第49話 異教の願い
とある国の小児病院。
白い壁に囲まれた集中治療室のベッドで、小さな男の子が苦しげに息をしていた。呼吸補助の機械が不規則に鳴り、医師や看護師が必死に支えている。だが進行性の疾患で、処置には限界があった。
その枕元に、慰問に訪れていた一人の中年神父が静かに歩み寄った。
長年この地で人々を支えてきた人物であり、敬虔な信仰心と誠実な働きぶりで、街の人々から深く慕われていた。
「……どうか、この子に癒やしを」
両手を組み、低く祈る。
その祈りは、ただ自らが仕えてきた神へと捧げられたものだった。彼の頭をよぎったのは、ほんの一瞬、数日前に新聞で見た記事――「日本に、奇跡を起こす若い救護員がいる」という噂。その名は桐嶋莉理香。だが彼は首を振り、心の中でその雑念を退けた。自分が頼るのは、あくまで信じる神のみであると。
――次の瞬間。
少年の呼吸が驚くほど楽になった。
苦悶にゆがんでいた顔が安らぎを取り戻し、モニターの数値がみるみる正常値へと近づいていく。
「な……!?脈が安定した!」
医師や看護師が叫び、慌ただしく数値を確認する。
少年の胸は規則正しく上下し、青ざめていた頬に血色が戻っていった。
「奇跡だ!」
「神が応えたのだ!」
室内に歓喜の声があふれる。
しかし祈りを捧げていた神父自身は、額に汗を浮かべていた。胸の奥に、まるで誰か別の存在から視線を受けたかのような感覚が走ったのだ。
(……今、私は確かに我が神に祈った。だがなぜ――異国の若い女性の影が脳裏をかすめた?)
その名は、彼が一瞬だけ思い浮かべた存在。だが、祈りの対象は違うはずだ。違和感と戸惑いが、心に重く残った。
数日後。
その国の宗教評議会は騒然となっていた。
「神父の祈りが異教の存在へ通じていたなど、あってはならん!」
「だが現実に、病の子供は回復した。これは事実だ!」
「それは我らの神の御業だ! “竜神リリカ”と呼ばれる存在の仕業と認めるのは冒涜だ!」
議場には怒号と動揺が飛び交う。
異教そのものを完全に排斥している国ではなかったが、よりにもよって自国の聖職者の祈りが「別の存在」に拾われた可能性は、神学的に大問題だった。
机を叩く神学者もいれば、冷静に首を振る者もいる。
「……だが、祈りの瞬間に子供が癒えたことは事実。医学的にはあり得ない現象であることは、その場にいた医師たちが証言している」
「人々はすでに“奇跡”と呼んでいる。この事実を否定すれば、我らの立場こそ揺らぐのではないか?」
政治家たちもまた、頭を抱えていた。
国民は熱狂し、SNSには《#癒やしの奇跡》《#新しい聖女》といったタグが乱立している。だが同時に、国教たる宗教と異国の若い女性――しかも信仰を必要としない“竜神リリカ”の名が同列に語られることは、あまりにもまずい。
問題の神父は、静かに証言を繰り返した。
「私は我が神に祈ったのです。ただ……その瞬間、なぜか彼女の姿が頭をよぎった。信仰を裏切るつもりなど毛頭ありません。しかし――子供が癒えたのもまた事実なのです」
真摯な言葉は逆に議場をかき乱した。
宗教家たちが顔を紅潮させ、科学者や医師が冷静な資料を掲げ、政治家が頭を抱える。
――ただ一つ、誰も否定できない事実がある。
莉理香は、祈った者を拒まず、無意識に力を貸してしまったのだ。
その力は、信仰の在り方や宗教的序列とは無関係に働く。
だからこそ、人々にとって救いであり、同時に恐るべき存在として映り始めていた。
異教の信仰を必ずしも排斥するものではないが、よりにもよって宗教家の願いを異教どころか信仰を必要としない“竜神リリカ”が願いをほいほいと叶えてしまった。
しかもそれは結果だけ見れば“誰もが望む”形で――。
***
時を置かず、日本政府にも問い合わせが殺到した。
「《竜神》桐嶋莉理香の加護は、特定宗教に依存するわけではないのか」
「我が国の宗教信仰者が“彼女を通じて奇跡を得た”という報告がある。これはどう説明するのか」
各国大使館から届く文書には、驚愕と困惑と、そして嫉妬に似た感情が滲んでいた。もし本当に宗派を問わず“願い”が通じてしまうのなら、それは既存の信仰体系を根底から揺さぶる。担当官たちは、外交よりもむしろ宗教問題としての爆発力に震えていた。
「……これは単なる外交案件ではありません。宗派を問わず願いを叶えてしまうとなれば――国際的な信仰秩序を崩壊させかねないのです」
誰もが頭を抱え、結論を出せないまま会議室の空気は重く淀んでいった。
***
そのころ、救護課の休憩室。
莉理香は机に突っ伏し、頬を腕に押し付けながらスマホを覗き込んでいた。ニュースアプリの見出しには、いつも通りに自分の名前がタグになって流れている。
“奇跡”
“神の代行者”
“(「・ω・)「イヤスゾー”
「……また私のせいで大騒ぎしてる……。いや、祈られたら勝手に応じちゃうんですけど……」
小さく呻きながら、画面を指でスクロールする。その表情は困惑と自嘲で曇っていた。
胸奥で、低く重い声が響く。
『莉理香、お前は信仰の形を問わぬ“竜神”だ。善き願いであれば、それに応える――それが理よ』
「……余計迷惑じゃないですか、それ……」
彼女の嘆息に、ラギルはくぐもった笑いを返した。
『神など皆、迷惑なものだ。求められぬ時にも応じ、秩序を乱す。だがそれでも人は祈る。そしてお前は応える。それだけのことだ』
莉理香は顔を両手で覆い、呻いた。
「……だから神様とかやめてくださいって……」
――東京・協会の会議室。
長旅の疲れを隠しながら、一人の神父が席についた。
彼はあの“願いが叶った”現場に居合わせた人物であり、さらに国家の代表として派遣された使者でもあった。背筋を正す姿は厳粛そのものだが、その目にはまだ消えぬ困惑が宿っている。
やがて扉が開き、莉理香が入ってくる。
黒髪を後ろでまとめ、地味なスーツを着た彼女の姿は――どう見ても「神」などではなかった。
「……はじめまして、桐嶋莉理香……様」
神父は深く礼をした。
だが顔を上げた瞬間、彼は戸惑いを覚える。
目の前にいるのは畏怖を誘う超越者ではなく、人懐っこい困り顔を浮かべる若い女性だったからだ。
「えっと……このたびは、本当に申し訳ありません。勝手に願いを叶えてしまって……」
莉理香は頭を下げる。
その素直すぎる謝罪に、神父は思わず苦笑を漏らした。
対話は穏やかに始まった。
神父は自身の体験を語る。祈りが通じ、子供が癒えた瞬間の震えを。
神学者としての混乱と、だが目の前の「竜神」が驚くほど人間らしいことへの驚きを。
「あなたを前にすると……“神”というより、一人の若い娘さんにしか見えません」
「だから言ったじゃないですか、私、神様なんてやめてくださいって……」
莉理香は肩を落とし、頬を指でかきながら呟いた。その仕草は、どう見ても“普通の人間”そのものだった。
神父はしばし考え込み、やがて静かに提案する。
「もしよければ――願いに“フィルター”をかけてはどうでしょう。
すべてに応じるのではなく、本当に必要なものだけに応じる。
我々宗教者も、祈りに導きを求める際は“選別”を意識します。
あなたが神であるなら……いや、神でいたくないとしても、その加減はできるのでは?」
莉理香は目を瞬かせ、思案に沈んだ。
胸奥で竜核が脈打ち、ラギルの声が低く囁く。
『……なるほど。人間が竜神に助言とは滑稽だが……言っていることは理に適っているな』
「……やってみます。全部を叶えるんじゃなくて、本当に必要なときだけ……」
莉理香の返事に、神父は安堵の笑みを浮かべた。
「ええ。それができれば、あなたは“迷惑な神”ではなく“慈しみの神”でいられるでしょう」
帰り際、神父はふと足を止め、振り返った。
「……あなたが“神でいたくない”と願っていること、よくわかりました。
私がこの課題を宗教家として持ち帰りましょう。
――むしろ、“願いをかなえる自然現象”と考えた方が健全かもしれませんね」
莉理香はきょとんとした表情のまま、少しだけ笑った。
「自然現象……それ、いいですね。私も雷とか地震みたいなもので」
神父も微笑を返し、深く一礼して会議室を後にした。
静まり返った部屋に、ラギルの声が響く。
『……神に“自然現象であれ”と言い切るとは、なかなか面白い人間だな』
「……ね。神様らしくないのかもしれないけど、ちょっと気が楽になりました」
莉理香は椅子に座り込み、肩の力を抜いた。
――神と呼ばれながら、誰よりも人間らしくありたい。
莉理香は、そんな自分の望みを、少しだけ世界に肯定された気がした。




