第6話 魂の吸収
帰宅してシャワーを浴びた後、ベッドに倒れ込む。
水滴がまだ首筋に残っているのも構わず、シーツに頬を押しつけた。
指先には、まだスライムの核を砕いたときの鈍い感触がこびりついていた。
胸の奥――竜核が、じんわりと熱を帯びている。まるで内側から小さな火が灯っているようだった。
「……なんか体が軽い」
思わず声に出る。自分でも驚くほど息が深く吸える。肺がひとまわり広がったような感覚。
『莉理香が、あれを壊して魂を取り込んだからだ』
ラギルの声は静かだが、耳の奥に直接響いてくる。
「魂……?」
『中身を飲み込んだ、と言えばいいか。器が割れれば、中は流れる。我らの核がそれを受け取った』
言われてみれば、妙に息が深く吸える。走った後の脚のだるさも、もうほとんどない。
「これって……強くなったってこと?」
『そうだ。莉理香で言うところの、なんだったか……“レベルアップ”だ』
唐突に投げ込まれた単語に、莉理香は思わずベッドの上で跳ね起きる。
あまりにも場違いな響き。
「……なんであなたがそんな言葉知ってるの?」
『莉理香がよくベッドで転がりながらあの板をいじっていただろう。両手で、親指だけ動かして』
「……スマホゲームのこと?」
『そう、それだ。妙に必死な顔で数字を増やし、色のついた宝を集めていた。何度も見たぞ』
ラギルは純粋な観察者のように口にする。だが莉理香にとっては、趣味を暴露されたみたいで居心地が悪い。
熱中していた姿を思い出すと、顔が自然と赤くなる。
「言い方やめて……」
『魂を集めて強くなる仕組みは、あれと似ている。違うのは、こちらは命を賭けていることくらいだ』
その言葉の重みは、現実とゲームの境界を突き破る。背中に汗がじわりとにじんだ。
「……似てるかなぁ」
『ちなみに、魔物の魂は器の大きさによって力の濃さが違う。強い相手ほど濃く、大きい』
「つまり……強い魔物ほど経験値が多い、ってことか」
『うむ。莉理香の言う“ボス”は、だいたい旨いと考えてよいだろうな』
「旨いって言い方やめてってば……」
『事実だ。何十と小物を狩るよりは随分と効率がいい』
「……完全にゲーム脳じゃん」
『莉理香と暮らして覚えたのだが?』
「でも、魂を取り込んだらなんで強くなるの? ただの……なんだろ、霊みたいなもんじゃないの?」
『魂は記憶のかけらでもある。力を持つ者ほど、そこに技と経験が染み込んでいる』
ラギルの言葉が落ちるたびに、胸の奥の熱が脈打つように応える。
自分の中に異質なものが混じっている――そう思うと、少し怖い。
「じゃあ、今の私って……」
『少しだけ、あのスライムの“生存戦略”を覚えたはずだ。まあ、あまりにも微力で役には立つとは言えないが』
「立たないんだ……」
肩の力が抜ける。スライムが少しかわいそうになった。
『だが、もっと強い相手なら違う。筋肉の使い方、呼吸の仕方、力の流れ――そういうものが核に溶け込む』
「あ、それちょっとチートじゃない?」
『そなたの世界で言うなら、“パッシブスキル?”が増える感じだな』
「ああ、またゲーム用語……」
『わかりやすいだろう?』
ラギルの声は、淡々としているのに、どこか楽しげだ。
まるで莉理香の反応を観察して喜んでいるようでもあった。
「でも、人間ってそんな急に強くなれないよね」
『人は自らの肉体を作り替えるのに時間がかかる。だが、我らは魂から形を変える。土台から別物にできる』
「……私も?今そうなってるの?」
『莉理香はもう、人の境をまたいでいる。だから変化に必要な時間も短く、大きい』
「じゃあ、成長速度は……」
『それは莉理香次第だ。魂を食らう数と質。それがたどる道の長さを決める』
可能性を告げられたのに、心の奥がふと冷える。
選択次第で、どこまででも行けてしまう――それは、怖さと同時に抗えない誘惑だった。
「……強くなりたいって思ったら、やっぱり強い相手を探すべきなんだ」
『そうだ。そして、強い相手とぶつかるには、まず生き残ることだ』
ラギルの声は、あくまで冷静だった。けれど、その言葉の奥には千年を越える獣の理がにじんでいて、莉理香の背筋をひやりと撫でた。
「それは……わかってる」
言葉にした瞬間、胸の奥で竜核が熱を帯びる。
望めば望むほど、その熱が強まっていく気がして――怖いのに、どこか心地いい。
『ならば良い。命あってこその“経験値”だ』
その口調は厳しいのに、どこか安心感もあった。
親のようでもあり、師のようでもあり、時折ただの皮肉屋にも聞こえる。
「でも、これからもどんどん強くなれるの?」
『なる。だが、今のそなたはまだ“燃料”が足りん』
「燃料?」
『魂の力だ。竜爪や竜鱗のように単純な動きは最低限の力で出せる。だが、もっと複雑で大きな力を動かすには、より濃く大きな魂が要る』
「じゃあ、できないことも多いってこと?本当はもっと色々できるはず?」
『多い。翼を生やすことも、息で熱を放つことも、今はできぬ。
――だが、風だけはまだ動かせる』
「……風を?」
現実離れした言葉に、莉理香は布団を握りしめた。
けれど同時に、心の奥のどこかでぞわりとした高揚感が湧き上がる。
『本来ならな。だが、莉理香の核はまだ小さく、力も欠けている』
「欠けてるって……どういうこと?」
足りない、未完成――その指摘は図星で、逆にどうしようもなく悔しい。
『私の器も半ば崩れた状態で、莉理香に流れ込んだ。形を保つので精一杯だ。だが、魂を喰らえば、器も補える』
「つまり、強い魔物を倒すほど……できることが増える」
『そうだ。そして増えた力は、莉理香の肉体と意思に馴染む。私の力が莉理香の技となる』
想像しただけで、ぞくりとする。
自分が竜の力を振るう姿――あり得ないはずなのに、リアルすぎて笑えなかった。
「技って……今は具体的に何ができるの?」
『竜爪、竜鱗、防御結界の応用、そして多少の治癒。あとは感覚の拡張ぐらいだな。
――そして風。これは私の固有の力で、まだ扱える』
「風……」
莉理香はそっと手を伸ばし、意識を集中する。
指先に、かすかな空気の流れが集まり、そよ風となってまとわりついた。
ほんの少しの動きにすぎない。けれど、現実に風が“応じた”事実が心をざわつかせる。
「……これ、できた。弱いけど」
『今はそれで十分だ。魂が満ちれば、もっと自在に動かせるようになる』
扇風機の微風程度――だが莉理香は逆に、そこに現代人ならではの応用の可能性を感じ取っていた。
「……じゃあ、少しずつ集めていこう」
『うむ。それが“ゲーム”で言う、育成だ』
「最後までゲームに例えるつもりなんだ……」
ため息まじりに呟くが、内心ではその比喩が一番わかりやすいと思ってしまっている自分が悔しい。
「自分がゲームのキャラクターみたいになると思わなかったよ」
ふと、さっきから気になっていた疑問を莉理香が口にする。
「ところで、あのスライムだけで……なんか体が十分軽いみたいなんだけど?
スライムって低位でしょ? あんなのでも?」
『当たり前だ。0と1は違う。何もない器に初めて水を入れたようなものだ。
低位でも魂は魂だ。お前の核は空に近かった。そこに一滴でも流れ込めば、動きも視界も変わる』
「……だから、今日はやたら足が動いたのか」
『そうだ。呼吸も深くなっているだろう? 体が戦う形に近づいた証だ』
「なんかもう、スポーツドリンク飲んだような話だけじゃ説明できない回復力なんだけど……」
『それが魂を食らうということだ。だが、まだ一滴。すぐに乾く』
「じゃあ、もっと……」
『欲しくなるか?』
「……正直、ちょっと」
胸が熱くなる。恐怖よりも先に、好奇心と欲望がにじみ出してしまう。
自分がこんな性格だとは思わなかった。
『良い傾向だ。だが焦るな。次はもう少し旨い相手にしよう』
「旨いって言うな」
顔をしかめて言い返すが、頬は熱いままだ。
「……でも、一人でまた潜るのは……さすがにまずいよね」
『なぜだ』
「だって、医師になる前からダンジョンにソロで行ってたなんて知れたら……完全に変な人扱いだよ」
『変ではない。強くなる者は皆そうしてきた』
「ここは現代日本なんだよ……そういう人は職場で浮くの!」
とはいえ、このまま力の変化を放置するのも落ち着かない。
動きのキレ、呼吸の深さ、体の軽さ。全部が新しい。
もっと試したい、もっと掴みたい――その欲求が、胸の奥で膨らみ続けていた。
「……着任してからなら、“自主訓練”って言えるか」
『ふむ。人の目を避けるための方便か』
「方便っていうか……堂々とやれる口実だね」
『良い。口実は大事だ。ではそれに乗じて魂を増やそう』
「あくまで“訓練”だからね」
『うむ、“訓練”だ。昔、狩りのことをそう呼んでいた』
「それ絶対訓練じゃないやつでしょ?」
ベッドの上で顔を覆いながら、莉理香は苦笑した。
でも同時に、その未来が現実味を帯びて迫ってくる。
医師として勤務しながら、休暇やシフトの合間に探索。
しかも公認の「アルバイト」としてなら、誰からも咎められない。
その案が、胸の奥で静かに形を取り始めていた。