第2話 後ろ
―――ある日。
訓練を終えて戻ると、治療棟の前が妙に静かだった。
人はいる。
だが、動きが妙に揃っている。
いつものように慌てていない。
なにより、無駄がない。
中央で指示を出している人物を見て、セレナは足を止めた。
見間違えるはずがなかった。
レオンだった。
声は低く、短い、そして正確だ。
だから、誰も聞き返さない。
その場にいる全員が、レオンの判断を前提として動いている。
その結果として、無駄なく揃った動きをすることが、皆できていた。
終わったあとで、呼び止めた。
「何してたのー?」
「急患が重なりました」
「それだけじゃないでしょ、指示出してた」
レオンは一拍置いてから答えた。
「役割が、変わりました」
それが、彼の言い方だった。
あとで知らされた。
英雄最高医。
戦場で発生するあらゆる重症例に対し、最終判断を下す役職。
名目上は医療部門の衛生兵。
だが実態は、戦局に直結する位置だった。
昇進の速さに、周囲がざわついた。
前例がない。
あまりにも若すぎる。
責任が重すぎる。
そんな声が、遠くで聞こえた。
セレナは、その話を聞きながら、静かに息を吐いた。
驚きはなかった。
そうなると思っていたからだ。
この若さで治癒魔法をここまで強力に使える人なんて、聞いたことない。
ただひとつ、胸の奥で温かくなったことがあった。
担当医。
自分の名前が、治療記録の対象欄に載っているのを見たときだった。
第五部隊指揮官候補 セレナ・ヴァレンティス。
担当医 レオン・グラハム。
文字として並んだだけなのに、なぜか笑いそうになった。
訓練で無茶をすれば、すぐに呼び出される。
「今日は、ここまでです」
「まだ動ける」
「判断として止めます」
敬語は崩れない。
だが、言葉は迷わない。
「私の体なんだけど」
「私の責任でもあります」
そう言われると、それ以上言えなかった。
怒る気にもならない。
むしろ、安心してしまう。
前に立つ自分の体を、後ろから見ている人間がいる。
それを、正式な形で引き受けている。
それが、どれほど心強いことか。
英雄最高医という肩書きよりも、
自分の担当医になったという事実のほうが、ずっと大きかった。
ある夜、食堂で並んで座ったとき、ふと思って口にした。
「出世したね」
「そうでしょうか」
「普通、もう話しかけづらくなる頃よ?」
レオンは首を傾げた。
「僕、何か変わりましたか?」
「ううん」
セレナは即答した。
「何も」
それが、嬉しかった。
距離が変わらないこと。
呼び方が変わらないこと。
態度が変わらないこと。
周囲が肩書きを見るようになっても、
お互いの肩書きが重くなっても、
レオンは人を見ていた。
それが、どれほど特別なことかを、
この頃のセレナは、もう分かっていた。
19になる頃には、もう何度も戦場に立たされた。
負傷することだって、何度もあった。
命の危険にだって晒された。
でも、レオンがすべて治してくれた。
私の後ろには必ずレオンが居た。
――だから最強なんだって、思えるようになった。
どんな場所だって戦えた。
どんな前線に立たされても、足がすくむことはなかった。
いつのまにか、
「セレナがいる戦場は、全戦無敗だ」
そんな言葉が、当たり前のように囁かれるようになった。
でも、私は知っていた。
それは私が強かったからじゃない。
私の担当医として、レオンがそこにいたからだ。
衛生兵の天蓋は、
彼の判断ひとつで、正しく動いていた。
誰を先に救うか。
どこまで踏み込めるか。
退くべきか、押し切るべきか。
そのすべてを、
彼は一瞬で見抜いていた。
英雄最高医。
その名に恥じない、あまりにも強力な治癒魔法。
技術。
判断。
そして何より――
私が前に立ち続けることを、迷いなく許してくれる存在。
だから私は、剣を振れた。
だから私は、生きて帰れた。
勝っていたのは、
戦場じゃない。
私たちは、
あの場所で、生き残るための選択を、
何度も、何度も、間違えずに重ねていただけだった。
この人が後ろにいる限り、前に立てる。
判断を間違えても、戻る場所がある。
すべてが、うまく回っている。
そう信じて疑わなかった。
あの頃は、まだ。
知らせは、整った形では届かなかった。
噂が先だった。
正式な文書よりも前に、空気が変わった。
治療棟の前で、足を止める人が増えた。
視線が、一点に集まる時間が増えた。
名前が、声を潜めて呼ばれるようになった。
セレナは、それを無視していた。
関係ない。
自分たちは、いつも通りだ。
そう思っていた。
だが、ある日の夕方。
訓練を終えて戻る途中で、呼び止められた。
「セレナ」
振り返ると、レオンが立っていた。
白衣ではない。
書類を抱えている。
それだけで、嫌な予感がした。
「今、少しいいですか」
「なに」
声が、少し強くなったのを自覚していた。
レオンは周囲を見てから、静かに言った。
「場所を変えましょう」
それが、すべてを決定づけた。
人目を避ける言い方。
立ち話で済ませない態度。
胸の奥が、嫌な形でざわつく。
何も言わずについていくと、
訓練場の端にある、使われていない倉庫の前で止まった。
レオンが口を開く。
「...前線を離れることになりました」
一瞬、意味が分からなかった。
「は」
声にならない音が漏れる。
「どういうこと」
「配置換えです」
「誰が決めたの」
「上です」
淡々とした答えだった。
セレナの中で、何かが弾けた。
「ふざけないで」
言葉が、先に出た。
「今でしょ」
一歩、近づく。
「今、いちばん必要な場所にいるのに」
「それを決めるのは、僕の判断じゃありません」
「じゃあ何の判断よ」
声が震える。
怒りなのか、
理解できない焦りなのか、
もう分からない。
「英雄最高医でしょ」
「...そうです」
「だったら」
言葉が詰まる。
喉の奥が、熱くなる。
「だったら、なんで」
視界が滲んだ。
怒りより先に、涙が出てきた。
それが、余計に腹が立つ。
「なんで、いなくなるの」
レオンは、すぐに答えなかった。
少しだけ、目を伏せる。
「今の体制では」
そこで止まる。
続きは、言わなくても分かってしまった。
「守れないものが、増えるからです」
その瞬間。
セレナは、完全に怒った。
「勝手に決めないで」
声が、はっきりと荒れた。
「守れないって何」
「誰を」
「何を」
一歩、さらに詰める。
「私は」
胸を押さえる。
「私は、どうなるの」
「私の担当医としての役割を捨てていくの」
涙が落ちる。
拭う気にもならない。
「後ろにいるって言ったじゃない」
「下がらなくていい位置を考えるって」
「言ったよね」
レオンは、動かない。
逃げない。
だが、肯定もしない。
「...状況が、変わってしまいました」
それだけだった。
その言葉で、何かが折れた。
「変わったのは」
セレナは、笑ってしまった。
涙を流しながら。
「世界のほうでしょ」
声が、震える。
「あなたは、何も変わってない」
怒りが、はっきりと形になる。
「それなのに」
「なんで、いなくなるの。」
返事はなかった。
沈黙が、肯定の代わりだった。
セレナは、数歩下がる。
胸が、苦しい。
息が、うまく入らない。
「……最低」
小さく呟く。
誰かを罵る言葉じゃない。
現実に向けた言葉だった。
「私は」
声が、掠れる。
「あなたがいるから、前に立てた」
「あなたが戦況を判断するって治療してくれるって分かってたから」
「無茶もできた。」
涙が止まらない。
でも、止めない。
「それを」
「全部、置いていくの」
レオンは、初めて目を上げた。
真っ直ぐに、セレナを見る。
「置いていきません。」
「戻ります。必ず。」
「嘘っ!」
即座だった。
「ここにいないってことは」
「同じことでしょ」
怒りが、悲しさを完全に追い越す。
「......私は」
歯を食いしばる。
「待たない」
そう言った瞬間、
自分でも嘘だと分かった。
「待たないからっ」
繰り返す。
自分に言い聞かせるように。
レオンは、何も言わなかった。
その沈黙が、すべてだった。
セレナは、踵を返す。
振り返らない。
今、顔を見たら、
もっとひどい言葉を言ってしまう。
倉庫の外に出た瞬間、
膝が震えた。
立っていられない。
壁に手をつき、
声を殺して泣いた。
悲しい。
悔しい。
腹が立つ。
それ以上に。
裏切られたと思ってしまった自分が、
一番、許せなかった。
―――レオンが前線を離れてから、最初の数日は記憶が曖昧だった。
起きて、訓練に出て、戻ってくる。
剣を握っているはずなのに、重さを思い出せない。
声をかけられても、返事をしたかどうか分からない。
眠れなかった。
正確には、眠ってもすぐに目が覚めた。
夜明け前の時間が、いちばんつらい。
誰も起きていないはずなのに、頭の中だけがうるさい。
あのときの声。
あの言い方。
最後まで言わなかった言葉。
考えないようにしても、勝手に浮かぶ。
訓練場に立っても、集中できなかった。
剣先が、少しずつずれる。
一歩、踏み込みが遅れる。
教官が眉をひそめる。
叱責はなかった。
それが、余計につらかった。
怪我をした。
かすり傷だったが、治療棟に行く気にならなかった。
あそこに行けば、必ず思い出す。
白衣。
低い声。
淡々とした判断。
行かずに済ませた。
その夜、熱が出た。
身体がだるく、立ち上がる気力もなかった。
それでも、誰にも言わなかった。
言えば、戻れなくなる気がした。
数日が過ぎ、数週間が過ぎた。
セレナは、少しずつ孤立していった。
避けられているわけではない。
むしろ、気を遣われていた。
それが、分かったから余計につらい。
強いと思われている。
平気だと思われている。
でも、本当は何も平気じゃなかった。
ある朝、訓練場に行く途中で足が止まった。
行きたくない。
剣を握りたくない。
前に立ちたくない。
そう思った瞬間、
胸の奥が、ゆっくりと沈んだ。
拒否したはずなのに、身体は動いていた。
足は訓練場へ向かっていた。
止まれなかった。
止まる理由を、もう持っていなかった。
訓練が始まる。
号令がかかる。
剣を抜く音が、周囲で重なる。
その音だけが、ひどく遠かった。
振る。
止める。
返す。
動作はできている。
でも、どこにも力が入らない。
剣を振っているのは、腕だけだ。
身体の芯が、どこにもなかった。
敵を想定しても、顔が浮かばない。
守る対象も、思い出せない。
――後ろが、空いている。
ふと、そう思った。
振り返りそうになって、踏みとどまる。
そこには、もう誰もいない。
分かっている。
分かっているはずなのに、
何度も同じ錯覚に捕まる。
剣先が逸れた。
次の瞬間、腕に衝撃が走る。
視界が白く弾けた。
倒れなかったのは、偶然だった。
「……大丈夫か」
誰かの声がする。
「問題ありません」
反射でそう答えていた。
自分の声が、他人のものみたいだった。
訓練は続いた。
誰も止めなかった。
それが正しい判断だと、分かっていた。
分かっているから、余計に苦しかった。
夜になる。
部屋に戻る。
剣を置く。
鎧を外す。
それだけの動作に、異様に時間がかかる。
座り込んだまま、動けなくなる。
息を吸う。
吐く。
それだけなのに、ひどく疲れる。
頭の中で、声が重なる。
判断の声。
指示の声。
淡々とした、あの低い声。
間違っていない。
正しかった。
最善だった。
そう言われている気がして、
そのたびに、胸が締めつけられる。
だったら、どうして――
どうして、私は立っていられない。
答えは出ない。
出ないまま、夜が深くなる。
眠ろうと横になる。
目を閉じる。
すぐに、開く。
暗闇の中で、時間の感覚が消える。
朝なのか、夜なのかも分からない。
身体が、鉛みたいに重い。
起き上がれない。
起き上がる理由も、見つからない。
食事の時間を、何度も逃した。
空腹なのかどうかも、よく分からない。
喉が渇いている気はする。
でも、水を取りに行くのが、途方もなく遠い。
何もしていないのに、
ずっと戦っているみたいだった。
逃げ場がない。
戦場より、ずっと狭い場所で、
ずっと深いところに落ちていく。
強いと思われている。
折れないと思われている。
だから、誰も気づかない。
だから、誰にも言えない。
このまま、
剣を握れなくなってもいい。
前に立てなくなってもいい。
ただ――
もう、何も考えたくなかった。
死にたくなっていた。
ただ、それだけだった。
その日は、何もできなかった。
剣を持ち上げる気力も、
立ち位置を考える余裕も、
声を出す理由も、なかった。
身体は動いていた。
訓練場にも立っていた。
命令にも従っていた。
それでも――
自分が、どこにもいなかった。
視界の端で、人が倒れた。
誰かが名前を呼んだ。
判断を待つ視線が集まった。
なのに。
遅れた。
一拍。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
間に合わなかったわけじゃない。
取り返しがつかない結果でもない。
それでも、分かった。
今の自分は、
「遅れる側」になっている。
あの場所に立ってはいけない人間に、
足を踏み入れている。
心臓の奥が、静かに沈んだ。
――次も、同じだ。
次は、もっと遅れる。
その次は、間に合わない。
そういう未来が、はっきり見えた。
恐怖はなかった。
焦りも、怒りもなかった。
ただ、どうでもよくなった。
倒れてもいい。
責められてもいい。
ここから消えても、いい。
そのまま、立ち止まった。
足が、動かなかった。
このまま、
戻れなくなる。
その事実に気づいた瞬間、胸が冷えた。
立ち止まったまま、しばらく動けなかった。
このまま、戻れなくなる。
そう思った。
そのとき、ふと浮かんだ。
もし、今の自分を見たら。
レオンは、何と言うだろう。
心配するだろうか。
何も言わないだろうか。
どちらでもいい。
ただ。
今の自分は、見せられない。
情けなくて、弱くて、立ち止まっている姿を。
拳を握りしめた。
爪が、掌に食い込む。
痛みが、現実に引き戻す。
セレナは、顔を上げた。
涙は出なかった。
もう、出尽くしていた。
「……戻ってくるんでしょ」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、口に出した。
「......だったら」
息を吸う。
「恥ずかしい自分で、待たない。」
その日から、少しずつ変えた。
訓練に出る。
遅れても、休まない。
剣が重くても、振る。
判断が鈍っていると感じたら、動きを止めて考える。
逃げない。
誰にも弱音を吐かない。
吐いたら、戻れなくなる気がしたからだ。
夜は、眠れないままでも横になった。
身体を休めることだけを考えた。
治療棟にも、行くようになった。
別の医師だった。
手際はいい。
問題はない。
それでも、物足りなかった。
比較している自分に気づき、腹が立った。
そんな日々が、一か月続いた。
ある日、訓練後に言われた。
「前に出てみろ」
自然な命令だった。
拒む理由はない。
セレナは、一歩前に出た。
剣を構える。
視界が、少しだけ澄んでいた。
恐怖はある。
不安もある。
でも、逃げたい気持ちはなかった。
剣を振る。
音が、戻ってきた。
その瞬間、分かった。
完全じゃない。
昔の自分でもない。
それでも。
前に立てる。
その日の夜、セレナは久しぶりに眠った。
深く、短く。
夢は見なかった。
目が覚めたとき、胸の奥に残っていたのは一つだけ。
戻ってくるまで。
自分は、前に立ち続ける。
それだけを、決めた。
レオンが前線を離れたあとの戦場は、分かりやすく壊れた。
最初に違和感が出たのは、配置だった。
同じ地形。
同じ兵数。
同じ補給。
それなのに、線が保たない。
一歩、下がる。
二歩、戻る。
判断が、半拍ずつ遅れる。
誰かが悪いわけじゃない。
誰かが怠けているわけでもない。
それが、いちばん厄介だった。
負傷者が増えた。
数ではない。
質が変わった。
致命傷になる前に下げられていた兵が、戻らない。
戻れるはずの者が、間に合わない。
治療はされている。
命も助かっている。
それでも、前に戻ってこない。
そのせいで、残った者に負荷がかかる。
負荷がかかるから、判断が鈍る。
判断が鈍るから、また負傷者が増える。
悪循環だった。
セレナは、すぐに気づいた。
これは戦術の問題じゃない。
士気の問題でもない。
後ろが、信じ切れなくなっている。
前に立つ者は、無意識に計算する。
この傷で、戻れるか。
戻れなかったら、線はどうなるか。
その迷いが、一瞬の遅れを生む。
昔は、なかった。
考えなくてよかった。
戻れると分かっていたから。
レオンが居たから。
セレナは、歯を食いしばった。
だからこそ、立った。
前に出た。
誰よりも前に。
下がらなかった。
倒れなかった。
判断を、速くした。
迷いを、削った。
自分が折れれば、線が崩れる。
それが、はっきり分かっていた。
英雄と呼ばれるようになったのは、その頃だ。
望んだわけじゃない。
名乗った覚えもない。
ただ、立ち続けただけだ。
立って、斬って、判断して。
倒れそうになっても、前を向いた。
夜、鎧を脱ぐと、身体が震えた。
痛みではない。
疲労でもない。
張りつめていたものが、緩む音だった。
それでも、泣かなかった。
泣いたら、立てなくなる気がした。
―――戻ってきたとき。
もし、また会えたとき。
その瞬間を、何度も想像した。
治療棟の前。
戦場のあと。
どこでもいい。
言う言葉は、一つだけだ。
「おかえり。」
それを言うとき。
自分が折れていたら、駄目だ。
頼ってしまったら、駄目だ。
恨んでしまっていたら、駄目だ。
胸を張って言いたかった。
あなたがいなくても、立っていたと。
あなたが戻る場所を、守っていたと。
だから、立ち続けた。
戦場がうまく回らなくなっても。
部下が倒れても。
判断を誤りかけても。
自分だけは、前に立った。
英雄と呼ばれるたびに、違和感は増した。
でも、否定はしなかった。
呼ばれるなら、立つ。
期待されるなら、応える。
それが、自分の選んだ待ち方だった。
三年。
長かった。
短くもあった。
振り返る余裕はなかった。
ただ、前を向いて。
いつか言う一言のためだけに。
恥ずかしくない自分でいるために。
セレナは、立ち続けた。
号令が飛び、金属がぶつかる音が重なる。
血と鉄の匂いが、風に乗って流れてくる。
いつも通り、セレナは前に立っていた。
第五部隊の騎士団長として。
英雄と呼ばれる立場として。
剣は重くない。
視界も、判断も、まだ冴えている。
だが。
違和感があった。
説明できるほど、はっきりしたものではない。
ただ、戦場の回り方が、変わっている。
一歩踏み出した兵が、戻ってくるのが早い。
下がったはずの者が、列に戻っている。
おかしい。
補給は増えていない。
配置も変わっていない。
それなのに、線が崩れない。
胸の奥が、きゅっと締まる。
知っている感触だった。
昔。
レオンが前線にいた頃。
後ろを振り返らなくてよかった時代。
セレナは、無意識に息を止めていた。
まさか、と思う。
そんなはずはないと、理性が否定する。
だが、身体は正直だった。
判断が、半拍早くなる。
踏み込みに、迷いが消える。
戻れる。
その確信が、どこからともなく湧いてくる。
その瞬間だった。
視界の端で、敵の動きが跳ねた。
狙いは自分だと分かる。
避けられる。
間に合う。
そう判断したはずだった。
だが。
一瞬のズレ。
ほんの僅かな読み違い。
衝撃が、身体を貫いた。
胸ではない。
腹でもない。
もっと、深い。
内側を直接掴まれたような感覚。
息が止まる。
剣を握った手から、力が抜けた。
足が、前に出ない。
倒れる、と思ったときには、もう遅かった。
地面が近づく。
音が遠ざかる。
誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
声は聞こえるのに、意味が追いつかない。
身体が、言うことを聞かない。
これは。
軽傷じゃない。
その理解だけが、はっきりしていた。
視界の端が暗くなる。
冷たい。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
その最後に。
浮かんだのは、たった一つ。
もし。
もし、今。
後ろに、あの人がいたら。
その考えが、途切れる。
セレナの意識は、闇に落ちた。
生死を分ける境界で。
まだ知らない。
この負傷が、
三年間の待ち時間に、答えを突きつけることを。
そして...
――確かにその日、
レオンは三年ぶりに、
セレナの後衛として第五部隊にいた。
間違いなく、そこにいた。
レオンが治癒魔法を展開した瞬間、後方治癒天蓋の空気が変わった。
倒れていた者が立ち、前線が一気に押し返されていく。
それだけで戦況は逆転した。
しかし、
一時的に第五部隊へ配置されただけの衛生兵だった。
――それを、セレナはまだ知らない。
※あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし何か残るものがあれば、★★★★★で執筆の励みになります。




