第22話 住所
式典の翌朝は、驚くほど静かだった。
目を覚ましたとき、セレナは一瞬だけ、ここがどこか分からなくなる。
天井の色、差し込む光の角度。すぐに思い出す。
レオンの家の自分の部屋だ。
そして、隣にレオンがいる。
ベッドの端で、レオンはまだ眠っていた。
相変わらず朝は弱い。深く息をして、まったく起きる気配がない。
セレナは音を立てないように身体を起こす。
昨夜の余韻が、まだ身体に残っている。
一緒に寝たこと自体が特別なわけじゃない。
戦場では、テントで何度も同じ夜を越えてきた。
それでも、今こうして目を覚まして、
「いつも通り」になっていることが、やけに幸せだった。
洗面所へ向かう途中、リビングを横切る。
ふと、足が止まった。
机の上に、二つの勲章が置かれている。
昨日、あれだけ拍手を浴びた証。
《双耀王冠勲章》。
並べて置かれているのに、どちらが誰のものかは分からない。
細工も重さも、刻まれた意匠も、完全に同じ。
昨日、手の中でぐしゃぐしゃに混ぜた。
わざと、区別がつかなくなるように。
その結果、今はもう、
「二つある」ということしか残っていない。
どちらがセレナのものか。
どちらがレオンのものか。
答えはないし、必要もなかった。
半分ずつになった、という感覚に近い。
正確には、分け合ったというより、溶け合った。
確かなものだったんだな、とセレナは思う。
昨日の出来事は、夢でも錯覚でもない。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
洗面所に入り、顔を洗う。
水は冷たいが、不快じゃない。
歯を磨きながら、鏡の中の自分を見る。
特別な英雄の顔ではない。
いつもの自分だ。
背後で、足音がする。
「おはようございます」
眠気を含んだ声。
振り返ると、レオンが立っていた。
髪は少し乱れていて、目も半分閉じている。
「おはよう」
「……早いですね」
「あなたが遅いの」
セレナがそう言うと、レオンは小さく苦笑した。
「努力はしているんですが」
洗面台に並んで、同じように顔を洗い、歯を磨く。
特別な会話はない。
それでも、この光景が、確かに続いている。
昨日がどれだけ特別だったとしても、
今日が、ちゃんと「今日」として始まっている。
それが、なによりの幸せだった。
呼び鈴が鳴った。
魔法式でも、警報でもない。
玄関脇に取り付けられた、ただの鈴だ。
チリン、と乾いた音が家の中に響く。
反射的に立ち上がったのは、セレナだった。
「はーい」
レオンの家なのに、もう迷いがない。
当たり前のように玄関へ向かい、扉を開ける。
そこに立っていたのは、第五部隊の団員だった。
見覚えのある顔。緊張したように背筋を伸ばしている。
「あっ……やっぱり、ここでしたか」
「どうしたの?」
「昨日、飲み会にいらっしゃらなかったので。改めて、どうしてもお礼を言いたくて」
団員は一歩下がり、きちんと頭を下げた。
「団長。今回の件、本当にありがとうございました」
その声を聞いた瞬間、セレナの背筋がすっと伸びる。
さっきまでの気の抜けた空気は消え、団長の顔になる。
「ご苦労だった。あれは皆で掴んだ戦果だ。胸を張っていい」
「……はい!」
団員は、少しだけ目を潤ませて顔を上げた。
「それだけです。失礼しました」
深く一礼して、足早に去っていく。
扉を閉めると、空気が戻った。
「誰だったんですか?」
リビングからレオンの声がする。
「団員のひとり。ありがとーって言いに来ただけ」
そう言いながら、セレナはいつもの二人がけのソファに戻る。
ごろんと横になり、片足だけ床に投げ出して、ぶらぶら揺らす。
この家に来てから、自然と身についた癖だった。
レオンはソファの端、定位置に腰を下ろしている。
しばらく、静かな時間が流れる。
セレナは天井を見つめたまま、何か言いたそうに口を開きかけては閉じる。
その様子を、レオンは横目で気づいていた。
「……どうしました?」
「んー……」
少し間を置いてから、ぽつりと。
「あのさ。住所、ここに移していい?」
レオンは一瞬だけ考えるような間を置き、すぐに答えた。
「そうですね。そのほうが、ずっとここにいますし」
淡々とした口調で続ける。
「いろいろ、困らないでしょう」
「……え?」
あまりにあっさりしていて、セレナが身体を起こす。
「え、いいの? もっとこう、悩むとかさ」
「悩む理由が見当たりません」
きっぱり言われる。
セレナは一瞬きょとんとしてから、にやっと笑った。
「なになにー?」
そのまま身を寄せて、レオンの肩に腕を回す。
「私がいないと、ほんとは寂しかったんじゃないのー?」
「いやいや」
レオンは苦笑して、軽く肩をすくめる。
「居候し始めたのは、そっちですよね」
「細かいことはいいの」
セレナは楽しそうに言って、腕を離す。
「じゃ、決まりね」
そう言って、再びソファに倒れ込む。
王都のメインストリート近く。
一等地にある一軒家。
レオンの家であり、
そしてこれからは、セレナの家でもある。
その事実を、どちらもまだ特別な言葉にはしなかった。
けれど、もう疑う余地もなかった。
静かな午後の光が、リビングに差し込んでいた。
それから、セレナは迷いがなかった。
家を出るときには、もう決めていたような足取りで、軽く跳ねるように歩き出す。
途中から完全にスキップになっているのを自覚しつつ、止める気はなかった。
まずは、これまで住んでいたワンルームへ戻る。
狭くて、寝るだけの部屋。
戦場に出ている時間のほうが長く、正直「帰っている」という感覚も薄かった場所だ。
業者に連絡を入れ、解約の手続きを進める。
家具はすべて、孤児院への寄付を選んだ。
まだ使えるものばかりだし、置いていく理由もない。
最後に、王都の役所へ向かう。
住所変更の届け出。
書類に名前を書く。
新しい住所を書く。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
書き間違えがないか何度も確認して、係員に提出した。
気づけば、空は夕方の色に傾いていた。
帰り道。
歩いているはずなのに、いつの間にか鼻歌が出ている。
旋律は適当で、歌詞もない。
家が近づくにつれて、またスキップになっている自分に気づいて、思わず笑った。
――自分の家。
そう呼んでいい場所が、もうある。
玄関を開けると、静かな空気が迎えてくれた。
書斎の扉は半開きで、中からペンの音が聞こえる。
覗くと、レオンが机に向かっていた。
背筋を伸ばし、真剣な表情で何かを書いている。
セレナは靴を脱ぐのももどかしく、書斎まで行くと、勢いよく紙を差し出した。
「どうだー!」
少し息が上がっている。
レオンは顔を上げ、一瞬きょとんとしてから、紙に視線を落とした。
「……おー。お疲れさまです」
セレナの妙に高いテンションに、若干押され気味の声だった。
「全部終わった。解約も、寄付も、住所変更も」
「早いですね」
「早いでしょ」
得意げに胸を張る。
ふと、レオンの手元が気になって、身を乗り出す。
「それ、なに書いてるの?」
覗き込んだ書類に、自分の名前を見つけて、目を瞬かせる。
「第五部隊宛ての届け出です。団長の住所変更について」
「ああ……」
そういうのも、必要なのか。
自分では考えていなかったことに、今さら気づく。
でも同時に、それを書いているのがレオンだという事実が、胸に落ちてくる。
何も言わずに。
当たり前のように。
もう「ここにいる前提」で。
それが、嬉しかった。
「……ありがと」
レオンはペンを止めて、少しだけ困ったように笑った。
「事務的なことですから」
「そういうところ、レオンだなって思う」
「どういう意味ですか」
「ちゃんと全部考えてるところ」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。
夕方の光が、書斎の床に長く伸びていた。
生活が、確かに動き始めていた。
書斎まで、セレナの独り言が聞こえてきていた。
「いやー、まさかこんな一等地に家を構えることになるとは! 我ながら努力したものです!」
腕を組んで、うんうんと大げさに頷きながら言っている姿が、声だけで目に浮かぶ。
――いや、それ僕の家なんですけど。
心の中で静かに突っ込みを入れた、その直後。
「ワハハハ! 諸君、この拠点は私が制圧した! ワハハハ!」
また何かに勝利したらしい。
意味もなく満足そうに頷く気配がして、レオンは思わず口元を緩めた。
ずいぶん上機嫌だな。
ペンを置き、椅子を引いて立ち上がる。
声のする方へ歩きながら、自然と笑ってしまっていた。
リビングに行くと、セレナは本当に満足そうな顔で立っていた。
自分の家になった場所を、ゆっくり見回している。
レオンは肩をすくめて笑った。
ずいぶん上機嫌だ。
「ご機嫌ですね」
声をかけると、セレナは振り向いてにっと笑う。
「当然でしょ。今日からここが拠点なんだから」
言い切るその様子に、レオンは少し考えてから口を開いた。
「一緒に住む、ということになりましたし」
セレナが首を傾げる。
「生活の区切りとしてですね。
そろそろ、お互い自分の部屋で寝るようにしませんか」
淡々とした提案だった。
感情を含ませるつもりも、含む必要もない話題のつもりだった。
「……へ?」
セレナが間の抜けた声を出す。
「別に、今までどおりでも問題はありませんが」
「生活リズムの話です。僕、朝が弱いですし」
セレナは少し考えるように視線を上に向けた。
「……ああ、そういう意味?」
「はい」
一拍置いて、肩をすくめる。
「なんだ。急に距離を取る話かと思った」
レオンは一瞬きょとんとする。
「いえ。そういう意図はありません」
「ならいいや」
それだけ言って、セレナはソファに倒れ込む。
いつもの癖で、片足だけ投げ出してぶらぶらさせる。
「まあ、気が向いたらでいいよ。
生活なんて、やってみてから決めればいいし」
「……そうですね」
空気は少しだけズレたが、壊れてはいない。
ただ、同じ言葉を違う角度から見ていただけだった。
しばらくして、部屋の空気がまた変わった。
鼻歌が聞こえてくる。
さっきまでの張りつめた感じは、もうどこにもない。
セレナはベッドの上に腰を下ろし、機嫌よく足を揺らしていた。
その様子を確認してから、レオンは何も言わずに近づき、ベッドの縁に腰を下ろす。
「……ということで」
セレナが、いかにも結論を出しましたという口調で言う。
「ここはもう、私の拠点でもあるわけだから」
少し胸を張る。
「私の意見にも、ちゃんと従ってもらいます」
レオンは思わず小さく笑った。
「何でしょうか、団長」
からかうでもなく、軽い調子で返す。
セレナは満足そうに頷いた。
「今日はね」
間を取ってから、はっきり言う。
「私の部屋で寝ることにします」
宣言だった。
レオンは一瞬だけ考える素振りを見せてから、あっさりと頷く。
「分かりましたよ」
声は穏やかで、いつも通りだった。
「今日は、そうしましょう」
セレナはそれを聞いて、さらに機嫌がよくなる。
「よろしい」
偉そうに言いながら、また鼻歌に戻る。
特別な意味はない。
ただ、その日の生活の決まりごとが一つ決まっただけ。
レオンはそのままベッドの縁に座り、セレナはごろりと横になる。
部屋には、いつもの静かな時間が戻ってきていた。
それだけで、十分だった。
※あとがき
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