第42話 新世代精霊術師、始動
研究室の空気は、冷房が効きすぎているにもかかわらず、どこか熱を帯びていた。
しかし、その光景以上に張り詰めていたのは、机を挟んで向かい合う二人の人間の視線だった。
「……桐嶋さん。あなたは知っていますか?」
榊の声は少し低く、しかし興奮を隠しきれない声だった。
莉理香は、思わず瞬きをする。
「世の中には、素養があるのに精霊と契約できない人間が、大勢いるんです」
唐突な言葉に、莉理香は小さく息を呑んだ。
「……精霊と契約できない……? 素養があっても?」
「ええ」
榊は強く頷く。
「波長が合わない。あるいは適性を満たしていても“縁”を得られない。そんな理由で、本来なら力を発揮できたはずの人々が、凡人のまま埋もれていってしまうんです」
榊の手が資料を指し示す。
能力試験で高い数値を示しながらも精霊契約に至らなかった者たちの観測値。
それは数字の羅列に過ぎないのに、「もし力を得ていたら」という無念が、声なき叫びとなって滲み出ているように感じられた。
「ですが――あなたが現れた」
その声は震えていた。恐怖ではなく、確信と昂揚で。
「あなたは彼らの媒介になり得ます。精霊ではなく、あなたを通すことで、彼らは術を発現できるはずなんです。しかも、通常の精霊契約とは同等以上の規模で!」
榊の言葉に、莉理香の胸は大きく波打った。
確かに莉理香は精霊ではない。
それでも榊との実験では、莉理香と契約すれば相手の術は安定して行使することができ、安定した出力が得られている。そして必要な契約自体も莉理香が相手であれば、意思のすり合わせは精霊よりも容易で、調整も迅速だった。
その瞬間、胸奥でラギルの声が鋭く響いた。
『……莉理香よ、気を良くするな。人間がお前を“道具”として見る可能性がある。精霊の代用品――そのような扱いは我には許しがたい』
だが莉理香は、胸の内で小さく首を振った。
榊が口にした「契約できなかった人たち」。
救護課で見てきた新人探索者の顔が、幾人も脳裏に浮かぶ。
力を持つ可能性がありながら不遇に沈む。
かつて自分も、竜核を宿さなければ凡人として終わっていたかもしれない。
その思いが、彼女の心を静かに揺さぶった。
長い沈黙ののち、莉理香は口を開いた。
「……私は、まだ決められません」
言葉は静かだが、芯があった。
榊の期待に即答で応えることはできない。だからこそ、自分の言葉を選び抜いた。
「その人たちを実際に見て、話して……それからです。私が力を貸すかどうかを決めるのは」
研究室の時計が、かちりと音を立てる。
その音がやけに大きく響いた。
榊は一瞬、目を見開き――やがて小さく笑みを浮かべ、頷いた。
「……なるほど。あなたらしい答えですね。人を知り、人を見てから決断する……それが桐嶋さんだ」
その声音には、落胆よりも安堵に近いものがあった。
科学者としての自分が暴走しかけていたことを、彼女の人間らしい視点が引き戻したのだと、榊は悟ったのかもしれない。
胸奥で、ラギルが鼻を鳴らした。
『……甘いな。だが、それがお前だ。ならば見極めるがいい。お前が信じる“人”とやらを』
莉理香は静かに拳を握った。
福音と呼ばれるか、道具と呼ばれるかは正直あまり関係ない。
自分の目で人を見て、耳で声を聞き、心で決める。
それが、桐嶋莉理香の選ぶ道だった。
――数日後
協会の研修棟、その一角にある静かな会議室。
ここに招かれたのは、ほんの数名の男女。十代後半の若者から、三十代半ばの社会人まで、年齢も背景もばらばらだ。
だが、一様に背筋を正して座るその姿は、不思議な統一感を帯びていた。
皆、どこか真面目で、清潔感のある眼差しをしている。派手さも野心もない。ただ、長い時間を越えてなお消えぬ真剣さが、彼らの所作ににじんでいた。
「……彼らは精霊術師として十分な素養があります。しかし、精霊との相性が悪く、契約は成功しませんでした」
榊の説明が室内に響くと、数人の顔がわずかに俯いた。
彼らは劣等感からではなく、ただ淡々と事実を受け止めるように――しかし、それでも小さな痛みを押し隠すように言葉を口にした。
「……才能があるって言われ続けました。でも、結局、何もできなくて」
「探索者にも、救護員にもなれませんでした。だから今は、普通の仕事をしています」
声には卑屈さはない。だが諦めの影が淡く滲み、長い年月の努力と落胆がそこに折り重なっていた。
莉理香はしばし黙し、そして一人ひとりに視線を向けた。
その瞳は真っ直ぐで、柔らかく、どこか医師として患者を見つめるときのそれに似ていた。
「……すごいですね」
彼女は静かに微笑んだ。
「ここに来るのも、勇気が必要だったでしょう」
わずかな一言。だが、その瞬間、俯いていた者たちの目が潤み、揺れた。
励ましでも慰めでもない。彼女が言ったのは“存在そのものを認める言葉”。
力を得られなかった自分たちの選択が無駄ではないと、初めて肯定されたかのように。
誰もが善良さと誠実さを滲ませていた。
力を求めて努力した。けれど縁を得られず、諦めざるを得なかった。
その悔しさが、静かな空気の底に沈んでいた。
胸奥で、竜核がわずかに震える。
そして、ラギルの声が、警告のように響いた。
『莉理香……こやつらはお前に縋るつもりだぞ。媒介として、お前を利用しようとしていることに違いはない』
(……でも、ラギル。見てよ)
莉理香はそっと心の中で返した。
彼らの目は濁っていない。
権力を欲する者のような貪欲さもなければ、支配欲の暗さもない。
ただ「力が欲しかった」と、真っ直ぐに語る。
それは誰かを傷つけるためではなく、人を救い、社会の中で自分の役割を果たすための力だった。
『……む』
ラギルは低く唸った。
少し威圧のこもっていた声色が、次第に調子を落としていく。
『……確かに、目は濁っていないか。欲する理由が利己ではなく利他。……ふむ。珍しいものだ』
(そう。だから、私が決めたいの。誰に、どこまで力を貸すかを)
彼女の決意を受け、ラギルはしばし沈黙した。
やがて鼻を鳴らし、諦め半分に呟いた。
『……まったく、お前は甘すぎる。だが――悪くはない』
莉理香は深呼吸を一つし、目の前の人々を見渡した。
その瞳には、覚悟が宿っていた。
「……私は精霊じゃないから、本当の意味での“精霊術”にはなりえません。だから万能ではないし、限界もあります」
彼女の声に、男女の肩が小さく震える。
だが、次の言葉を聞こうと、必死に耳を傾けていた。
「でも――もしみなさんが望むなら。少し、力を貸してみたいと思います」
静寂が落ちる。
そして次の瞬間、室内の空気は一変した。
驚き、戸惑い、そして涙をこらえるような安堵。
積年の悔しさが溶け、微かな希望が差し込んだ。
榊はその様子を見て、目を輝かせた。
机の上で拳を固く握りしめ、抑えきれない熱を声に変える。
「……ありがとうございます……! 桐嶋さん。これで、彼らに新しい可能性を示せます」
莉理香は小さく笑い、胸奥に生まれる不安と期待の両方を抱きしめながら呟いた。
「……やってみましょう。あなたたちの未来を私の目で、確かめたいから」
――怪物でも女神でもなく。
ただ、自分の意志で人と向き合う一人の救護員として。
この日が――後世の史書において「新世代の精霊術師の始まり」と記される最初の一歩であった。
当時、それが精霊術の歴史を変える転換点になると予想していた者はほとんどいない。だが、この小さな対話と決断こそが、後に数多の精霊未契約者に光をもたらす礎となったのである。




