第10話 判断
知らせは、朝だった。
第五部隊の詰所は、いつも通り動いている。
紙が配られ、声が読み上げられる。
そこに、感情はない。
「――北西第三圏域。
沿岸都市リオネル。
市街地、壊滅」
それだけで十分だった。
誰も声を荒げない。
誰も驚かない。
遠い街だ。
第五部隊の即応範囲ではない。
分類上は。
セレナは、視線を落としたまま動かなかった。
その横で、空気が止まる。
レオンだった。
書類を見ていない。
声だけを聞いている。
「……三日前」
低い声が落ちる。
「結界の優先展開を求める判断を、提出しています」
一瞬だけ、沈黙。
「通常案件として処理されています」
淡々とした返答。
理由は語られない。
「前線案件ではありません」
「英雄最高医が関与する必要はない、と」
線を引く言葉だった。
レオンは、うなずいた。
「承知しました」
それ以上は、言わない。
報告は続く。
別の街。
別の数字。
リオネルの名は、消えた。
会議が終わり、人が引いたあと。
詰所には、紙の匂いだけが残る。
レオンは、書類を手にしたまま立っていた。
まとめるでもなく、置くでもない。
そこにある。
それだけ。
セレナは、迷ってから声をかけた。
「……大丈夫?」
戦場では使わない言葉。
でも、今はそれしかなかった。
「はい」
即答だった。
けれど、少し遅い。
「ほんとに?」
一歩、近づく。
「優先度、下げられてたでしょ」
「前線案件ではない、と」
「英雄最高医が扱う必要はない、と」
事実だけを並べる声。
感情はない。
セレナの胸が、詰まる。
「それさ」
「判断が軽いんじゃない」
「あんたが、軽く扱われてる」
レオンの指が止まった。
「提出はしました」
「その先は、私の権限外です」
逃げではない。
整理された答え。
「でも」
セレナは、言った。
「街は壊れた」
空気が変わる。
レオンは、すぐに答えなかった。
視線を落とし、呼吸を整える。
「……結果が出た以上」
「私の判断が無関係だとは言えません」
正しすぎる。
だから、苦しい。
「きつくない?」
少しだけ、声を落とす。
「慣れています」
即答。
「重要ではないと扱われることも」
「珍しくはありません」
セレナは、言葉を失った。
「ねえ」
「今も、大丈夫?」
今度は、逃げ道のない問い。
レオンは、少し黙ってから言った。
「……止まってはいません」
「ただ」
「息が、浅いです」
それだけ。
セレナは、それ以上踏み込まなかった。
「……あんたの判断」
「私は、間違ってないと思う」
背を向けて言う。
レオンは、答えなかった。
夜。
詰所は静まり返っている。
机の上に残る書類だけが、白い。
レオンは、一枚ずつ確認していた。
内容は、覚えている。
それでも、目を通す。
確認しなければ、
なかったことにされる。
署名を見る。
確かに、自分の名前だ。
それなのに。
結果は、届いていない。
目を閉じると、
過去の光景が重なる。
発言の前に移る議題。
読まれない資料。
消えた署名。
怒りでも、悔しさでもない。
――削られていく感覚。
声を出しても届かない。
黙っていても存在しない。
それでも、思ってしまう。
自分がいなくても、
世界は回る。
だから。
今回の結果も、
自分の中に引き取った。
英雄最高医として。
人として。
胸の奥に沈む重さから、
まだ、逃げられなかった。
その日の午後だった。
詰所に、英雄管理局の人間が来た。
呼び出しではない。
「確認」という名目だった。
「英雄最高医に、お話を」
肩書きだけ。
名前は呼ばれない。
レオンは、すぐに立ち上がった。
「承知しました」
迷いのない返事。
それが、セレナの神経を逆なでした。
「待って」
思わず声が出る。
英雄管理局の男が、視線だけを向ける。
「団長殿、これは――」
「分かってる」
分かっているから、腹が立つ。
「でも、私も行く」
一瞬、沈黙。
「必要ありません」
即答だった。
冷たい声ではない。
仕事の声だ。
それが、決定的だった。
セレナは、レオンを見た。
止めてほしかった。
でも、彼は首を振らなかった。
――まただ。
また、一人で行く。
セレナは、一歩前に出た。
「なら、話はここでする」
管理局の男が、わずかに眉を動かす。
「場所を移します」
「移さない」
声が、低くなっているのが分かった。
「前線で起きたことを」
「前線の人間抜きで決めるなら」
「それは、もう確認じゃない」
空気が、張りつめる。
「団長殿」
男は、落ち着いたままだ。
「感情的になる話ではありません」
その一言で、何かが切れた。
「感情的?」
笑いそうになった。
「街が壊れて、人が死んで」
「それを“優先度”で片付けて」
「感情の話じゃない?」
声が、震えた。
「英雄最高医の判断を」
「若いから、早かったからって」
「通さなかったのは、誰です」
男は、即答しない。
沈黙。
それだけで、十分だった。
「……いいです」
セレナは、息を吸った。
「分かりました」
一拍。
「そんな国家に尽くすくらいなら」
レオンが、はっと息を呑む。
「私は、団長をやめます」
場が凍りついた。
「第五部隊も、前線を離れます」
管理局の男の顔色が、初めて変わった。
「それは――」
「脅しじゃない」
セレナは、きっぱり言った。
「選択です」
「英雄医一人に責任を押し付けて」
「それで回る前線なら」
「私たちは、いらない」
沈黙が、重く落ちる。
困惑。
計算。
焦り。
それが、初めて見えた。
管理局側は、初めて困った。
その瞬間。
「やめてください」
レオンの声だった。
低い。
でも、はっきりしている。
「セレナさん」
呼び方が、丁寧すぎた。
「これは」
「私の問題です」
セレナは、振り返った。
「違う」
即座に言い返す。
「一人の問題じゃない」
「……なります」
レオンは、静かに言った。
「なってしまいます」
目を伏せる。
「私が判断を出しました」
「通らなかったとしても」
「結果が出た以上」
「責任は、私にあります」
セレナの胸が、締めつけられる。
違う。
違うのに。
でも、分かってしまう。
彼は今、
管理局ことよりも、セレナを気にしている。
迷惑をかけてしまった。
立場を危うくしてしまった。
その自責が、
声の奥に滲んでいる。
「……すみません」
その一言で、すべてが終わった。
誰に向けた謝罪か、分からない。
管理局か。
国家か。
それとも――。
セレナは、何も言えなかった。
怒った自分。
踏み込んだ自分。
脅した自分。
全部が、
彼を追い詰めたかもしれない。
管理局は、結論を出さなかった。
出せなくなった。
「……本件は」
「持ち帰ります」
それだけ言って、去っていく。
残されたのは、二人だけだった。
セレナは、拳を握った。
守りたかった。
それだけだった。
でも。
レオンは、背中を向けたまま言った。
「ご迷惑を」
「おかけしました」
声が、ほんの少しだけ震えていた。
セレナは、息を吸う。
「……違う」
そう言ったつもりだった。
でも、声にならなかった。
二人は、
同じ場所に立っている。
同じ出来事を前にして。
それなのに、
それぞれ別の理由で、自分を責めていた。
夜だった。
第五部隊の詰所は眠っている。
灯りの落ちた廊下を、セレナは足音を殺して歩いた。
どこに行くかは、決めていなかった。
ただ、気づいたら立っていた。
レオンの部屋の前に。
扉の前で、しばらく動けなかった。
昼の会議。
自分の声。
彼の、止める声。
――余計なことをした。
そう思った瞬間、拳が震えた。
ノックは、一度だけ。
「……どうぞ」
中から、静かな声。
扉を開けると、部屋は整いすぎるほど整っていた。
私物は少ない。
机の上には書類。
椅子に腰かけたレオンが、こちらを見た。
「遅くに、ごめん」
それだけ言って、扉を閉める。
一歩、部屋に入る。
二人きりになると、昼間の勢いが嘘みたいに消えた。
セレナは、視線を落としたまま言った。
「……守れなかった」
声が、思ったより低い。
「助けたかったのに」
「余計なことをした」
間が空く。
「ごめん」
短い謝罪だった。
団長としてじゃない。
一人の人間として。
「でも」
顔を上げる。
「あのとき言ったこと」
「本気だった」
「脅しでも、勢いでもない」
レオンは、何も言わない。
否定もしない。
ただ、聞いている。
「それなのに」
セレナは息を吸う。
「結果として」
「レオンを追い詰めたかもしれない」
そこで、初めてレオンが視線を落とした。
しばらくの沈黙。
やがて、ぽつりと声が落ちる。
「……街を」
低く、切れ切れに。
「街を崩壊させた責任は」
「どう取ればいいんでしょうか」
質問じゃなかった。
独り言だった。
セレナの胸が、強く締めつけられる。
レオンは、続ける。
「判断は正しかった」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいです」
「でも」
「結果は、消えません」
顔を上げる。
「だから」
「せめて」
一拍。
「セレナだけは」
「守ります」
静かな声だった。
誓いでも、宣言でもない。
「何があっても」
セレナは、一瞬、言葉を失った。
それから、思いきり息を吐いた。
「……ばか」
思わず、笑ってしまう。
「守るとか、そういう話じゃない」
一歩、近づく。
「責任なんてない」
「間違ってない」
「判断を通さなかったやつのミスだ」
「全部」
勢いが戻る。
「こんな国」
「こんな英雄管理局」
「捨てたっていい」
レオンが、目を見開く。
「王都から逃げよう」
冗談めかして言う。
「冒険者になればいい」
「二人なら、最強のコンビだ」
笑う。
「団長も英雄医もいらない」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
レオンの表情が、揺れた。
だが、すぐに元に戻る。
「……お気遣い」
「ありがとうございます」
そして。
「気を使わせてしまって」
「すみません」
また、その言葉。
セレナの喉が、詰まる。
「……それ」
声が、かすれた。
「本気で言ってるよね」
「気休めじゃない」
目が、熱くなる。
「だから」
「余計に、きついんだ」
セレナは、笑おうとして、やめた。
「……じゃあね」
それだけ言って、背を向ける。
扉を開ける前に、振り返らなかった。
振り返ったら、
今度こそ泣いてしまいそうだったから。
廊下に出る。
扉が閉まる音が、静かに響く。
セレナは、歩き出した。
守れなかった。
でも、逃げなかった。
それが、今の限界だった。
部屋の中で、レオンは一人きりになる。
机の上の書類を見る。
胸の奥に沈む重さは、まだ取れない。
それでも。
誰かが、自分を連れ出そうとしてくれた事実だけが、
静かに残っていた。
しかし、
この世界には、正しく扱われたはずなのに、
それでも救われないまま残るものがある。
※あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし何か残るものがあれば、★★★★★で執筆の励みになります。




