第7話 救護部隊着任
初出勤の日。協会本部の救護課は、思っていたよりも静かだった。
白衣の袖を通し、医師証を胸ポケットに差し込んだ桐嶋莉理香は、課長兼部隊長を務める高村の前に立つ。
「桐嶋莉理香です。本日からお世話になります」
短く、しかしはっきりとした声。
高村は机越しに彼女を見やり、ゆっくりと頷いた。
「よろしくお願いするよ。新人とはいえ、現場は待ってくれない。動ける医者は貴重だからね」
その言葉に一礼を返した莉理香は、少しだけ息を整えてから切り出した。
「あの……ひとつ、お願いがありまして」
「ほう、初日から何か?」
「自主訓練を、許可していただきたいんです」
高村の眉がわずかに動く。
「自主訓練?」
「はい。救護課の任務は、負傷者の治療だけじゃなく、現場で安全を確保することも含まれますよね。
だから実際のフィールドで動く練習を、定期的にしておきたいんです」
「……それはつまり、探索に出るということであってるかい?」
「公認の探索者として、医師資格を持った上で。もちろん、あくまで訓練としてです」
しばしの沈黙。
高村は無精ひげを撫で、肩をすくめた。
「……ふつうはそんな物好きはいないが、前線を任せる以上、体で覚えるのも悪くない。
ただし、必ず事前申請と記録提出すること。それを条件に許可しようじゃないか」
「はい、ありがとうございます」
莉理香が深く頭を下げると、胸の奥でラギルが満足げに鼻を鳴らした。
『ふむ、口実を得たな』
(あくまで訓練だからね)
『承知している。“訓練”だとも』
楽しげな声音に、莉理香は小さくため息をつくしかなかった。
***
続いて高村は、長机を囲んでいた隊員たちに視線を向ける。十数人の救護課員の目が、一斉に新入りへと集まった。
「――紹介しよう。今日から我らが救護課に配属された桐嶋莉理香先生だ」
促され、莉理香は前に一歩進み出る。
「桐嶋莉理香です。本日から配属になりました。よろしくお願いします」
その声は落ち着いていたが、わずかな緊張がにじむ。
高村は腕を組み、静かに観察するように目を細めた。
(……若いな)
背筋はまっすぐ、視線も揺れない。だが白衣の下の体は細身で、ぱっと見では現場向きには見えない。
経歴欄には「医師国家試験合格」と並び、「医療枠探索者登録」とも記されていた。
だが――これまでの履歴からは“戦闘”の匂いがまるでしない。
(医師で、しかも探索者資格持ち……? 本当に現場でやれるのか?)
高村の胸中に、そんな疑問がひとすじ過った。
もっとも、それを言葉に出すことはしなかった。現場がすぐに答えを出してくれる――そういう場所だからだ。
「よろしく、桐嶋先生」
軽口を叩いたのは、救護課のベテラン看護師・三浦だった。
明るい声色だが、その瞳の奥には新人を値踏みする冷静さが宿っている。
「うち、病棟じゃないですからね? 現場じゃ血も泥も容赦なく飛びますよ?」
試すような言葉に、周囲の数人もくすりと笑う。
莉理香は一拍だけ息を整え、静かに答えた。
「承知しています。だからこそ、事前に自主訓練をしておきたいんです」
その一言に、救護課の空気がざわりと揺れた。
机に肘をついていた隊員が顔を上げ、別の者が興味深そうに視線を交わす。
「自主訓練?」
「ダンジョンでの動きを身につけておく必要があると考えています。もちろん、公認の探索者として」
強い意思のこもった声。その真剣さに、軽口を叩いていた三浦も思わず目を細める。
前方で腕を組んでいた高村は、顎に手を当ててしばし考え込んだ。
本人の意欲は買うが、紙の経歴だけでは現場適性は判断できない――それが部隊長としての正直な思いだった。
「……そうだな。じゃあまずは部隊内で、桐島先生がどれだけ動けるか見せてもらおうか。
いきなり外に出すのはさすがに無茶だからね」
その言葉を合図に、救護課の面々が一斉にざわめいた。
どこか楽しげに、そして「新入りを試す場ができた」とでも言いたげに、視線が莉理香に集まる。
「先生の身体能力チェックってやつか」
「悪いけど容赦しないよ、怪我しない程度にね」
からかうような言葉が飛ぶが、その目には本気の色が浮かんでいる。
莉理香は一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「わかりました。お願いします」
胸の奥で、ラギルが低く笑う。
『いいぞ。まずはこの群れに牙を見せてやれ』
(牙じゃなくて、動きの確認だからね)
『呼び方の違いだ』
軽く肩をすくめた莉理香の横顔に、緊張よりもむしろ高揚の色が差していた。
こうして、桐嶋莉理香の部隊内テスト――いわば着任初日の“お披露目試合”が決まったのだった。
***
部隊の訓練場は天井の高い体育館のような造りで、片側には遮蔽物やマットがずらりと並んでいた。
輪になった仲間たちの視線を背中に受けながら、莉理香は防具とグローブを装着する。心臓は静かに鼓動しているが、緊張よりもむしろ「見られている」という感覚が胸を満たしていた。
「準備はいいか?」
部隊長・高村が確認する。彼の目には期待半分、不安半分といった色がにじんでいた。
「はい。格闘技経験は少しありますし、身体強化も使えます。あと、回復スキルも」
その一言に、訓練場の空気がざわついた。
「おいおい、新人なのにフル装備じゃねぇか」
「怪我しても自分で治せるとか反則でしょ」
冗談交じりの声の中に、明らかな警戒も混じる。新人がいきなりここまで言い切るのは珍しい。
『言わなくても面白かったがな』
胸の奥でラギルが低く笑う。
(隠してもすぐバレるでしょ。だったら最初に言ったほうがいい)
『ふむ、それも牙の見せ方だな』
対面に立ったのは、救護部隊きっての腕っぷしを誇る巡察部隊兼任の男・山崎。
「じゃあ、お手並み拝見といこうか。手加減はしないよ」
「お願いします」
開始の合図と同時に、山崎が一気に踏み込んだ。
だが莉理香の身体は一歩も引かない。軽く相手の腕に手を添えた瞬間
――重心が浮き、巨体が鮮やかにマットへ叩きつけられる。
「うそだろ……今、ほとんど力入れてなかったよな」
「合気道系か?」
驚きと困惑が仲間の間を走る。山崎本人も信じられないといった顔で起き上がった。
二人目はフットワークの軽い女性隊員。
素早い打撃が次々と飛ぶが、莉理香は紙一重でかわし、懐に潜り込む。
膝蹴りと掌底の組み合わせ――教科書的な制圧のはずが、バンドが悲鳴を上げるほどの圧力を伴っていた。
「マジかよ、この腕力……」
莉理香は軽く息を整えるだけ。顔色ひとつ変わらない。その落ち着きに、視線の色が「新人」から「戦力」へと変わっていくのがはっきりとわかる。
『良いぞ、もっと踏み込め』
(今日はちょっと見せるだけって言ったじゃない!)
『見せ場というものは、派手でなければ』
最後に、山崎が再挑戦を申し出た。
組み合った瞬間、莉理香の握力がわずかに強まる。
金属製のプロテクターが――ぱきりと音を立ててひび割れた。
場が静まり返る。仲間たちの目に、驚愕と同時に「こいつは本物だ」という認識が宿った。
「……お前、本当に医者か?」
山崎が搾り出すように問いかける。
「はい。医者です」
莉理香はまっすぐに答える。その声音には一切の迷いがなかった。
高村はしばし無言で彼女を見つめ、そして苦笑した。
「……まあいい。これで外に出しても簡単に死にはしないとわかった」
場にわずかな笑いが戻る。張り詰めた空気が、安堵と敬意に変わっていく。
『ほら見ろ、牙は効いた』
(牙じゃないってば!)
莉理香は心の中で叫びつつも、どこかくすぐったい誇らしさを覚えていた。