所では、感情は後から来る。来たとしても、処理できる形では来ない。何年か後に、夜の隙間から出てくる。誰にも見せない場所で、ようやく形になる。
セレナは紙から視線を外し、窓の外を見た。
王都は平和だった。
店の看板が出て、人が笑って、子どもが走っている。
何も知らないまま、今日が続くと思っている顔が並んでいる。
その平和が、どうやって成り立っているのかを――自分たちは知っている。
知らないでいられる人たちがいるために、どれだけの夜が削られてきたのかも知っている。
だから、ここに「戻る」ことはできない。
戻れない、という言葉が正しいんじゃない。
戻るという発想が、最初からない。
セレナは息を吐いた。
吐いた息は、白くならなかった。王都は暖かい。暖かすぎる。戦場の冷えとは違う。
「……今日、外食にするって言ってたね」
自分で言って、自分で驚く。声が、いつも通りに出てしまった。
レオンは頷いた。
「はい」
否定しない。慰めない。気を逸らそうともしない。
レオンは、ただ受け止める。
セレナは、通達の紙を指で押さえた。紙は軽い。薄い。命の重さを載せるには、あまりにも薄い。
「どうする?」
質問の形をしていた。
でも、答えを求めていないことを、セレナ自身が分かっていた。
レオンは視線を上げないまま、静かに言った。
「……準備しましょう」
それだけだった。
決意の言葉ではない。
覚悟でもない。
ただ、次に必要な動作を言っただけだ。
セレナは頷いた。
拒否権があることを、もう一度だけ頭の中で読み上げる。
参加は任意。
拒否は可能。
――正しい。
けれど、それを選ばない自分たちがいる。
選ばないのではない。
選べないのではない。
その違いを説明する言葉を、セレナは持っていない。
ただ、知っている。
あの場所に立つ自分を、否定できない。
レオンも同じだ。
隣にいるだけで分かる。同じ速度で、同じ方向に、沈んでいく。
王都の朝は相変わらず整っている。
湯が沸く音も、食器の触れ合う音も、外の笑い声も、何ひとつ変わらない。
変わったのは、二人の中の「世界の音」だった。
音が減った。
色が落ちた。
判断だけが残る場所へ、足が向く。
それが、自分たちだ。
セレナは上着を握り直した。
さっきまで「どこへ行こうか」と言っていた手だ。
その手が、もう次の動作を探している。
何も壊れていない。
誰も怒っていない。
誰も命令していない。
それでも、今までの朝は終わった。
終わった音は、紙が擦れた音だった。
小さくて、確かで、戻れない音。
セレナはそれを聞いたまま、立っていた。
レオンも、同じように立っていた。
平和な部屋で。
外に出ると、王都は相変わらず明るかった。
人の流れがあり、声があり、匂いがある。昼に近づくにつれて、通りは少しずつ賑やかになる。誰もが、今日がいつも通り続くものだと思って歩いている。
二人は並んで歩いた。
会話はほとんどなかった。
店に入り、席に案内され、料理を選び、水を受け取る。その一つ一つが、驚くほど普通だった。
食事が運ばれてきても、しばらくは箸をつけなかった。
セレナは、向かいに座るレオンを見ていた。
何かを考えているようで、考えていないようでもある。ただ、視線の奥が、いつもより遠い。
料理の湯気が立ち上る。
その湯気の向こうに、王都の平和がある。
ここでは、誰も血を流していない。誰も叫んでいない。判断を迫られている人もいない。
それでも、この場所が成り立っている理由を、セレナは知っている。
自分たちが、あの場所に立ってきたからだ。
支える側に回り続けてきた人間がいるから、ここでは何も知らずにいられる。
それを、二人は無言のまま、同じ速度で噛み締めていた。
箸を動かしながら、セレナはふと口を開いた。
声は、いつもと同じ明るさだった。
「なんかさ」
言ってから、少し間を置く。
「ずっと続きそうな感じ、しちゃってた」
レオンは視線を上げる。
セレナは笑っていた。
「この平穏な暮らしがさ。住む家もレオンの家になって、同じ朝が来て、同じくだらない会話して」
笑いながら、言葉を続ける。
「なんか……当たり前になっちゃってたなって」
少しだけ、視線を落とす。
「レオンが戻ってくる前は、普通に次の戦場までの準備期間だったんだよ」
それは、何度も繰り返してきた時間だった。
「でもさ」
セレナは、もう一度レオンを見る。
「レオンが戻ってきてからは……私には、幸せすぎたかも」
そう言って、また笑った。
レオンは、すぐには返事をしなかった。
少し考えてから、静かに言う。
「僕にとっては」
声は落ち着いている。
「その幸せを、セレナにずっと感じていてほしいって思う自分が、います」
セレナは、何も言わずに聞いている。
「そして」
レオンは続けた。
「僕が戦場に行かない、という選択肢を持たない理由も……セレナは、知っています」
否定でも、自己弁護でもない。
ただの事実だった。
「選択肢があるようで、僕らの中にはないってことを」
少しだけ、息を吐く。
「それを、僕らが一番よく分かっています」
それでも、と言葉を続ける。
「……なのに」
一瞬、間が空く。
「それを忘れてしまうくらい、僕も幸せでした」
そう言って、レオンは小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、セレナの胸の奥が、きしんだ。
理由は分かっている。
レオンが、幸せだったこと。
そして、その幸せの終わりを、ちゃんと理解している顔だったこと。
涙が出た。
声は出ない。
ぽた、と一滴。
また一滴。
ただ落ちるだけの涙だった。感情を伴わない、生理反応のようなものだ。
レオンは、それ以上何も言わなかった。
静かに立ち上がり、会計を済ませる。
「帰りましょう」
それだけ言って、セレナのそばに来る。
外に出ると、光が強かった。
セレナは、うまく前を見て歩けなかった。
レオンは何も言わず、手を取った。
引く力は強くない。ただ、確かだった。
二人はそのまま、家へ向かった。
部屋に戻ると、ようやく空気が静まった。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえる。
レオンはセレナの様子を確かめてから、静かに尋ねた。
「……やっぱり、つらかったですか」
セレナは、首を横に振る。
「ううん」
少し考えてから、正直に言う。
「レオンが……つらそうなのが、つらくて」
それだけだった。
自分のことではない。
レオンの中で何かが終わったことを、見てしまったからだ。
レオンは、その言葉を受け取って、何も返さなかった。
ただ、胸の奥に、重さが落ちるのを感じていた。
ずっしりと。
逃げ場のない、深いところに。
それが、自分の重さだと分かっている重さだった。
二人は、何も言わずにそこに立っていた。
戦場に立つ人間として。
平和を支える側として。
そして――
そのことを、もう忘れられなくなった人間として。
※あとがき
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