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第1話 配置

 夜明け前の前線は、いつもより静かだった。


 敵はいる。

 圧もある。

 油断できる状況じゃない。


 それなのに。


 第五騎士団団長であるセレナは、剣を握ったまま眉をひそめていた。


「……遅いわね」


 誰に向けた言葉でもない。

 命令でも、報告でもなかった。


 ただ、感覚としての違和感だ。


 本来なら、もう一段押されている時間だ。

 損耗も、もっと出ていていい。


 だが、線が崩れない。


 前に立つ兵の呼吸が、落ち着いている。

 無理に踏ん張っている様子がない。


「戻ってる……?」


 負傷して下げたはずの兵が、列にいる。

 包帯は巻かれているが、歩き方が軽い。


 戦場では珍しくない光景だ。

 だが、今夜は多すぎた。


 早すぎる。


 補給が増えたわけじゃない。

 奇襲が決まったわけでもない。


 なのに、判断が楽だ。


 怖さが、薄い。


 セレナは一歩踏み込み、敵の動きを確かめる。

 深追いはしない。

 無理もしていない。


 それでも、押し返せる。


「……変ね」


 小さく呟いた瞬間、胸の奥がかすかにざわついた。


 懐かしい感触だった。


 前に出ても、後ろが崩れない。

 判断を急がなくても、取り返しがつく。


 理由は分からない。

 考える気にもならない。


 ただ――


 昔、こんな夜があった。


 そう思った瞬間、視界の端がふっと滲む。


 次の瞬間、

 セレナの視界が、音を立てて砕けた。


 何が起きたのか、理解する前に、

 身体が地面に叩きつけられる。


 息が、入らない。


——肺が、潰れた。


―――――――――――――――


 ——七年前。


 セレナが、まだ十五歳だった頃の話だ。


 王都に来た日の空は、やけに高かった。


 石畳は冷たく、剣を持つ手にじんわりと重さが残る。

 田舎の訓練場とは、空気そのものが違っていた。


「……でっか」


 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど子どもっぽかった。


「私語は慎め」


 前を歩いていた教官が、振り返りもせずに言う。


「はいはい」


 返事はしたが、視線は忙しい。


 旗。

 塔。

 行き交う騎士と文官。


 どれも、今まで見たことのない数だった。


 ここが王都。

 ここからが、本当の始まり。


 そう言われても、実感はない。


 十五歳のセレナにとって、

 これは覚悟というより、ただの到着だった。


 整列させられた新兵たちは、王都の訓練場の中央に並ばされた。


 数は多くない。

 年齢も、経歴も、ばらばらだ。


 それでも、全員の背中は硬い。


「名前と登録番号を呼ぶ。呼ばれた者は前へ」


 教官の声は低く、事務的だった。


「セレナ・ヴァレンティス。登録番号、四十七」


「はい」


 セレナは一歩前に出た。

 番号が添えられているだけで、名前はちゃんと呼ばれる。


 ここはまだ、

 人を数として扱う場所じゃない。


「レオン・グラハム。登録番号、四十八」


「はい」


 隣から、落ち着いた声がした。


 反射的に、横を見る。


 ——その瞬間だった。


 背丈は、平均的。

 体格も、特別じゃない。


 鎧も、新品で、よくあるもの。


 なのに。


 ——視線だけが、場違いだった。


 怯えも、虚勢もない。

 自分を大きく見せようともしない。


 ただ、

 この場の情報を、もう整理し終えている目。


 誰が緊張しているか。

 誰が浮いているか。

 どこが詰まりやすいか。


 ——最初から、後ろに立つ人間の目だった。


 セレナは、わずかに眉をひそめる。


「……あんた」


 小さく声をかける。


「剣は?」


「最低限は、扱えます」


 返ってきたのは、丁寧な敬語。


「じゃあ、なんで治癒?」


「必要だと思ったので」


 即答だった。


「変なの」


 正直な感想だ。


 剣を振れるなら、前に出たいと思うのが普通だ。

 十五歳なら、なおさら。


「前に立つの、嫌い?」


「嫌いではありません」


 少し考えてから、続ける。


「向いていないだけです」


 言い切りだった。


 その断定の速さが、妙に引っかかる。


「判断、早いね」


「遅れると、取り返しがつかないので」


 ——十五歳の言葉じゃない。


 それが、はっきり分かる。


「私はセレナ」


「レオンです」


「さん付けは?」


「……外します」


 距離は詰めない。

 でも、引きもしない。


 ——踏み込みすぎない位置を、最初から選んでいる。


 その感覚が、強く残った。


 訓練場に立ったとき、セレナは少し拍子抜けしていた。


 思っていたよりも、静かだったからだ。


 剣が打ち合わされる音も、怒鳴り声もない。

 代わりに聞こえるのは、教官の低い指示と、足音だけだった。


「前を向け」


「姿勢を崩すな」


「勝手に動くな」


 剣を振ることは許されない。

 踏み込むことも、仕掛けることもない。


 足の位置を直される。

 肩の角度を戻される。

 呼吸の速さを指摘される。


 戦うために来たはずなのに、戦わせてもらえない。


 十五歳のセレナには、それがひどくもどかしかった。


 整列がかかり、名前と番号が順に呼ばれる。


「セレナ・ヴァレンティス、三二番」


 一歩前に出て、返事をする。


 戻るとき、隣に立つ少年が目に入った。


 剣を持っているのに、力が入っていない。

 姿勢は正しいが、前に出る気配がない。


「レオン・グラハム、三三番」


 同い年くらいだろうかと思っていたら、やはりそうだった。


 セレナのほうから声をかける。


「よろしく」


「よろしくお願いします」


 返ってきたのは、丁寧すぎる返事だった。


「硬くない?」


「そうでしょうか」


「同い年でしょ」


「はい。十五です」


「じゃあ普通でいいじゃん」


 少年は少し考えてから答えた。


「癖なので」


 感情の起伏がない。

 でも、距離を取っている感じもしない。


 変わったやつだな、と素直に思った。


 訓練が始まると、違いはすぐに分かった。


 セレナは何度も止められる。


 前に出すぎだと言われる。

 踏み込みが早いと言われる。


 横を見ると、レオンはほとんど注意されていなかった。


 動きは小さい。

 だが、無駄がない。


 訓練後、水を飲んでいると、声をかけられた。


「注意、多かったですね」


「うるさいだけ」


「怪我はありませんか」


「ないって」


 自然に聞いてきた、という調子だった。


「なら、大丈夫です」


 それだけ言って、水を飲む。


「ほんとに変」


「よく言われます」


 否定しないのが、また気に入らない。


 数日後、訓練中に足を滑らせた。


 大した転倒ではない。

 だが、膝を打った。


 立ち上がろうとしたとき、声がかかる。


「動かないでください」


 振り向くと、レオンが来ていた。


「立てる」


「今は、立たないほうがいいです」


「なんで」


「腫れ始めています」


 しゃがみ込み、膝を見る。


 触れる前に言った。


「痛みはありますか」


「ある」


「どのくらいですか」


「結構」


「ありがとうございます」


 思わず眉をひそめる。


「なんで礼言うの」


「判断に必要なので」


 意味が分からない。


 だが、言い方は淡々としていて、疑う余地がなかった。


「今日は控えたほうがいいです」


「嫌」


「明日に響きます」


「今日じゃなくて?」


「明日です」


 即答だった。


 その言葉が、少しだけ心に残った。


 今日をどうするかではなく、明日を前提にしている。


 立ち上がると、膝の痛みは思ったより軽かった。


「……楽」


「今は問題ありません」


「変なやつ」


「そうでしょうか」


 本当に分かっていない顔だった。


 それから、並ぶのが当たり前になった。


 訓練の列も、食事の列も、自然と隣になる。


 話す内容は、どうでもいいことばかりだ。


 教官の癖。

 訓練の愚痴。

 今日のスープの味。


 沈黙も、気まずくなかった。


 周囲が少しずつ距離を取り始めても、

 レオンだけは変わらなかった。


 それが特別だとは、まだ思っていなかった。


 ただ、そこにいるのが当たり前だった。


 それからの時間は、穏やかだった。


 訓練は厳しくなったが、理不尽ではなかった。

 前に出る回数が増えても、無茶をすれば止められる。

 判断を誤れば、きちんと指摘される。


 セレナは、そのすべてを素直に受け取っていた。


 ―――前に立つ役割が、少しずつ形になる。


 声をかけられる回数が増える。

 相談されることも増える。

 自然と、後ろに人がつく。


 英雄という言葉は、まだ冗談のように使われていた。

 だが、その響きが軽くなくなっているのは分かっていた。


 それでも、日常は変わらない。


 食事の時間になると、いつもの場所に座る。

 遅れて、レオンが来る。


「今日は忙しかったですね」


「まあね」


「怪我はありませんか」


「ないって言ってるでしょ」


「確認です」


 それだけの会話。


 他愛もない。

 特別でもない。


 でも、セレナは気づいていた。


 周囲は、少しずつ距離を取っている。

 話しかける言葉が、慎重になっている。

 期待と遠慮が、混ざり始めている。


 それに対して、レオンだけは変わらない。


 声の調子も、視線の高さも、立つ位置も同じだ。


 前に立つ自分を見上げもしないし、引き下がりもしない。

 ただ、必要な距離にいる。


 それが、どれほど珍しいことかを、セレナは少しずつ理解していった。


 ―――ある日の訓練後、教官に呼び止められた。


 内容は簡単だった。

 次の編成で、指揮を任せるという話だ。


 断る理由はなかった。


 期待されていることも、責任が増えることも分かっていた。


 それでも、胸の奥に残るのは、不安よりも静けさだった。


 廊下に出ると、レオンがいた。


 いつものように、器具の確認をしている。


「聞いた?」


「はい」


「どう思う」


「妥当だと思います」


 即答だった。


「もうちょっと、驚いてもいいんじゃない」


「もう十分、結果を出しています」


 淡々とした声。


 そこに、余計な感情は混ざらない。


「置いていく気はないから」


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。


 ただ、言わずにいられなかった。


「私は、同じ場所にいます」


 それが答えだった。


 前に行くでもなく、後ろに下がるでもない。

 同じ場所。


 それで十分だと、心から思えた。


 あの頃は、すべてがうまくいっていた。


 戦況も、組織も、人の扱いも。


 少なくとも、セレナの目にはそう映っていた。


 前に立つ自分がいて、

 後ろで支える人がいて、

 それを当然のこととして受け入れていた。


 その中心に、レオンがいた。


 静かで、変わらず、いつも同じ距離に。


 この時間が、続くものだと疑いもしなかった。


 変化は、ある日突然やってきたわけではなかった。


 レオンの名前が、少しずつ掲示に残るようになった。

 治療記録の末尾に、署名として。

 報告書の確認者として。

 判断者として。


 最初は気に留めなかった。


 忙しいのだろう。

 手が足りないのだろう。

 それくらいの感覚だった。

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