第5話 新人探索者
新人研修の模擬戦を終えた翌日、莉理香は個別に行われる「ゲート内実習」のため、協会本部の実習フロアへ向かっていた。
今日は引率者つきで、第一層の安全区画を短時間だけ歩き、装備や行動手順を実際に確認する。
湿った魔素の匂いが肺の奥に薄く残り、ひと呼吸ごとに体温が半歩だけ下がる気がした。ゲート前、協会の透明パネルが青に変わる。桐嶋莉理香は、少し震える手で胸の留め具を一段きつく締めた。
「協会認定・ダンジョン救護部隊、桐島莉理香さん。登録証を読みますね」
受付職員がカードをスキャンする。その間、莉理香の視線は自然とロッカーの“赤ラベル”へ向かう。〈要免許・貸与銃器〉と記された区画。黒いケースの横には“発砲記録装置・損害賠償・回収必須”の注意書きが貼られている。弾薬箱の角には“魔素加工弾”の白いシール。値札は伏せられているが、数字の重さだけが透けて見えた。
――今回は医療パックとスリングショット。それで十分だ、と莉理香は判断する。
『銃というのは、爪よりも遠くを噛む道具だろう? なぜ皆、嫌うんだ?』
(嫌ってはいないよ。ただ、撃つたびに全部ログが飛ぶの。誤射は個人責任。だから一般の探索者は持たないだけ。それに、魔素コーティング弾頭じゃないと威力が出ないし、その弾も高額で持ち出し制限が厳しい)と、莉理香は心中で答える。
『ふむ。理解した。……が、意味がわからない』
(そもそも私達なら銃いらないでしょ?)
そんな内なる会話を続けながら廊下を進むと、すれ違いざまにベテラン探索者と目が合った。年季の入った装備を身に着けた、頭頂部が陽光を反射する男は、短く助言をくれる。
「今日は湿気が強いから、金属部品は滑りやすいぞ。気をつけろよ」
莉理香は思わずうなずき返した。現場の人間からの一言は、案内板の記載よりもずっと頼りになる。――もっとも、滑るのは金属だけではないらしく、男の額の光沢も湿気でいっそう増していた。莉理香は口元をわずかに引き結び、笑いを飲み込む。
「おーい、新人さん!」
片手剣を肩に担いだ加納が、ロビーから手を振った。隣には弓の美由紀。今日の即席パーティはこの三人だ。
「緊張してる?」
美由紀が莉理香に声をかける。
軽い調子だが、視線は莉理香の足取りや表情をさりげなく確認している。
「やっぱり少しだけ緊張してますね」
「大丈夫。今日はショートルート往復、危険行為なし。……ついでに配信も回ってるから、変なことしたら一瞬でバズるぞ」
いつも現場で新人を預かる時と同じ口調で加納が続け、軽く口角を上げた。
「そういう脅し方やめてくださいよ」
莉理香は苦笑しながらも、少し緊張がほぐれたのを自覚した。
『配信とは、この前見ていたものだな?』
(なんだかすごく興味持ってたよね)
フィールド障壁が波のように揺れ、空気が一段深く落ちる。石畳の温度は外気よりも冷たいのに、掌の内側はじんわり汗ばむ。
《配信入った》
《今日の新人、医療枠?》
《前線に出る支援系医療職ってトレンドだよな》
第一層“静かな洞”。音が吸われ、呼吸音まで自分の内側で響く。壁の結晶は心臓と同期するみたいに明滅し、足音が魔石灯に細く揺れる。
『右が良さそうだ。左は空気が淀む』
(了解、でも私先導じゃないよ?)
「新人さん、左は足元の苔が湿ってるから滑る。右のほうが安全だ」
加納が短く声をかける。その一言を受けて、美由紀が自然に右寄りへ動き、後方から莉理香の足運びを見守る。二人の動きは、あらかじめ打ち合わせていたかのように噛み合っていた。
角を曲がると、床を這う影が三つ。ゼラチン質の低位個体のスライムだ。
「距離、取って破砕!」
加納が前へ踏み出し、美由紀が射線を確保。莉理香は淡い光膜の防御を展開し、スリングショットに魔素石を載せる。
『風が右から』
(助かる)
ぱしゅ、と乾いた音が洞内に響いた。核を穿たれたスライムが崩れ、酸の飛沫を加納のガントレットがはじく。二体目は美由紀の矢、三体目は加納の踏み込みで仕留められた。講習で見た“教本どおり”が、現場でも通用することを実感する瞬間だった。
「ナイス、新人」
「偶然です」
息を整えた、その時だった。
崩れたスライムの核が光を失う刹那、何かが胸の奥へと流れ込む感覚があった。熱でも冷たさでもない、もっと根源的な“存在”の欠片が自分の内側に吸い込まれていく。
(……今の、なに?)
『魂だ』
(魂?)
『ああ。魔物の核には、その生き物の魂が宿っている。核が砕けた瞬間、お前の中の竜核がそれを吸い上げた』
(……そんなの、人間は知らないよね)
『知らんだろうな。人間には核がない。受け止める器がないからだ』
(じゃあ、これって私とラギルだけの……)
『ああ。お前の核は、私とつながっている。取り込んだ魂はそこに蓄えられる』
胸の奥が、微かに重く、そして温かくなる。
それが力になるのか、別の何かなのか――今はまだ、わからなかった。
奥へ進むほど、結晶の密度が増す。壁の黒い筋に沿って静脈のように光が走り、天井の亀裂から白い霧が降りる。
『上。三本目の結晶、緩い』
「上注意、三本目緩いです」
「よく見えてるね、君」
きぃん――針で突いたような高音。すぐ後、ざらざらと砂を撒いたように天井が崩れた。加納が剣の腹を盾代わりに差し込み、莉理香も身を低くする。皮膚の下で線維が固くなり、骨がきしむ。……“普通の防御スキル”の範囲で収めた。
崩落は罠の前触れだった。床の一帯が粉状結晶で摩擦ゼロの帯になっており、踏めば連鎖的に滑落する。
『右壁、手の幅の凹みが続いている。そこは摩擦が違う。人の通った跡だ』
「右壁伝いで、三歩間隔の凹み。私、先導します」
「頼んだ」
三点支持でじりじりと進む。靴底がわずかに鳴るたび、視界の端でコメントが跳ねた。加納は背後から進路を確認し、美由紀は矢をつがえたまま周囲を警戒する。――新人を無事に帰すこと。それが、二人にとっては戦果以上に大事な任務だった。
《壁伝い、正解ムーブ》
《新人、落ち着いてるなぁ、というか腕力すごくね?》
《配信映えするけど真似厳禁なやつ》
摩擦ゼロ帯を抜けた先で、三人はほっと息をついた。莉理香は水筒を口に運び、金属味が舌に心地よく広がるのを感じる。と、その時、腰の協会端末が震えた。前方小広間に“反応”。しかも複数だ。
「よし、行くぞ!」
加納が短く告げる。声は落ち着いていたが、わずかに戦闘への集中が増したのが分かった。
広間はすり鉢状で、中央に黒い柱。床には溝が円を描く。その暗がりから、節の多い脚がぞわりと這い出た。甲殻に紫の紋。刃のような口器が開閉する。飛行昆虫型の“地走り”――狭所では跳躍と斬撃を得意とする厄介な中型だ。
「中型、来るぞ!」
加納の声に、莉理香は結界を張り直す。美由紀はすかさず矢を連射するが、矢は節の間で滑られてしまう。加納は角度を変えて間合いを詰める。
『顔面ではなく、口の付け根。薄い膜を狙え』
(正面からは無理だよ)
『左後方の柱、上から二段目を蹴れ。崩れた石が砂となって奴の視界を曇らせる』
(やってみる)
莉理香は柱へ走り、蓄えた力を足へ込めた。骨が鳴り、石が砕ける。砂が霧のように舞い、大型がわずかに目を細めた瞬間――
「今!」
加納が鋭く指示を飛ばす。美由紀の矢が薄膜に吸い込まれ、地走りの跳躍角度が半歩ずれた。その刃が斜めに当たり、欠けた瞬間を逃さず、加納の剣が関節の隙間を突く。莉理香も追撃でスリングショットを二連射。甲殻が硬く震え、溝の砂がさらさらと崩れた。
《今なにやった?》
《この新人、ほんとに新人?》
《すげー蹴りだったぞ》
戦闘後、三人は撤収に移る。再び摩擦ゼロ帯を抜け、崩落地点をやり過ごし、薄明かりが強まる方へ。やがてフィールド障壁が外気と触れ合い、現実世界の騒音が戻ってきた。
「おかえりなさい。お疲れさま!」
管理ブースの職員が笑顔でタブレットを掲げる。ログは全件問題なし。配信のハイライトも既に切り出され、再生数は新人参加の初回としては破格だという。
「今日は第一層の湿度が高めで、足元を取られた人が多かったんですよ。よく切り抜けましたね」
その言葉に、莉理香はさっきのベテラン探索者の助言を思い出す。あの短い一言が、結果を変えた。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げると、背後で加納と美由紀が目を合わせ、静かに頷き合った。――この新人は、確かに伸びる。二人の中に、そんな確信が芽生えていた。
***
駅へ向かう歩道に影が伸び、ビルのガラスに赤が差す。胸の奥で、相棒が小さく喉を鳴らした。
『今日は悪くなかったな。久々に、ちょっと楽しかった』
(そう? 隣にいてくれるだけで助かってるよ)
『なら、明日はもっと面白くしてやる』
(……あんまり無茶はしないでね)
思わず笑いながら、横断歩道に足を踏み出す。長く伸びた影の中、一瞬だけ翼の形が重なったように見えた。
わたしだけが知る秘密は、胸の奥で静かに息づいている。
――明日も、この場所で。秘密の相棒と一緒に。